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児童・生徒指導㊻「ごめんね」「いいよ」のやりとりから考える

今回は「ごめんね」「いいよ」というやりとりについて考えをまとめてみました。

子ども同士のけんかやトラブルの際に、最後にこのようなやりとりをして一旦の区切りとすることは現場ではよく行われるのではないでしょうか。私自身、このようなやりとりをしないと問題の解決ということにはならないと思って指導に当たっていたことがありました。

心からの謝罪の気持ちがあって、また、ゆるす気持ちがあってこのようなやりとりを行うのであれば当然、自分の気持ちを相手に伝える過程において必要な行為だと思います。しかし、このやりとりが形骸化して行われることには弊害もあると考えています。

まず、話合いの仲介を行う教師においては、このやりとりによって、トラブルが解決されると思い込んでしまうことに問題があります。

教師としては、謝罪が済みトラブルは解決したと保護者に早く伝えたいという思いがあるでしょう。

しかし、「謝ること」や「ゆるす」ことを、子どもの内面を考慮せずに半ば強要してしまう場面はないでしょうか。かたちだけ完結させて、子どもの中では全く心のモヤモヤが解消されていないような状態には当然、問題があります。

やった側の子どもにとっては、「とりあえず謝っておけば自分のしたことはゆるされる」という誤学習をさせてしまう可能性があります。また、中には「はいはい、ごめんね」などというかたちだけの謝罪をして、この場を切り抜けようとする行為も見られるかもしれません。

そして、やられた側の子どもにとっては、形骸化したやりとりを感じ取り、相手の謝罪に気持ちを感じられない場合、心のモヤモヤが何も解消されていないのに完結させられてしまったことに不信感を募らせることになります。

また、自分が「いいよ」とゆるさなければ、この話合いが終わることがないという、圧力を感じ、本意ではない「いいよ」の言葉を述べるということもあるかと思います。

このことにおいては、「ごめんね」「いいよ」を問題を完結させるための定型文句にしないことが必要です。「謝らない」「謝れない」「ゆるしたくない」「ゆるしたくない」といった子どもの気持ちを素直に受け止める気持ちが必要だと思います。

「謝る気持ちにならないのはなぜなのか」、「ゆるす気持ちならないのはなぜなのか」などの、子どもが腑に落ちていない部分に話を突っ込んで聞いていくことなしには、子どもたちの「こうしたい」「こうありたい」「こうなりたい」という思いを明確にしていくことはできません。

教師は、「謝らせたい」「ゆるしの一言を言わせたい」などという皮肉の気持ちなしで、「謝る気持ちにならないのは、何か納得のいっていないところがあるの?」「ゆるす気持ちにならないのは、どうしてなの?」と問い、純粋にそこを深く掘っていくようにしなければならないと考えています。

また、子どもたちの中にも「当然『ごめんね』と謝るべきだ」「謝ったんだから、ゆるすべきだ」と考えている子はいるわけです。そのように、自分中心の思考だけでなく、「相手の腑に落ちていない状態」はどうして生まれているのかについて考えを及ばせることが大切だと思っています。「自分がよければよい」「こちらが多数だからよい」「一般的にはこうだからよい」のではなく、相手の立場や願いは何なのかも大事にしながら、話合いを形成していけるような大人になってほしいと考えています。


皆さんは、このやりとりについて考えることはあるでしょうか。ぜひ教えてください。
ここまでお読みいただきありがとうございました。