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孤独なアル中はどう生きるか【DIE WITH ZERO】

 最近、特に酒の量が増えている。週4~5日ぐらいのペースで飲むのだが、大体1日に500mlの発泡酒を3本、それだけでは足りないときは、プラスでハイボールか焼酎の水割りぐらいは飲んでしまう。

 なぜこんなに酒が止まらないのか。年が明けてからずっと仕事が繁忙で疲れとストレスが限界点に達しているとか、30代への突入が近づいてきて急に色んなことに焦り出して情緒が安定しないとか、3度目のマッチングアプリを始めたが相変わらず全然うまくいかなくてイライラするとか、こちらと会話を続ける意思が一切ないアプリの女性にイライラするとか、Xでアプリの進捗を報告するたび情報商材屋に絡まれてイライラするとか・・・色々あるが、一番は「1人の寂しさを紛らわしたいがために飲んでしまう」のだと思っている。

 寂しさを解消してくれる飲み友達もいないし、外で飲むと家に帰る途中で酔いが覚めてしまうので、大体1人暮らしのアパートに帰って飲む。例えばこんな風に。

 YouTubeやライブDVDを見ながら半額惣菜をつまみつつビールで流し込む時間が至福であることは間違いないのだが、大体泥酔して布団も敷かずにそのまま座椅子の上で眠りこけてしまう。

 そうなると、夜寝られなくなって寝不足のまま出勤するとか、前夜に飲みすぎて頭が回らないとか、翌日の仕事に影響を及ぼすこともある。翌日が休日だったら当然朝起きられず、予定を潰してしまうこともある。正直何をやってるんだと思う。酒を一切飲まない人から見たら、僕のことをただのアホだと思うだろう。彼らは僕がこうしてドブに捨てた時間とお金をもっと有意義なことに使っているに違いない。

 こういう自分の現状に嫌気が差して、ここ最近は禁酒にチャレンジしているが、禁酒して節約したお金と時間でやりたいことや成し遂げたいこともない。最近特に孤独が身に沁みるようになってきたし、お酒のない日曜日の夜の虚しさは半端ないし、どうしても何か適当な理由をつけて結局はお酒に手を伸ばしてしまい、どう頑張っても3日ほどしか続かない。

 この生活が続けば、僕の健康と寿命はどんどん蝕まれていくだろう・・・なにしろ「お酒」と「寂しさ」は確実に人間の死亡率を高める要素なのだから。今回はそんなアル中一歩手前・・・というかもう片足を確実に突っ込みつつある孤独な人間の今後の生存戦略について、珍しくシラフの頭で考えてみたい。


酒は「百害あって一利なし」という風潮

 先日、厚生労働省が「飲酒ガイドライン」を公表したのが記憶に新しい方も多いだろう。これによると、生活習慣病のリスクを抑えるには、1日あたりの純アルコール量を40グラム以内にとどめなければならない(男性の場合)。これを真面目に遵守するのであれば、僕がいつも買ってくる発泡酒(500ml)で換算すると、1日2本までしか飲めないという計算になる。

 さらに、同ガイドラインでは、脳梗塞やがんに代表される生活習慣病の発症リスクを高める純アルコール量(1週間あたり)の目安として、大腸がんであれば150グラム以上、胃がんや高血圧であれば「少しの飲酒でも」との記載がある(男性の場合)。

 これを見てさすがの僕もムムッ・・・と思わざるを得なかった。昔はノンキに「酒は百薬の長」とか、「全く飲まないよりも少し飲んだ方が健康」みたいに言われていたが、そんな時代はとうに過ぎ去ったのだ。日々何気なく飲んでいるお酒だが、これは確実に健康上のリスクを高める行為である、と現代医療が警鐘を鳴らしているのだ。

 例えば、こういった科学的見解は酒類メーカーの販売戦略にも影響を与えており、アルコール度数の高い、いわゆる「ストロング系」飲料の新規販売を中止したり、「微アル」「ノンアル」にシフトしたりするなどの動きは着実に広がっている。

 宗教にすがれなくなった現代人は科学を信奉するしかない。世の中の動きもこれに呼応するように、「飲まない」「飲めない」ことがあからさまに肯定されたり、「ソーバーキュリアス」という生き方が称揚されたりしている。

 リスクを避けて生きたいのならば酒など一滴も飲まない方がいいに決まっているのに、僕は毎日わざわざお金を払って時間を無駄にするだけでなく、自分の健康や生命を危険にさらしてもいるということだ。確かに正真正銘のアホである。

