見出し画像

【手紙】嫉妬の権利

2023年3月18日

 薄暗い場所に沈む水槽に、沢山の人間が料理を食べながら悲しみを投げていく。水槽は悲しみで満ちていて溢れそうで、僕は魚のくせにエラがないから、その中で溺れている。最初は必死に息を止めて、息をしないように耐えているけど、次第にたとえ空気が無くとも、僕の体は呼吸をしようと、悲しみを無意識に誤飲する。肺胞という肺胞が悲しみで満ちているが、咽せることも許されず、僕は悲しみを吸い続ける。でも苦しみを通り越すと、もはや何も感じないようになって、視界が一気に明るくなるんだ。

 そんな時、たまたま電話をしていた女性から吸い込んだ涙のことを思い出した。吐き出された怒りや悲しみ、苦しさは僕の肺胞へ消えていったが、僕は嗚咽を覚えながら、飲み込んだ。「僕はただの悲しみの掃き溜めだ」そう思うと、怒りが込み上げてきた。ただその怒りの矛先は目の前の人間に向いているわけでは無く、またその悲しみの元凶に向いているわけではなかった。それは「人」というものに対してであり、それ以外の何者でもなかった。「ただこれはきっと人から与えられた僕の運命なんだ。だから人は僕の前で平気な顔で魚料理を食べながら、自分達に要らないものを水の中に捨てていくんだ。」僕がそう思っている間も彼女は悲しみを捨てていく。
 ただ不思議なことに、悲しみで染まった肺胞の隙間には嬉しさがあった。というのも、僕は何の役も無いまま生まれてきたため、どんな役割でも自分にも役割があることが少しの孤独感を埋めてくれたからだ。そうすると、僕はこの悲惨な役割でさえ誇らしく思えた。いや僕の弱さが僕にそう思わせたんだ。
 すると僕は悲しみを吸い込みすぎたせいなのか、心がどんどん汚れていった。きっと優しさを持つことにも代償はあって、僕はそれを知らなかった。僕を必要としてもらえるために、悲しみの元凶をより強大なものにしてやりたいと、より人間に迷いや絶望を与えてやろうと頭をよぎった。どうせこの先もずっと悲しむだろうし、その後に僕に悲しみを投げに来るのであれば、もうこのまま僕とずっと話でもしてればいいのに。むしろ、それがこの人間にとって幸せなんじゃないか。そうやって僕は水の中で嫉妬の炎に燃えていた。悲しみが燃えていく。水に溶けた悲しみは、水と一緒に昇華していくが、その時の匂いといえば、生臭いものだった。
 
 記憶が水槽に射す光に映し出されると、水の温度はみるみる高くなっていった。ちょうど僕が生まれた海の心地良さを感じる。だから僕は嫉妬の海で生まれた熱帯魚だ。雑魚だ。でも僕には、人間をどうにかする力はない。人間に対して嫉妬するにも、本来そんな権利はないんだ。そのことを知ってしまったことは、僕をさらに弱くさせ、だから僕は今日も笑顔で悲しみを吸い続ける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?