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大人が季節の変化を楽しむ理由

数年前に自分が気付いたことを備忘録として書き留める。気付いたというより、考えたという側面が強く、かなり偏見が混じっているので悪しからず。

子供のころから、タイトルのことがずっと気になっていた。「大人ってやたらと季節の変化を楽しむよね!?」と。

ちゃんと季節の行事を楽しむよね。花見とか花火とかお正月とか節分とか。お部屋の飾りつけしたり、プレゼント交換したり。冬至にはゆず風呂に入るし、暖かい季節になると決まってBBQする。

ちゃんと旬の野菜を追いかけて食べるよね。「ちょっと無理して食べてるんちゃう?」と言いたくなるような野菜も見逃さず食べる。

子供のころは、上記のような季節のイベントが心から楽しいとは思えなかった。「何をはしゃいでんねん」と、冷ややかな目で見ていた節があった。「何か知らんけどちょっと変わった食べ物が出てくる日」くらいの感覚。親や地域の大人たちが開く催し事でも、付き合ってあげているような態度のこともあった。我ながら憎たらしい子供である。自分が大人なら、こんな奴には鬼のお面を被せてひたすら節分豆を投げつける。

季節の変化なんか楽しまなくても、毎日が目まぐるしく楽しかった。目まぐるしい毎日についていくのに必死だった。季節のイベントの楽しさが他の人生イベントに比較して小さかったのだと思う。

それがどうだ、大人になった今では季節の変化が楽しい。22くらいの頃からだろうか。これを書いている3月中旬には、春の到来を正座して待ってしまっている。少し浮足立って薄着で散歩しちゃったりしてる。スーパーの野菜コーナーの陳列の変化を半ばスキップしながら眺めてる。

数か月前には、鼻歌を歌いながらクローゼットの衣替えをしていた記憶がある。「う~、冬が来ちゃうよ~、寒いよ~」とか言いながら。

年齢を重ねるとこんなに変わるのか。

これに対して「なぜだろう?」と考えた自分なりの結論が、「大人になると、季節以外に周囲の環境の受動的変化が無くなる」のが理由なのではないか、と。だからこそ、季節の変化に敏感になり、楽しむようになるのかな、と。周囲の環境が変わるようなイベントが無くなってしまったからこそ、季節の変化を言い訳にして、自分達の人生に受動的イベントを設定しているのかな、と。そうすることで、気持ちをリフレッシュして毎日を頑張っているのかな、と。

新卒就活を終えた直後ぐらいに感じたことなのだが、就職を終えると、自分の人生の受動的な個人イベントが終わってしまう。次のイベントは自分の葬式である。就職するまでは小中高大と周囲の環境が目まぐるしく変わっていくが、一旦就職してしまえばそれっきり。ただただ労働と生活のサイクルが続いていく。

※もちろん、結婚や出産という一大イベントがあるにはあるのだが、これらは能動的イベントである。しようと思わなければ起きないイベント。ノーカンとさせてほしい。(「自分の人生のイベントが終わってしまったから」という理由は、結婚や出産をする理由にもなり得るのではと考えているが、その話は本筋から逸れてしまうので止めておく)

新卒一年目で既に思い始めてしまっているが、あと40年ほどこの労働生活サイクルを続けていくのはかなりしんどい。半永久的に「変わらない」という部分がしんどい。働けど働けど終わりがない。「もう人生辞めます」とでも言わない限り、お金を稼ぎ続けなければならない。

この「変わらない」しんどさを乗り切る方法の1つが「季節の変化を楽しむ」ということなのではないかと考えている。

季節の変化は、代り映えのない人生サイクルにアクセントを加えてくれる。特別なことをする口実になってくれる。節目を設けることによって、大人の人生にメリハリをもたらしてくれる。同じ毎日を繰り返すしんどさから一時的に目を背けさせてくれる。目の前の生活を楽しむ口実になってくれる。

子供の頃には「恥ずかしい存在」と考えていた、季節を楽しむ人間にすっかり変わってしまっているが、変わってよかったと思う。自分もそろそろ人生の秋あたりに突入してしまっているのかな?

以上、大人が季節を楽しむことに対しての個人的偏見。


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