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「彼女いない歴=年齢」という病について

 クリスマスムードに浮かれる平和な世間を尻目に、僕は今年もいわゆる「クリぼっち」が確定した。1人でクリスマスを過ごすのはもう何回目だろう、もう数えるのも嫌になる。別にキリスト教徒でもないのに、と強がってみたくもなるが、どうやらそんなノリが通用しないほど年を重ねてしまったようだ。

 とはいえ幼い頃はクリスマスのプレゼントをすごく楽しみにしていたし、その時の高揚感が今も脳の片隅に残っているのか、スーパーで見切られたケーキとかオードブルを買ってきては、自宅で1人ささやかなクリスマスパーティーを開くのが毎年恒例になっている。

 今年のイブは日曜日、次の日は仕事だから、イブの前日(つまり今日)にクリスマスチキンを調達してアニメを見ながら深夜まで飲んだくれるつもりだ。街に出るとカップルや家族連れだらけで自分の惨めさが身に沁みるが、自宅に引き籠って美味いものと酒を前にして迎えるクリスマスは悪いものではない、むしろ楽しみで仕方ないぐらいだ。

 クリスマスが終わったら今度は正月である。今年は(片手で数えるほどの)仲の良かった同級生から声をかけられているし、久々に実家で年を越すことになると思う。が、クリスマスと比べると、残念ながら高揚感のかけらもない年越しになりそうだ。

 最近実家に帰ると、両親から「いい加減彼女を連れてこないのか?」「いつ結婚して子どもを作るんだ?」みたいなことを暗にほのめかすような発言が出てくるようになってきた。僕はその度になんとなく話題を逸らしていたが、そろそろ誤魔化せなくなってきた。

 両親は30半ばで行き遅れた末お見合いで結婚、高齢出産で僕を産んだが、自分たちのことは棚に上げて、息子に無邪気に期待していやがる。そりゃ僕だって40近くで出産するのがなんとなくヤバい事だとうすうす思っていたし、両親みたいにはならないよう、20代半ばで結婚して子どもを産む人生プランを、そうだな・・・中学生の頃には考えていた。

 でも高校生、大学生、社会人になり、段々と自分の無能さと現実の厳しさを知っていくにつれて、そんな他愛無い青写真はいつの間にか消え失せ、同棲やら結婚どころか、恋愛の仕方も分からず彼女のひとりすらも作れないまま、気づいたら僕は27歳になってしまった。

 ついクセで今回も前置きが長くなったが、以下、「彼女いない歴=年齢」というドス黒い心の闇を抱える恋愛弱者男性の自分語りに、よろしければお付き合いいただきたい(ちなみに深夜のテンションで8,000字も書き散らしてしまったので、論理的に破綻したり何が言いたいのかさっぱりわからない箇所があると思われる。あと写真とかも一切ないから読みにくい。先に謝っておく)。


僕のしょうもない恋愛遍歴

 僕の心の闇について掘り下げる前に、僕のしょうもない恋愛遍歴についてザッと語りたい。とはいえ、自分から主体的に動くということをほとんどしてこなかったから、自分でも驚くほど中身が無い。

 僕の初恋は、記憶にある範囲では小学2年生の時である。好きになったのは、いわゆる「かわいい子」とは正反対で、赤い眼鏡をかけ、歯並びがガタガタでゴリラ顔の子だった。別に性格が良いわけでも、愛嬌があるわけでもなかったし、今となってはなぜ好きになったのか全く定かではない。

 何かの拍子で互いが両想いであることが知れ、バレンタインとホワイトデーのやり取りをしたこともあった。が、ガキ、というかガキ以前のチビっ子の恋愛ごっこなんてたかが知れたものである。恋愛の仕方なんて分かるはずもない僕とその子の関係は当然それ以上発展することはなく、自然消滅した。僕の人生で女性と恋愛の真似事のようなことをした経験はこれ以外にないのだが、あまり思い出したくはない思い出である。

