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著者が語る:史上最高の天才、フォン・ノイマン「人間のフリをした悪魔」の素顔

『20世紀論争史』は、20世紀に生じた多種多彩な論争について、「教授」と「助手」がコーヒーを飲みながら研究室で対話する形式で進行する。人類史上、過去と比べて20世紀の思想が大きく変遷したのは、コンピュータや遺伝子操作などの科学技術が飛躍的に発展した結果、そもそも人間とは何か、知性とは何か、存在とは何か......といった、従来は哲学の対象とされてきた問題が「科学哲学」の対象になった点にある。

本書の目的は、もはや「科学を視野に入れない哲学」も「哲学を視野に入れない科学」も成立しないという観点から、改めて20世紀を代表する「知の巨人」たちが繰り広げた原点の論争を振り返り、「科学と哲学の融合」のイメージを味わっていただくことにある。「現代思想の源泉」で何が起こっていたのか、読者に一緒にお考えいただけたら幸いである。

さて、その第9章「対象とは何か? フォン・ノイマン × ゲーデル」には、次のような場面が登場する(PP. 130-135)。

天才フォン・ノイマン

教授 ジョン・フォン・ノイマンは、一九〇三年一二月二一八日、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ブダペストで生まれた。当時のブダペストの人口は八一万人を超え、ロンドン、パリ、ベルリン、ウィーン、サンクト・ペテルブルクに次ぐヨーロッパ第六位の大都市だった。街並みには六百を超えるカフェがあり、ヨーロッパ最高峰の高等教育で知られるギムナジウムが三校あった。
 後にアメリカでフォン・ノイマンと一緒に原水爆を開発した物理学者レオ・シラード(一八九八年生)、ユージン・ウィグナー(一九〇二年生)、エドワード・テラー(一九〇八年生)、あるいは哲学者マイケル・ポランニー(一八九一年生)、数学者ポール・エルデシュ(一九一三年生)、ホログラフィーを発明した電子工学者ガーボル・デーネシュ(一九〇〇年生)のような優秀な人材が、同時代のブダペストで誕生し、市内三校のギムナジウムのどれかの卒業生だった。
助手 どうして当時のブダペストに、それほど多くの天才が現れたんでしょうか?
教授 その質問に対して、ウィグナーは次のように答えている。「その質問は的外れだよ。なぜなら天才と呼べるのはただ一人、ジョン・フォン・ノイマンだけだからだ!」
助手 そんなにノイマンは特別だったんですか?
教授 彼が幼児期からどんなに人間離れした天才だったかについては、数えきれないほどのエピソードがある。
 ノイマンの父親は銀行の顧問弁護士、母親はユダヤ系大富豪の娘で、彼らの一族は四階建てのビルで一緒に暮らしていた。一階に会社事務所があり、ノイマン一家は四階に居住したが、そのフロアだけで一八部屋あったというから、いかに豪勢なビルだったかわかるだろう。
助手 「フォン」ということは、貴族の家系?
教授 一九一三年、ノイマンの父親がフランツ・ヨーゼフ皇帝から貴族に叙せられ、世襲の称号「フォン・ノイマン」を与えられた。この称号は「金で買った」ものではないかと、揶揄するような伝記もあるがね。
 当時のハンガリーの上流家庭では、ギムナジウムに入学する一〇歳まで、子どもを家庭内で教育するのが普通だった。ノイマンは、幼児期から母語のハンガリー語はもちろん、住み込みのドイツ人とフランス人の家庭教師からドイツ語とフランス語を学んだ。さらに英語とイタリア語に加えて、父親が教養として重視していたギリシャ語とラテン語の英才教育も受けた。
「六歳の頃には、父親と古典ギリシャ語で冗談を言い合って、家族を煙に巻いたものだ」というのが、後にノイマンが得意気に語った自慢話の一つでね。
助手 古典ギリシャ語で冗談を言い合う六歳児とは……。
教授 ノイマンの記憶力は幼児期から抜群で、彼がフォン・ノイマン家のパーティで披露してみせたのは、客が開いた電話帳のページをその場で暗記するゲームだった。
