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自分の言葉5〜悩みさえも幸せ〜

“人間は人との間に喜びと感謝と分かち合いの心を見出し、人との間に悲しみと怒りと奪い合いの心を見出す。しかし、神は人間に、「神との間」の喜びを与え給う。神は私たちを「人々の間」という網から引き出し、「神との間」という関係に移し、私たちを時をもって導き、進むべき道を備え、進む中で倒れないように糧を用意していてくださる。私は人生に絶望し、何にもまして神に対して悲しいため息をついていた。しかし、神は、絶望し、神に対して悲しいため息をつく者をも顧みる。神は、長い年月の沈黙と暗闇の中から私を引き出し、〈神をこの目で確かに見たかのように周りに感じさせる者〉へと変えた。神は、神を知っていながら神に対して失望する者をも愛しており、現実のただ中に居給う神を知っていながらこの世での救いに絶望する者をも愛する。私たち人間には、「人間の網」をほどく力も知恵も与えられてはいないが、神はその力と知恵を持っていらっしゃる。
 神に心を置く者たちの集まりにも、不信という糸で作られた「人間の網」は存在するが、彼らの間には、聖霊という「神の網」が在る。彼らは「人間の網」にも増して、「神の網」によって包まれている。「人間の網」と「神の網」は、蜘蛛の糸の横糸と縦糸の関係に似ている。その二つの糸はあくまで同一平面上に存在しているが、横糸はねばねばして私たちの心を捕らえる「人間の網」であり、縦糸は粘らず歩くことができる「神の網」である。神に心を置く者は、神が人と人との間にある憎悪や呪いよりも強い故に、横糸に捕らえられている者から縦糸を歩く者へと変えられ、この世のただ中という横糸の中でも、神に心を置くことを保つことが神からオッケーと言われている存在なので、この世界にあっても、彼らは喜びを見出し、神を讃美できる心が神から与えられる。
 私たちは何度も何度も横糸に捕まってしまうが、神によって何度も何度も縦糸に移される。この繰り返しが人を成長させ、真の健常者にさせる。このことを経験した者は、神の名を日常生活においては無暗に他人に使わない。なぜならば、神という名は本来言葉によって語られるものではなく、存在そのものであり、誰もが心の奥底で求めている愛のことを指すからである。”

人間関係はしばしば、というよりも常に、私の心にストレスを感じさせます。アドラーが言う所の課題の分離ができていないが故に、人間関係は蜘蛛の糸の横糸のように、ねばねばしたものになり、心を悩ませます。

しかし、私は思うのです。

「仕事のことで悩むことができるとは、なんと幸せなことか」

と。

私はこれまで何度も何度も転職に転職を重ねてきました。アルバイトも何度もすぐに辞めました。今振り返ってみると、昔の私は神経症や精神障害を抱えていたと思います。仕事をすることすらできなかったのです。

何度も何度も思いました。「なんで仕事を続けられないのか」と。答えは色々あり、「お金のことでそこまで切羽詰まっていないから」というものが一番有力に思えますが、自殺未遂までしていて、明らかに自己肯定感や自尊心なるものが欠如していたのでしょう。

何度も何度も同じ失敗と言えるようなことを繰り返す。ちょっとしたことで人生から逃げようとする。逃げた先でも苦しみ、落ち着く所がない日々がずっと続く。

親のせいにし、社会のせいにし、過去のカルト団体のせいにし、とにかく誰かのせいにしなくては自分のプライドを保てませんでした。

今もそんなに成長はしていない。一人暮らしもできず、実家に住まわせてもらって、楽に、リハビリのように、生活させてもらっています。フルタイムで正社員として仕事はしていますが、親から自立できていません。でも、そんな自分を今私は許そうと思います。

無理に一人暮らしして、自殺することまで考えるなんて、馬鹿げています。自分を許さないで死ぬことを考えるなんて、愚かしいことです。

「人は一人では生きていけない。」

今は、本当にそう思えます。

人はそんなに強くない。一人で生きる必要なんてない。誰かと一緒に生きて、誰かのせいにしてもいい。それでも、誰かのおかげで生きて、適当にでも生きていければ十分すぎる。

「仕事のことで悩むことができるとは、なんと幸せなことか」

本当です。死ぬとか生きるとか、そういう究極的なことではないことで悩むことができることのなんと幸せなことでしょう。人が怖いから職場に行けないと思っていた日々に比べれば、今の私はどれほど精神が安定し、幸せな日々を送っているのでしょうか。

人間の網と神の網を何度も移動し、少しずつ神の網の中で平和な心と共に生きることを学んでいく。私に限らず、人生はそういうものなのかもしれませんが、人間の網の中だけでねばねばした生活をしていては、いずれは糸が絡まって身動きができなくなります。

自分なりの「神の網」を見つけて、この世界の只中で、気楽に生きていきたいものです。私にとっての「神の網」は、読書・祈り・黙想・瞑想・配慮のある友人との交流ですが、本来は全ての場所に「神の網」を見出せるのでしょう。

ストレスの塊のような職場でも、何もやりたいことが見出せないプライベート時間でも、全ての時と場所に神の網は張り巡らされていると感じるときがあります。

神の網で生きている時の私はいつも生き生きとしていて、本当の私のような気がします。

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