 中学生の時につるんでいた男子連中はみんな例外なく性的なことに好奇心が強く、よく好きな女子を教え合ったりもしていた。だが僕の好きな子の前で僕がその子のことが好きであるということがふとしたはずみで伝わってしまい、ドン引きされた思い出がある。女子からあからさまに拒絶の態度を示されたのはあれが初めてだ。女子から見て自分は男としての魅力のないゴミに見えているのだという現実を知った瞬間だった。

 それからも、ことあるごとに誰かを好きになった。根が非モテなので割とすぐに好きになってしまうのだが、どうしても自分から近づくとか、アプローチすることができない。アプローチの仕方がわからない。思えば両親の恋愛弱者要素が存分に受け継がれた僕の遺伝子はこの頃から効力を発揮していたのかもしれない。せっかく人を好きになっても、「遠くで見ているだけで十分」と思ってしまうのだ。

 その理由の1つには、僕が無駄に想像力が豊かなところにあった。誰かとすぐ恋人になったところを想像してあんなことこんなこと・・・と妄想だけが膨らんでいく。寝る前に絶対にその人の顔が浮かんできて、僕に甘い言葉をかけてくれる、そんな幻想を思い描く。それで自分を慰めるのが癖になってしまう。妄想で満足してしまう、そういう性癖がある。多分、アプローチして男女関係になったらその理想のイメージが瓦解してしまうのが怖いのだろう。一歩間違えれば現実との区別がつかなくなるし、こういう想像力はいらないのに。

 中学を卒業した僕は、地元の「自称・進学校」に入学した。「偏差値が1でも上の大学に行けばそれだけ輝かしい将来を手にできる」と宣う偏差値至上主義のカルト集団の中にいた僕は、御多分に漏れず頭がヤラれてしまっていた。ひたすら勉強、部活に没頭し(「文武両道」みたいな下らないことを校訓に掲げているのも自称進学校の特徴である)、青春を犠牲にして禁欲的な生活を送ったことが功を奏したのか、自分の実力では行けないような大学に運良く滑り込むことができた。

 しかしここでつまずく。上京し一人暮らしを始めた僕は、さっそく大学デビューを目論むが、うまく人間関係を築けない自分にすぐに気づき、サークルにも所属できず、結局友人の1人すらできない灰色の大学生活だった。

 もちろん恋人などできるはずもない。キャンパスで華々しい都会育ちの女子学生とすれ違っても指一本触れることもできないし、そもそも女子と能動的に喋った機会も、もしかすると両手で数えられるくらいだったかもしれない。

 恋愛にサークルに講義にバイトにゼミに学園祭に就活に海外旅行に・・・と何でもそつなくこなす超人のような周りを尻目に、僕は外界との交流をシャットアウトし、日々部屋で一人くだらない妄想に耽りながら次第に精神を病み、恋愛どころではなくドブの底にずっと滞留しているような荒んだ生活を送っていた。4年もの歳月と20歳前後という本来ならエネルギーに満ち溢れていたはずの貴重な時期を無駄にしたのである。まあ大学生活についてはここで掘り下げる余裕はないので、別の機会に話そう。

 社会人になった僕は、そろそろ彼女を作らなくては・・・とマッチングアプリやら街コンに手を出してみるが、何ひとつ結果が出なかった(以下の記事でお話したとおりである)。もちろん職場恋愛などできるはずもない(これも別の記事で話題にしている)。

 本来であれば恋人と過ごすのに使うべきアフター5や休日の時間を、登山に行ったり酒を飲んだり旅行に行ったり、なんとか誤魔化して過ごしてきた。そして若さと性欲を持て余したまま、普通の人間が恋愛で経験するような刺激やときめきを感じた経験もないまま時だけが虚しく過ぎ去り、27年間「彼女いない歴=年齢」の今に至るというわけである。

