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感覚が受けとるもの

この前久しぶりに散歩をした。

ここ最近バタバタと動き回っていて、散歩したり、本を読んだりと、なかなかゆっくり時間を過ごすことがなかった。

この日は海の方へと歩いて向かった。

途中に踏切があり、ちょうど電車が通過するタイミングで遮断機が下がり始めた。

何百回と経験しているこの光景も、今日はなんだか違和感を感じる。

遮断機が下がる時の「カンカンカン」という警告音がやけに身体を刺激する。

少し目が回り、身体が揺らされる感覚がある。

海までの道のりは日中は比較的人通りも少ない場所だが、朝の時間ともあって、車の通りが目立っていた。

その車の動きや音にも、身体が緊張する。

今日は様々なものがとても刺激的で目が回るなぁと思った。

海まで着くと、視界が開け、周りの景色、動きもゆったりしていて少しばかり安堵感が身体を包み込む。

でも身体はすでにフラフラしているし、砂浜を歩く足は覚束ない感じ。

こんなにも刺激が多く、そして自分自身の身体が敏感に反応すると、ストレスから感覚を閉ざしたくなる。

でも、そんな刺激も時間が経てば慣れてしまうんだろうとも感じた。

感覚とは、自分自身の内側や自然の変化、そして目に見えないメッセージを感じ取れるものである一方、社会が作り出している”不自然さ”は僕たちが持ち合わせている素晴らしい感覚を閉ざしたくなるほど刺激が強く、身体への負担が大きい。
感覚を閉ざした身体は思考優位となりやすくなる。

それでも人は刺激を求めて情報や食事、お金やモノなど、より多くの刺激を求め、激しさを増していく。

その刺激は、いつも不安と隣り合わせに存在し、いつしか手放すことができなくなってくる。

すでに身体は悲鳴をあげていることにも気づかずに。

だからこそ、いつも自分自身の内側の反応や声に耳を傾けられるようにしたい。

そうすれば物事はとてもシンプルになる。

自分の感覚を安心して開ける人や場所。

そんな世界が増えたらいいな。



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