 だが、僕自身、お酒を止めてまで自分の身体を大事にしたいかとか、節約した分のお金と時間を使って何か他にやりたいことがあるかと言われると、特にそうでもないのが本当のところだ。それに、日々の容赦ない労働のおかげでいつでもストレスがうず高く積もっているので、やはり酒を飲まないとやっていられない。禁酒への道のりは厳しい。

孤独な人間は早死にするらしい

 さらに、「寂しさ」や「孤独」といった感情が体に悪いとか、人間の死亡率を高めるという研究結果が複数発表されている。

 一番上の記事では、人は慢性的な孤独を感じると「脳機能の低下」「睡眠の質の悪化」「孤独に対する疲労感・苛立ち」といった症状を呈すると書かれている。まあハーバードの教授が言うのだからそうなのだろう。

 僕は実家を出てからおよそ9年間、ひたすらに孤独な生活を続けているが、例えば、確かに年を取るごとに物忘れがひどくなってきたような気がする(さっきまで考えていたことがポッと消えてしまうなど)。平日会社の同僚と雑談することもなく、休みの日も「袋いりません」ぐらいの言葉しか発することがない僕にとって、人と話さないことの弊害がこういう形で顕在化しているのかもしれない。

 また、寂しさで寝られないこともあるから「睡眠の質の悪化」というのも間違っていないと思うし、疲労感や苛立ちはそれこそ四六時中感じている。慢性的な孤独感はこういった症状をもたらすことに加え、1年あたりの死亡率を26%高めるというのだから、もう孤独は立派な1つの「病」だといえる。

酒×孤独という最強の寿命短縮装置

 以上お話したように、「酒」と「孤独」という2つの大きな不健康因子は、日々相乗効果で僕の寿命をジリジリと蝕んでいく。寂しいからお酒を飲む、でも飲んだところで一時は気持ちよくなるだけで余計に寂しさが募る、また飲んでしまう・・・という絶望の無限ループだ。

 独身男性の平均寿命は67.2歳(※)だという。ちなみに男性全般でみたときは81.05歳であり、いかに独身男性が短命かわかる。
50歳独身男性がいますぐ婚活をすべき深刻理由 経済的自由を求めた結果、なにが残ったのか? | 恋愛・結婚 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net) より。

 67歳まで生きられるということは、あと40年弱も時間が残っていると前向きに捉えることもできようが、以下の記事の法則に従うと、人生の体感時間的にいえば、もう今の時点で人生の折り返し地点を確実に過ぎているということもできよう。

 それに加えて、先ほどお話したような「酒」×「孤独」の相乗効果も考慮すれば、人生の残り時間は僕が思っているよりずっと少ないだろう。一体残りの時間をどのように過ごせばいいのか、何に使えばいいのだろうか。

孤独なアル中の生存戦略とは

「DIE WITH ZERO」という考え方

 最近、ビル・パーキンス (著)『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』という本を読んだ。発売されたのは何年か前で、ずっと気になっていたが、ようやく手を出す気になった。この本の主張は、一言で言うと「将来への不安からひたすらに金を貯め、死ぬ時に金持ちになっても意味がない。喜びを先送りせず、お金の価値を最大限に生かせる若い時分に、経験に投資せよ」というものである。

 一番印象的だったのは「記憶の配当」という表現だ。簡単に言えば、経験からはその瞬間だけでなく後で思い出せる記憶が得られるため、元の体験を心の中で追体験し、様々な感情をよみがえらせることができる。それを経験するのが早ければ早いほど、何度も思い出すことができる(記憶の配当が多く手に入る)ということだ。

 例えばほんの最近、僕は人生で初めて1人でガールズバーでお酒を飲んだ。脚の綺麗な(※)可愛い女の子と他愛無い話ができ、2時間で1万円以上も払ったけれど至福の時を過ごせたと思っている。僕は一人暮らしだし、もちろん彼女や女友達もいないし、会社の同僚の女には嫌われているので、普段生きていて女の子とあんな風に楽しく話すことは不可能だ。だからこの貴重な経験をこれから何度も思い出し、あの時感じた甘美な気持ちを幾度となく脳内で再生することになるだろう。これはもちろん、3年後の30歳で経験するより今の27歳で経験した方が、残りの人生で思い出せる回数は多い。つまり、「記憶の配当」がより多く手に入るということなのである。