誰にも言えない心の闇

 僕は「いない歴=年齢」だということを、両親の前でも、そして(片手で数えるほど)少ない友人知人にもはっきりと言った事はない。

 知人や会社の同期と恋愛の話になったとき、僕はよく架空の彼女の存在を即興で頭の中でこしらえ、息をするようにウソをつく。「あっ、アノ大学生の頃に3か月だけ居たことあるかなアハハ、同じサークルの子だったけどねエなんか自然消滅しちゃったしあんま覚えてないなア」みたいなことを早口で言ったらあとは黙り込み、なるべく相手に喋ってもらうというスタイルだ。

 ちなみに1度、酒の席で下ネタの話になったときは「付き合ったのが3か月だけだったから1回だけやってみたけどあんまり盛り上がらなかった」みたいな事を言い、とりあえず自分は素人で童貞を卒業したという実績と、あんまりうまくいかなかったから語れることはこれ以上ないよということをさりげなくアピールした(もちろん、これも真っ赤な嘘である)。

 なぜウソをついてしまうのか。やはり、基本的にみんな交際相手が現にいる、もしくはいたことがある中で、自分1人だけ交際経験がない異常な人間だと暴露したら嘲笑されるに違いない。というか相手の反応以前に、それを暴露したことによる羞恥心で僕のガラスのメンタルが音を立てて真っ二つに割れてしまいそうだ。

 僕にも誰か1人ぐらい、心から分かり合える、同じ境遇の友人がいれば、この不名誉を吐露し、早く楽になれていたかもしれない(でもそんな友人がいないので、せめてこの仮想空間では吐き出させて欲しい)。そしてこの事実は、溜めておけば溜めておくほど、年月が経てば経つほど、ドス黒さと重みを増し、僕のメンタルを浸食していく。

 「いない歴=年齢」30年目が見えてきた最近になって、この心の闇は抱えきれないほど日々膨張しているのを感じている。さらにこの時期には寒さゆえの人恋しさも相まって、この目の反らしようもない事実を歯ぎしりしながら毎日、いや毎分毎秒のように噛みしめることになる。だからこそ、こうして書き記すことで少しでも楽になろうと思ったのだ。

恋愛至上主義の風潮が辛い

 なぜこんなに「いない歴=年齢」を気に病んでしまうのか考えてみると、1つには世間の風潮というのがある。令和のこの世の中でも、時代は未だに恋愛至上主義、恋愛してナンボだ。

 例えばメディアの影響は未だに根強い。J-POP、ドラマ、CM、映画、アニメ・・・、男女の恋愛がテーマのコンテンツが多いのは、それが売れるからであって、それは世の中のマジョリティが恋愛を現にしている、もしくはしたことがある層だからである。

 ちょっと前に夫婦のセックスレスを題材にしたドラマが話題になった。かなりの人気や共感を集めたようで、何度かTwitterにトレンド入りしているのを見た。

 でも、非モテの僕からすると、セックスレスというのは、なんて贅沢な悩みなのだろうかと思うのだ。まず出会って恋愛して結婚して共同生活している一組の夫婦がいることを当たり前の前提としたうえで(ここまでで既にめちゃくちゃハードルが高い)、それだけで十分満たされているはずなのに、なぜそれ以上を望もうとするのか、僕にはよくわからない。

 こういうコンテンツが未だに溢れかえる世間の風潮と、それに自然に同調し適合している多数派に目をやると、自分は世の中のマジョリティには属することができない人間なのだと、生きづらさをつくづく感じる。

 みんな飯食ったり仕事行くのと同じように普通に当たり前に恋愛しているのだ。大学進学で一緒に上京した高校の同級生もいつの間にか彼女ができていたし、その時アパートの隣の部屋に住んでいた大学生は夜な夜な彼女を連れ込んでいた(ちなみに壁は厚かったので夜はよく眠れた)。