 その後で、客がランダムに氏名を言うと、ノイマンがその電話番号と住所を答え、電話番号を言うと、氏名と住所を答えた。さらに幼いノイマンは、六桁の電話番号の列をすべて足した和を暗算で求めることもできた。
 八歳になると、ノイマンは父親の図書室にあったドイツの歴史家ウィルヘルム・オンケンの『世界史』全四四巻を読み通した。とくに南北戦争の章はお気に入りで、後にアメリカの古戦場を訪れた際には、その章を一言一句間違えずに暗唱してみせた。そもそもノイマンは、基本的に、一度読んだ本や記事を一言一句たがわずに引用することができたというからね。
助手 まさに神童!
教授 ギムナジウム入学直後から、ノイマンは、音楽と体育を除くすべての学科でトップの成績を収めた。とくに数学では、最上級のクラスに入れても簡単すぎたため、大学教授が彼のために特別講師を務めた。
 ノイマンが一一歳のとき、彼よりも一年上級のウィグナーが「おもしろい定理があるんだけど、証明できるかな?」とノイマンに尋ねたことがある。それはウィグナーにも証明できない自然数論の難解な定理で、いくらノイマンでも容易には証明できないだろうと思っていた。
 するとノイマンは、「この定理を知っている? 知らないか……。あの定理はどうかな?」と、さまざまな自然数論の基本定理を挙げて、ウィグナーがすでに知っている定理をリストアップした。そして、それらの定理だけを補助定理として用いて、遠回りしながらではあるが、結果的にその難解な定理を証明してみせた。
助手 カッコいい!
教授 ウィグナー自身、後にノーベル物理学賞を受賞したほどの天才肌の人物だからね。もちろん当時から、数学も抜群に優秀だった。その彼にできない証明を、ノイマンはウィグナーの知識だけを用いて導いたばかりか、より適切な補助定理を使えば、遥かに簡潔に証明できることも同時に示した。この事件以来、ウィグナーは、ノイマンに「劣等感」を抱くようになったと述べている。
助手 そんな事件があったら、打ちのめされますね。
教授 ノイマンがギムナジウムを首席で卒業した後、彼の父親は「数学では金が稼げない」と考えて、息子を大学の化学科に進学させることにした。ただし、ブダペスト大学大学院数学科の試験を試しに受けてみることを許可したところ、なんとノイマンは、大学を飛び越えて大学院に合格してしまった。
 結果的にノイマンは、スイス連邦工科大学応用化学科を卒業したんだが、在学中に大学院の勉強も進め、二二歳で学位論文を完成させて、博士号を取得した。
助手 二二歳の博士とは、すごすぎますね!
教授 しかも、彼の博士論文『集合論の公理化』は、集合論の厳密な公理化を導くテーマで、数学の基礎を形式主義的に構成するためのヒルベルト・プログラムに沿っていたので、数学界の大御所ダフィット・ヒルベルトを大いに感激させた。
 一九二六年九月、ノイマンは、ヒルベルトの招聘を受けてゲッチンゲン大学に向かった。面接試問でノイマンに初めて会ったヒルベルトは、「君の着ているスーツほど立派なものは見たことがない。どこで仕立てたのか教えてくれないかね」と尋ねたと伝えられている。この年、ヒルベルトは六四歳なので、ノイマンとは四〇歳以上離れていたことになるが、彼ら二人は、ヒルベルト家の書斎や庭で、何時間も尽きることなく話し合ったそうだ。

なぜノイマンが「史上最高の天才」と呼ばれるのか、その理由の一環が、ご理解いただけるだろう。このテーマは、次の「Smart FLASH」サイトにも再構成されている。ぜひご覧いただけたら幸いである!

この記事は、次の「Yahoo!ニュース」サイトに転載されている。こちらには、読者のコメントもあるので、ご参照いただきたい。

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高橋昌一郎
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