【歴史小説】天昇る火柱(2)「項羽」
この小説について
この小説の主人公は、赤沢新兵衛長経という男です。
彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船に乗って明国にまで渡ってゆきました。
そして細川京兆家の内衆となり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒宗益。
その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元への復讐に全てを捧げる驍将、畠山尚慶。
弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
本編(2)
新兵衛は、信州善光寺平の、塩崎城というところで生まれた。
が、隠居した老城主が若い村娘に産ませた子であったので、常に白眼視されて育った。
自分は、いらない子だった。家中の誰からも相手にされなかった。山野を駆け回り、川瀬を泳ぎ、体ばかりは大きくなっていった。
そんな塩崎に、ごくまれにふらりと帰ってくる男がいた。
ぼろぼろの裳付衣に、大数珠や瓢箪を括りつけ、野太刀を背負っている。烏帽子もかぶらず、髪は伸び放題だった。
「大殿様」
などと周りは男を呼んで、ひどく恐れ入っていた。
信じられないほどの巨体で、杉柱のように丈が高い。そのてっぺんに、鷹のようにいかつい面だましいが載っていた。
(項羽だ)
と、新兵衛は思った。寺で読んだ漢籍に、誰よりも強い男のことが書かれていた。一体どんな姿をしているのだろう、と思っていたが、それがまさに目の前にいる。
「おう、お前が我が弟じゃな。ずいぶんでっかくなったのう」
「お兄」
「ハッハ。そうじゃわしはお前の兄じゃ。クソ親父殿の隠居せんチンポのせいじゃのう」
この大男だけは、自分と分け隔てなく接してくれた。明るく、豪快で、青空に昇る太陽のような人だと思った。
「親父殿は、とっくによぼよぼのジジイじゃ。お兄は、まるでオレの本当の父御みたいじゃな」
「おう、そうじゃの。ではいずれお前を、わしの養子に取ってやろう」
と、この兄は言った。
畿内へ来い、という報せがあったのは、それから数年経ったあとのことだ。
約束通り、養子に取る。大和国の古市という郷に知音があるので、そこで過ごしておれ、というのだった。
何となれば、兄は今や天下を牛耳る細川右京兆の直臣となり、山城国や河内国の所領の代官を歴任して、忙しくしているという。わけのわからない出世ぶりだった。
手足として血縁の者がほしいから、古市にて文武の政道を学んでおけ、というのだった。
旅立ちに、見送る者は誰もいなかった。母は城主から金子をもらい、とっくに他所の豪農へ縁づいていた。
古市は、奈良の近郊にある小さな郷だった。
しかし街道の交わる地点にあり、人の往来が絶えず、常に銭が流れていく。賑わいの絶えない町場なのだった。
兄が寄越してきた信書を手に、坂の上の惣領館へ馬をつけた。
「ややっ、では貴殿が、赤沢殿の」
応対してくれた小者が、猿丸であった。
半日ほど待たされ、夕暮れになってから、惣領にようやく目通りが叶った。
古市澄胤、という男だった。
卵によく似た頭をした、坊主のような、武士のような男だった。ひどく小柄だが、肉の詰まった鞠のような体つきをしている。瞼は重たげだが、眼光は極めて鋭い。
あとで聞いたところによると、大和の衆徒というものは、形ばかり興福寺に仕えて出家しているが、妻帯肉食も平気でするし、その実は武家の大名と何ら変わりない、ということらしかった。
「宗益殿には、ずいぶん世話になった」
と、出し抜けに口を切った。
兄もまた表向き出家して、そんな戒名を名乗っているらしい。
「わしはいかにも古市の惣領だが、住処は木津の鹿背山城よ。ここから平城山を越えた南山城は先年、管領畠山氏の家臣、遊佐弥六に大いに乱された。その時、京兆家の軍勢を率いて来援し、疾風の如く一帯を平らげなさったのが、そなたの兄上よ」
ほえー、と漏れそうになる嘆声を、どうにか飲み込んだ。
「そんな宗益殿の弟御なら、決して粗略に扱うわけにはいかぬ。が、しかし」
座ったまま、銀銅蛭巻太刀の鞘の鐺を、どん、と板敷きに打ちつけた。
「文武の道に鍛えてくれ、という頼みであれば、話は別じゃ。ぬるい仕事をしてくれた、と思われぬためにも、この澄胤、本気でそなたを育て上げる。覚悟のほどは、よろしいか」
これはえらいことになった、と新兵衛は怖気を振るったのである。
~(3)へ続く
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