 社会人になった僕が残業で疲れ果てた深夜に1人寂しくわびしい食事を取ったり、翌日の仕事が嫌で嫌で布団の中で憂鬱になっていたりする時にも、恋人と熱く寄り添ったりセックスしたりしている人間が普通にいる。すぐそこにいる。例えば職場の隣の席に。みんな大人しそうな顔してやることはちゃんとやってるのである。絶対にそいつらには僕の気持ちは分からない。

「異性に受け入れられたことがない」という不能感

 「いない歴=年齢」を気に病むもう1つの理由は、異性に(金銭を介さずに)受け入れられるということを経験できていない、つまり自分は男、オスとして役立たずのクズなのだという烙印を押されているという不能感のようなものだ。

 異性を好きになってつがいになることを指向するという本能が悲しくもプログラムされていながらも、未だに異性に男として自分を認められたことがない(そしてこれからも認められる望みはないだろう)という辛さである。誰か1人でも認めてくれたかそうでないかでは雲泥の差があると思う。

 例えばTwitterでもよく見る「病み垢」界隈では、仕事やら学校やら人間関係だけでなく、生きることそのものに対して悲観的なつぶやきが日々大量生産されているが、結構恋人がいる人も多い(もちろん圧倒的に女性が多いが)。彼氏いるのに人生つらいってどういうことなんだろう、とよく思う。

 ケンカしてちょっと気の迷いでつぶやいてしまったとかならわかるが、自分の存在を肯定して受け入れてもらえる異性がすぐそばにいて、一体何が辛いというのだろう。僕には全くわからない。僕からしたら、異性に受け入れられることは本当に特別なことなのだ。それが分からない人間が多すぎる。多分愛されすぎて感覚がマヒしているのだろうと思う。

 まあ幸せの基準なんて人それぞれだよねと言われたら黙りこくるしかないが、せいぜい僕のような人間はその基準が低いことに感謝しなければいけないのかもしれない。そのほうが諦めもついていい。どうせ酒飲んで気持ちよくなれば大抵のことは忘れられるのだから。

恋愛という大きすぎる壁

 社会人になってから「いない歴=年齢」であることに本格的な危機感を覚え、彼女を作ろうと行動したこともあった。ただ、今まで女性にアプローチすることを避けてきた人間がこの年齢、この段階になって腰を上げても、まずスタートラインに立つまでに相当の労力と時間がかかる。

 というか、スタートラインにすら立てない。社会人の出会いの鉄板といえば職場だが、ハラスメントという大きな壁が立ちはだかる。「自分が気に入らない非モテ男からのアプローチは加害、高身長イケメンだけ寄って来い」という街の声(Twitterのタイムライン)をよく聞く。

 「お客様の立場に立て!」と指導された新人時代よろしく、自分のようなコミュ障チー牛ホビットにアプローチされる女性の立場に立ち、自分が加害性を有していること、そして最悪の場合、職場というコミュニティを壊し、自分がそこにいられなくなるというリスクを思い知ったのである。そうなると好きになった気持ちをひたすら押し殺すしかない。

 じゃあマッチングアプリをやればいいじゃんという話になるが、2回やって失敗したのでなかなか前向きになれないし、20代後半ぐらいの年齢になると、今までそれなりに恋愛経験を積んで恋愛の酸いも甘いも大体知り、そろそろ身を固めようかと思って恋人を探す女性が多いので、見た目だけではなく年収や身なり、社会的ステータスなど、恋愛関係ではなく「この人と共同生活、結婚するとどうなのか」という視点で見られる。

 身を固めるとかそういうこと以前にそもそも恋愛すらしたことない自分が失った青春を取り戻そうと恋愛ごっこを求めて今さら自由恋愛市場にふらっと参加してみたところで、門前払いを喰らうのがオチである。恋愛経験のない女性の「処女性」は好まれるが、男はそうはいかない。そしてこの年まで恋愛ができなければ、多分恋愛弱者のままで人生を終えていくことになるのだろう。

