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著者が語る:『哲学ディベート』<自殺は自己決定権の放棄ではないか!>

9月10日から13日にかけて、本務校の北海道短期大学部で集中講義を行った。4日間ぶっ続けで15コマ分の内容をオンラインのライブ授業でカバーしたので、大変だったが、学生諸君はディスカッションを大いに楽しんでくれたようである。そこで非常に驚いたことがあったので、ここに紹介しよう。

私がテキストに用いたのは『哲学ディベート』である。最終日には第4章「自由」と第5章「尊厳」の内容をカバーし、とくにテーマにしたのは「自己決定権」だった。その導入部分は、次のとおりである(pp. 236-238)。

経済学部C 私は、高校生のときに耳にピアスの穴を開けて、両親にすごく叱られたことがあるんです。最初は両耳の耳たぶに普通に一ヶ所開けていて、これは友人も皆やっていることなので、あまり小言を言われなかったんですが、それをいいことに、もう二ヶ所ずつ開けて、両耳とも三ヶ所に開けたら、両親がすごく怒ったんですね……。
 ピアスの穴を何ヶ所に開けようが、高校生にもなれば明らかに自己決定権があるだろうと思うのですが、両親からすれば、「一ヶ所ならば許せるが、三ヶ所は高校生らしくない」と言うのです。要するに、集団主義的な発想で、皆が開けている一ヶ所ならばよいけれども、皆と違う三ヶ所になると、もういけない……。ところが、私からすると、一ヶ所では皆と同じだからつまらないわけで、個人主義的にアピールしようと思ったからこそ三ヶ所になったのですから、話が噛み合わないのです。
 それに、私の身体は両親が産んで育ててきたのだから、「両親に黙って勝手に穴を開ける権利はない」と言うのは驚きです。これは、ちょうど成人式が終わった後の話ですが、「もう大人になったんだから、お酒も堂々と飲めるわけだし、今度は鼻にピアスの穴を開けようかな」と冗談で話したら、また両親が本気で怒り始めたんですね……。どうも私の両親は、私が何歳になったとしても、私の身体に対して権利を所有していると本気で思っているようで、ビックリしました。
文学部A 私も似たようなことがありましたが、それが両親の愛情なのではないかしら……。
 いつかテレビで、幼稚園の娘を芸能人にしようとしている両親が、幼児にピアスの穴を開けさせているのを見たことがあって、こちらは逆に、幼児の意思はどうなっているのかと心配になりましたが……。
教授 基本的に「自己決定権」とは、一九世紀の哲学者ジョン・スチュワート・ミルが『自由論』で初めて明確に述べた権利で、①自己責任能力のある個人が、②自己の所有にある対象について、③他者に迷惑をかけない限り、④たとえそれが自己に不利益をもたらすことであっても、⑤自由に決定することができる、という考え方です。Cさんが疑問に思っているのは、この「自己責任能力」が、いつから何に対して認められるのか、ということですね。
 たとえば日本では、飲酒や喫煙が「二〇歳を過ぎてから」と定められていますが、これは飲酒や喫煙について、その是非を判断する自己責任能力が生じるのが「二〇歳」であり、定められた場所で喫煙することや、飲酒運転をしないことなど、他者に迷惑をかけないというルールを守る限り、本人の自由意思によって、飲酒や喫煙をする自己決定権があると法的に認められているということです。
 過度の飲酒がアルコール中毒症をもたらし、喫煙が発がん性を高めるなど健康に害を及ぼすことはよく知られています。しかし、たとえそれが本人に不利益をもたらすことであっても、どの程度飲酒して、どの程度喫煙するのかは、本人が自由に決定すればよいことであって、他者が干渉すべき問題ではないという考え方なのです。とくにここで重要なのが、本人の自由意思によって、いつでも始められるし、いつでも止められるという点なのです。
 ところが、さまざまな自己決定権は、各国の習慣や歴史的・文化的背景によって大きく異なっています。たとえば法定飲酒年齢にしても、アメリカでは多くの州で二一歳ですが、韓国では一九歳、イタリアやスペインは一六歳で、ドイツでは、ビールとワインは一六歳、スピリッツ系酒類は一八歳と、アルコール濃度によって分かれている国もあります。スイスでは一四歳、さらに中国のように飲酒年齢をとくに法的に定めていない国もあります。

授業では、この「自己決定権」がどこまで容認されるのか、具体的な事例を挙げながらディベートを行った。多くの学生の見解は、ピアスの穴やファッション・タトゥーから、売春や代理出産や臓器売買、ひいては自殺に至るまで、「自己の所有にある対象」つまり「自分の身体」を自分の意思でどうしようと、他人に迷惑をかけない限り自由だというラディカルなものだった。

もちろん、「人間としての尊厳」や「社会の公序良俗」を理由に挙げて、それぞれの事例に対して反対する意見もあった。たとえば自殺は、必ず何らかの意味で他人に迷惑をかけてしまうのだから(実際の遺体処理等ばかりでなく、周囲に精神的打撃や喪失感を与えるという意味においても)、ミルの「自己決定権」の定義にさえ該当しないではないか、という見方もあった。

さて、驚いたのは、最終日の講義が終わって、提出されたリアクションペーパーを読んでいた時のことである。そこには「自殺を自己決定権に基づいて実行することは、自殺を実行したことによって自己決定権を放棄することになってしまうから、自殺は自己決定権には入らないと思います」と書いてあった! これは、実に斬新な発想ではないだろうか?

この文章を書いた女子学生によると、ピアスの穴から臓器売買に至るまで、すべてはミルの「自己決定権」の範疇に属することから、自由に決定する権利がある。ちなみに、この学生自身、最初にピアスの穴を開けたのが「舌」で、次に「耳」に増えていき、今では両耳に10個穴を開けている、とも書いてある。ところが、「自殺」だけは別だというのである。それは、なぜか?

「自殺しよう」と考えるだけならば「自己決定権」の範疇に属するが、実際に「自殺」を実行してしまうと、もはや自分の身体が機能しなくなる以上、いかなる自己決定も不可能になる。それは「自己決定権の放棄」である。つまり、「自己決定権に基づく自殺」は「自己決定権そのもの」に「矛盾」する行為だと主張しているわけである!

フランスの哲学者アルベール・カミュは、「自分が生きるための理由」が「自分が死ぬための理由」になっていること自体、人間に内在する「自己矛盾」だと指摘した。この学生の発想を推し進めると、カミュの哲学に繋がる実存主義的考察を論理的に導くこともできそうである。というのは、自殺によって死が訪れた瞬間に「自己決定しないという自己決定」が成立してしまうからである!

2007年に『哲学ディベート』を上梓して以来、このテキストを用いて、さまざまな大学で講義してきたが、「自殺は自己決定権の放棄ではないか」というリアクションを返してきたのは、彼女が初めてである。最終日に受け取ったアイディアなので、授業中に議論できなかったことが残念である。

ともかく、この「矛盾」を短期大学部の1年生が発見したことには、本当にビックリした。もし今からでも可能であれば、彼女には進路を変更して、ぜひ立派な哲学研究者になってほしいものである(笑)!

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Thank you very much for your understanding and cooperation !!!