※ 余談だが、ホットパンツでの接客をウリにしたお店で、脚フェチの僕にはたまらない空間だったのだが、なにしろカウンター越しの接客なので、こちらからは肝心の部分が全く見えないという非常に非常に勿体ない、残念なシステムになっていた(まぁガールズバーっていうのはそんなものだけど)。ぜひもう少し客の立場に立っていただき、改善されたい。できる範囲で構わないから。

「記憶の配当」を得るために

 さて、上記「DIE WITH ZERO」の骨子を自分のこれからの生存戦略にどのように生かせるかを考えてみたい。例えば冒頭でお話したお酒との向き合い方について。多分僕は何か大病でも患わない限り、すぐにはお酒を止めることはできないだろう。だが1人で漫然とYouTubeを見ながら晩酌したとしても、この時間はあまり記憶には残らない。

 どうせ酒を飲むのであれば、何か記憶に残ることができればいい。たぶんそれは、先ほどのガールズバーの例のように、誰かと時間を共有することがポイントなのだと思う。

 オンラインでもいいから誰かと一緒に飲むとか、行きつけの居酒屋を作って常連やマスターと仲良くなるとか。もっと贅沢を言えば、キャバクラやラウンジに行って綺麗な女性とお酒を飲むとか、高級寿司屋のカウンター席でビールを呑みながら大将と会話するとかもアリだ。それで寂しさも解消できれば一石二鳥である。

 今までの人生ずっと、基本的に人とコミュニケーションを取ることを避けながら、それでも今は生活できているが、そんな思春期みたいなことをいつまでやっていられるのか。このまま中年に突入し、親もいなくなれば、もうそれはずぶずぶの孤独というか、もうどうにもならない、救いようのないドス黒い孤独に形を変えてしまいそうな気がする。

 例えばそれは、「まどか☆マギカ」に出てきた、絶望や穢れが溜まって真っ黒になったソウルジェムのような黒さをした孤独だろう。これを持った魔法少女が魔女に変貌してしまうのと同様に、僕もいつか自暴自棄になって衝動的に何かしてしまうかもしれない。そうなるのが今から怖い。今のうちから何らか動いておかないといけない。

失くすものなど何もない

 少し話が逸れ、悲観的になってしまったが、まぁ人間関係がない分身軽に動けるし、独身だから(いい意味で)今のところ失うものは何もない(会社の肩書ぐらい)とポジティブに捉えることもできる。

 お酒に限らず、あまり自分の欲望を制御しすぎず、なるべく若いうちに、食べたいものを食べて、話したい人と話し、行きたいところに行き、やりたいことをやるのがよいのだろう。例えば作家の西村賢太みたいな豪快な生き方に憧れている。大酒飲んで、好きなことして、タクシーの中でコロッと死ぬみたいな(もちろん、やりたいことはまだまだあっただろうけれど)。

 また、「DIE WITH ZERO」を読んでお金に対する価値観も少し変わった。今まで将来とか老後生活への「ぼんやりした不安」を意識しながら蓄財に励んできた。毎日残業でヒィヒィ言う毎日が続いていても、預金口座の残高を見ることが精神安定剤・・・は言い過ぎだが、とりあえずの気休めにはなっていた。

 だがこれではキリがない。多分何千万円貯まっても「まだ、まだ・・・」と、安心することはないだろうし、リタイヤ後に静かに余生を過ごす暇もなく、せっかく貯めたお金をまさにドブに捨ててあの世に行ってしまうかもしれないのだ。

 というかそもそも、ずっと独身で過ごすのであれば、60歳とか、定年まで働くことを前提に考えるのはやめようと思った。今僕は新卒で入社した会社でなんとか辞めずに働き続けているが、半分は両親がまだ健在なのでその世間体の保持のために働いているというのもある。もう半分はもちろん食べていくためである。

 だがこの「半分は親のために働く」というのがいつまで続けられるのか。社会人になってから5年、毎日感情を殺して働き、耐えて耐えて耐え続けるだけの生活だ。もうほどほどのところで雇用労働に見切りをつけるのも手だろう。僕が60歳まで生きられる可能性は相対的にみて低い。働いて働いて働いて、何のうまみを味わうこともないまま、ある日突然死ぬというのはあまりにも酷だ。

 本当のことを言えば、40代くらいで親の死を看取ったあとですぐに仕事を辞め、世界各国を放浪するか、東南アジアにでも移住してのんびりしたいという野望を抱いている。お金がなくなるまでフラフラして、お金がなくなったら死ぬみたいな究極にシンプルな生き方もいいかもしれない。これこそ本当のDIE WITH ZEROなのではないかと思ったりもしている。(おわり)

 


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