そして生まれたモンスター

 この積み重ねてきた年月に目を背けたいけれど、残念ながら時間は無情に過ぎ去り、もうあと1週間ほどで今年も終わる。来年にはまたひとつ年老い、「いない歴=享年」にまた一歩近づくことになる。

 きっと僕の存在は、世の中の多数派から見れば「毛むくじゃらの小っちゃいモンスター」のようなものなのだろうと思う。もしくは石の下に隠れて丸まっているダンゴムシともいえるかもしれない。なるべく視界に入れたくない、真っ黒で闇を抱えた取るに足らない不快な存在。

 これからどうなってしまうのだろうか。僕のような心の闇を抱えた非モテは、上野千鶴子の言うように、マスターベーションしながら静かに滅びていくしかないのか。このまま年を取っていったら、いつかこの鬱積した感情が何らかの形で爆発してしまうのではないかと今から恐ろしい。

 1つぐらいは甘酸っぱい恋愛の思い出を墓場に持っていくことができれば心が安らぐかもしれないが、おそらくそれは叶わないだろう。いっそレンタル彼女でもやってみるか・・・と考えることもある。でも、演技だと100%わかっている女と話していて楽しいのだろうか。なんの発展性もないその場かぎりの関係である。もちろんおさわりも無しだ。金を払って別れた後にそのまま入水でもしかねない。だったら風俗に行って性欲を満たせたほうがいいかなと思ってしまう。

おわりに:救いはあるのか

 僕は最近、恋愛を諦める道筋が見つかるのではないかと、仏教を学んでいる。ブッダは、「思い通りにいかない苦しみ」、「欲しいと思っても手に入らない苦しみ(求不得苦)」の原因である欲望そのものを捨てることの重要性を説く。その先に救いがあるのかもしれないと思う。

 ここまで僕がダラダラと書いてきた泣き言をご覧いただいてもおわかりのように、僕はまだそこまでの境地に達することはできていないし、恋愛は生物としての人間の本能と切っても切れないから、いくら修行を積んでもそれは難しいだろうと思う。が、どこかで諦めをつけないといけないとは思っている。

 世の中には「MGTOW(ミグタウ)」と呼ばれる人たちがいる。Men Going Their Own Way(我が道を行く男たち)の略語で、女性に幻滅し、女性との付き合いを自分から避け、自身の生活からその存在を可能な限り排除することで自由に、幸せに生きていくという考え方である。俗にいう「草食系男子」やサイレントテロとも通じていて、「インセル」のような過激思想とは真逆の考え方だ。

 そんな風に割り切れたなら僕も精神的には楽になるかもしれないが、その先に見える世界は晴れやかなのだろうか。

 今年もあと少しで終わる。年末には地元に帰り、今年も彼女を連れてくることができませんでしたと両親に無言の報告をし、既に同棲やら結婚しているであろう同級生の家庭生活の愚痴を聞きながら、ゆっくり休むつもりが気が滅入るばかりの年末年始休暇を終え、また孤独に家と会社の往復を繰り返すだけの空虚な日々に戻っていくのだろう。

 そんなことをしている間にまた1つ年を取り、さらに心の闇がドス黒くなり、ますます人には言えなくなり、彼女を作る機会も遠ざかり、そしてまた1年が終わり、次の年が来て・・・。想像するだけでうんざりだ。でもそれが僕が今までやってきたことの結果である。いや、今まで「やらなかったことの積み重ね」の結果である。恨むなら過去の自分を恨むしかない。


 「彼女いない歴=年齢」というこの(おそらく)不治の病に向き合い、こうしてnoteに吐き出せたことだけでも少し楽になった。およそ中身のない文章だったが、最後まで読んでくれた方、そして1ミリでも共感いただいた方がいらっしゃるなら、まさにそんな方の存在が僕にとっての救いであるのかもしれない。そんなあなたに感謝しつつ、この哀れな非モテによる下らないボヤキの垂れ流しに幕を閉じようと思う。

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