土着神

裕福な家で育ち、世界平和を目指すために大学に行ったら、カルト宗教とつながっているとは知…

土着神

裕福な家で育ち、世界平和を目指すために大学に行ったら、カルト宗教とつながっているとは知らずにボランティアサークルに入ってしまい、脱会して、次の大学での元恋人との乱れた性関係やら自殺未遂やら10回以上の転職やら経験して、また仕事している人間です。

最近の記事

自分の言葉15〜愛のみが真理〜

"私は律法とはそもそも何なのかということを考える。律法をどう捉えるのか。律法は慣習的行為なのか、それとも信仰の結果としての行為なのか、ということである。律法の慣習化とは、その律法が定められた理由が忘れられてしまい、人々がただただその律法を伝統的儀式としてのみ捉えてしまっている状態を意味し、主なる神によって与えられた生ける命の律法が、人間によって受け継がれてきた死んだ伝統的行為へと変更されていることを意味する。本来律法とは、神が人間に与えた恵みの御言葉であり、御言葉とはイエスで

    • 自分の言葉14〜悟りはいつもすぐそばに〜

      “神は、誰かを通じて、〝その人以外〟の誰かを通じて、人間に知らせたい福音を知らせる。当人が自分で真理に辿り着いて傲慢にならないように、確実に〝その人以外〟を通じて知らされる。〝その人以外〟の他者を通じて福音が知らされることは、神のご計画を達成するための手段として適切なのか。神はなぜ全ての人に同時に福音を語り給わないのか。なぜ全ての人に天使を送り、神の言葉を預けようとしないのか。それは、神を信じる者が御言葉の奥義を聞き、神を信じない者が御言葉の奥義を聞かないという単純明快な一線

      • 自分の言葉13〜天の座〜

        “天の座は、この世の権力という〈全てのものが自分の思い通りに進めることができる力を持つことができるという意味の最高位〉を表すものではなく、神が既に無償の愛をもってこの世の全てを包み込むことができる立場に座っていらっしゃり、包み込んでいるという事実を表現している。神の人間に対する無償の愛を表すその座には既に栄光があり、神のみがその座に座ることができるので、神に〝既に〟栄光が在る。  天の座には神がいる。そこには神しかいない。神しかいることができない。どんなにこの世の権力者が足掻

        • 自分の言葉12〜現実と共に生きていく〜

          “私たちは、肉体の五感で認識できる現実世界(いわゆるこの世)を大切にすべきである。私たちが認識できる現実は、思った以上に苛酷なもので、単純明快な一つの理論や考え、ましてや一つの書物で解決できるようなものではないが、夢や空想の世界よりも現実の問題と向き合うことの方が結果的には本物の喜びを感じることができる。故に、本当はこんな文書は必要ないのだ。本当に必要なのは、動くことであり、この世界で動くこととは、仕事や家事をすることであり、生きるためにお金を稼いだり、生きるために家事をした

        自分の言葉15〜愛のみが真理〜

          自分の言葉11〜幻にメスを入れる〜

          “神は敵という概念よりも強い。神は私たち一人一人の「概念ではない味方」である。神は私たちを目に見える形で救いによる解放へと導かれる。そして解放された私たちは神の助けを拠り所として次のように心の中で唱えるのだ。「敵はいなかった。それは幻であり、現実には味方しかいなかったんだ」と。 概念は人を幻に閉じ込める。実際概念は目に映らない。目に写っているのは、現実世界しかない。私たちは、その現実世界を概念という色眼鏡を通して見ているにすぎない。故に、私たちは現実世界を見ているのでは

          自分の言葉11〜幻にメスを入れる〜

          自分の言葉10〜救いについて〜

          “神は、聖書に触れ・聖書を聞き・聖書を読む人たちを、人生の苦しみの果てに教会を訪れる人たちを、聖書を読むこともできず教会に行くこともできない苦しみの只中にいる人たちを、そして更に「全ての人間」を愛している。(聖書を読んでいる人がすごいのではない。聖書を読んでいる人は聖書を読んでいる人を蔑むために聖書を読んでいるのではなく、ただ単に自分が神と共に居続けるために読んでいるだけである。聖書を他の人にも読んでほしいと思うのは、聖書を読むことで当の本人の心が実際救われる経験を何度もして

          自分の言葉10〜救いについて〜

          自分の言葉9〜悟らなくていい〜

          “生き方と言葉に偽りがない人とは、人間的な自己卑下や人間的な謙虚さによる服従(媚びへつらうという形での妄想的行為)によるものではなく、〈自我ではなく、自我を超え自我を包含している神の御心に従う忠実さ、一途な思い〉によって生きる人のことである。  神は人間の一途さの中に宿る。一途とは何か。一途であるとは、言葉と行動が一致していることと訳しても良い。本当に真に生きている人・確実に苦しみや悲しみ、喜び、感謝、自分の罪深さが存在する現実の世界を味わいつつ、どうすれば自分や周囲の人そし

          自分の言葉9〜悟らなくていい〜

          自分の言葉8〜自分と向き合う〜

          “神の全能性という〈小ささ・弱さ・脆さ・後悔・自責を実感している只中でのみ働く神の圧倒的存在感と光の差し込み〉。このことは偉大過ぎる。私たち人間にとって、神の全能性は偉大過ぎる。人間にとって神の全能性は何を意味するのか。神が私たちの願いを全て叶えてくださるという意味で神は全能なのか。そういう考えもあって当然であるし、あって良い。しかし、神の全能性は、神の人間に対する〝大滝のごとき怒涛の恵み〟(神が人間に向き合っていること自体が奇跡であり矛盾。恵みは常に矛盾を孕んでいる。大滝の

