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自分の言葉2〜正しいとは愛である〜

“神に繋がっている者にとって「正しい」とは何を意味するのか。それは、その者が律法を守っているということではなく、神が人間に律法を守らせるということである。キリスト者が神に仕えるということではなく、神がその者を神に仕えるように造り変えていくということである。キリスト者が決めた正しさという基準によって私たちは「正しい人」にはなり得ず、神が決めた正しさという基準によってキリスト者が「正しい人」と勝手に判断され、一方的に認定される。私は自分自身を人間が作った基準においても神の基準においても「正しい人」にするということを欲していない心も持っているし、様々な感情を持った自分を受け入れていないが、神は私を神の基準における「正しい人」にしたいと欲し、私を神と共に生きる者へと変えたいと願っている。何事においても完全な人間はおらず、完全という基準を私たち人間には決めることはできない。
 私たちは神の前にある椅子に座っているが、私たちはその椅子に無意識に座っている。その椅子は私たち自身が必死になって用意した椅子ではなく、神が事前に、私たちに気づかれないように、こっそり用意しておいた大いなる椅子なのである。「まことにあなたは御自分を隠される神」(イザヤ書四五章一五節)しかし、それにもかかわらず、結果的には、くっきりと鮮やかに明らかに、その大いなる椅子は示される。「正しい人」は、律法から派生した仕来りや社会の慣習というこの世の不文律に含まれる胡散臭さに対して敏感であり、もしくはそれらに食い飽き、一方的な神の恵みという無償性・解放性の真実味を美味しいと感じれる感受性を持っている。“

正しい人になるには、自分の言葉1で言った神の主体性を内に招く必要があるということである。

キリスト者であれば受洗を機に神の主体性を受け入れることを公に表す。キリスト者でなくても、公に表すことで神という言葉で表される大いなる存在の主体性を内に招く。

キリスト者もそうでない人も、自らの力で神が用意した椅子という名の居場所を手に入れることはできない。椅子までの通路は祈りや瞑想によって導かれるが、椅子の場所は決して私たち自身の力では近づけることはできない。

その居場所、その在処は、神が初めから前もって私たちに用意した隠されている宝であり、サプライズである。

そもそも「正しい人」の「正しい」の基準は何か。それは神の主体性を内に招いていない者が決めることではない。もし内に招いていない者が基準を決める場合、必ず無闇に生命を傷つける。

神の主体性を招いて初めて、本当の善について悟れるのである。

それでは本当の善とは何か。

それは、愛である。

恋愛ではなく、親子の愛でもなく、友情でもなく、いや、敢えて言えば、それらを全て包み込み、かつ、それらの核に住まう大いなる愛である。

愛はいつも私たちに全てを与え続け、それでも常にそれ自身で完全を保つ。

愛は混沌の中にも調和を見出し、調和そのものであり続ける。

愛はただただ沈黙とともに佇み、誰をも裁かず、全ての裁きの基準を越えて、生命を包み込み、生命の核で在り続ける。

自然は愛である。宇宙は愛である。そして、私たちも本当は愛そのものである。

愛は文章化された言葉ではない。愛は言葉では言い表せないコミュニケーションによって表現される。

愛についていくら文章で説明しても、語り尽くすことができないどころか、不必要な解釈が生まれる機会を多々生み出す。

プラモデルの説明書をいくら読んでも、完成したプラモデルを見ることはできないように、言葉でいくら説明しても、言葉で理解できるのは、組み立てる前の個々の部品にすぎない。

部品を組み合わせるという祈りや瞑想、そして何よりも心から生きようとする決意による一途な行動を通じてやっと、愛とは何かを体感していく。体感していないということは無知であるのと同じである。

愛は極上の食事でもある。

愛以外はその人を一時的にしか満足させることはできない。しかし、愛は一瞬をつなぎ合わせた永遠とも思える時間の感覚を私たちに提供し、私たちを心底満足させる。

愛は食べても飽きない。条件付きの世界であらゆる条件付きの食事を食べ尽くしたところで、愛には全く及ばない。

愛を食べてしまった者は、条件付きの食事の中にも愛を見出し、愛を永遠に食べ続けることができるようになり、条件付きの世界に飽き、条件を捨てる。条件を手放す。

条件という大きすぎる荷物を、「もう要らない」と言って下ろした瞬間、その者は本当に正しい人、愛そのものになる。

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