          自分の言葉8〜自分と向き合う〜

          自分の言葉7〜正直さが自由へのカギ〜

          “本当にイエスという名で表現されている存在を知っている者は神を知る。本当に神を知った者は、罪は犯さない。罪を犯す者は本当にはキリスト・神・愛・大いなる存在などで表される恵みの主体者のことを知っていないだけである。知っていれば誰も罪を犯さない。私は、救いの神・赦しの神・恵みの神、そして、見捨てない神・親友のように親のように伴侶のように共にいてくださる神を忘れない。いや、仮に忘れたとしても、神は私と共にいまし給う。私たちの生には、それほどの価値がある。そして更に、神は本当は、神を

          自分の言葉7〜正直さが自由へのカギ〜

          自分の言葉6〜全員、神〜

          “私の心(お金を礼拝することによる他人への見下しと踏みつけのエゴ)は、神の言葉が疼きながら、それを隠そうとすることで、神の言葉が粛々と唱える無償の愛に基づかない歯がゆい自己肯定「私はこれでいいはずだ」をせざるを得なかった。自己肯定などというものは本来必要ない。神による肯定さえあれば、自己肯定感を高めるための練習などは必要なくなるのだ。なぜならば、神は全てであり、その全てに包まれていることを知った者は自らで自らを掲げる必要などなくなるのだから。ただ自己肯定という作業を通じて、自

          自分の言葉6〜全員、神〜

          自分の言葉5〜悩みさえも幸せ〜

          “人間は人との間に喜びと感謝と分かち合いの心を見出し、人との間に悲しみと怒りと奪い合いの心を見出す。しかし、神は人間に、「神との間」の喜びを与え給う。神は私たちを「人々の間」という網から引き出し、「神との間」という関係に移し、私たちを時をもって導き、進むべき道を備え、進む中で倒れないように糧を用意していてくださる。私は人生に絶望し、何にもまして神に対して悲しいため息をついていた。しかし、神は、絶望し、神に対して悲しいため息をつく者をも顧みる。神は、長い年月の沈黙と暗闇の中から

          自分の言葉5〜悩みさえも幸せ〜

          自分の言葉4〜親との和解、自分との和解〜

          “神は、私たち人間が恵みの可視性、いわゆる奇跡を信じないとしても、それを実現なさる。その実現し給うことが神の恵みの現れなのであり、これまで確実に一つ一つ実現し給うて来たが故に、神は、私たち人間によって愛と呼ばれ、救いと呼ばれる。私たちには、そもそも奇跡とはいかなるものであるのかを前もって理解することが赦されていない。私たちは日々祈り、何かが実現することを求める。しかし、その願いが本当にその祈り通りには叶えられず、別な形で叶えられてきたということを私たちは知ってきたし、今後も知

          自分の言葉4〜親との和解、自分との和解〜

          自分の言葉3〜罪を消す関係性〜

          “〈罪を持ち、的外れな行動を起こしながらも同時に神を讃美する者たちの交わり〉のただ中に、〈罪という言葉に含まれている全ての抑圧的思考回路・神が造り給うた生命を蔑ろにする物事の考え方を消滅させ、私たちの存在そのものをありのままで良しとし、無償の受容をもって弱さ・小ささ・脆さを認めさせ導く聖霊〉がいてくださる。“ 罪という言葉を聞くと、私たちはものすごく苦しいイメージを感じはしないか。少なくとも、悟りを開いた人以外は明るい感じは持たないだろう。 この罪という言葉によって、どれ

          自分の言葉3〜罪を消す関係性〜

          自分の言葉2〜正しいとは愛である〜

          “神に繋がっている者にとって「正しい」とは何を意味するのか。それは、その者が律法を守っているということではなく、神が人間に律法を守らせるということである。キリスト者が神に仕えるということではなく、神がその者を神に仕えるように造り変えていくということである。キリスト者が決めた正しさという基準によって私たちは「正しい人」にはなり得ず、神が決めた正しさという基準によってキリスト者が「正しい人」と勝手に判断され、一方的に認定される。私は自分自身を人間が作った基準においても神の基準にお

          自分の言葉2〜正しいとは愛である〜

          自分の言葉1〜神の主体性〜

          “神は確実に常にどんな時代においても、どんなに悲惨な環境においても、神の救いの活動の芽を生起させる。それは神の欲し給うことであるが故に成される。神が私たちを選び、私たちを召し、私たちを一つ一つの焦点に集わせる。人間が成す活動であれば、いつかは無くなり消滅してしまう。しかし、神自らが生み出し、神自らが召し、神自らが成す。福音を伝える者を生み出すのも、福音を受け止め、信じる者を生み出すのも、神御自身。神が福音を伝える主体者で在られる。神の主体性はなんと強いことか。神の主体性はいか

          自分の言葉1〜神の主体性〜

          全ての存在は対等

          この世界で生きている全ての人間は 神そのものです。 そして、全ての人間は対等な存在であり 同等の価値を持っています。 生命の範囲でも同じです。 全ての生命は対等な存在であり 同等の価値を持っています。 有機だけではなく 無機の世界に範囲を広げても同じです。 石もコンクリートも私たちと対等な存在であり 同等の価値を持っています。 全ての存在は愛によって生み出され 愛そのものです。 誰によっても存在そのものを否定されることは あってはいけません。 役に立つと勝手に

          全ての存在は対等