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自分の言葉3〜罪を消す関係性〜

“〈罪を持ち、的外れな行動を起こしながらも同時に神を讃美する者たちの交わり〉のただ中に、〈罪という言葉に含まれている全ての抑圧的思考回路・神が造り給うた生命を蔑ろにする物事の考え方を消滅させ、私たちの存在そのものをありのままで良しとし、無償の受容をもって弱さ・小ささ・脆さを認めさせ導く聖霊〉がいてくださる。“

罪という言葉を聞くと、私たちはものすごく苦しいイメージを感じはしないか。少なくとも、悟りを開いた人以外は明るい感じは持たないだろう。

この罪という言葉によって、どれほど多くの人が傷つき、抱えなくてもいい重荷を抱えて生きているかを考えると、私はこの罪という言葉こそ、最大の罪を背負っているような気がしてならない。

法律的な犯罪も、その他自分で自覚している罪も、自分の知識のなさによって生まれる。その犯罪の意味、その自覚している罪が、一体どのような意味を持っていて、どのような作用を及ぼすのかを事前に理解している人間は、その罪を犯さない。

しかし、そんな人間はこの世にはほとんどいない。いるとしても、数パーセントいるかどうか。

私たちは人生で何度か大きな過ちを犯してしまう。

しかし、その過ちそのものというよりも、その過ちから来る余波のようなものがしんどい。

自分の頭の中に流れ込んでくる様々なネガティブな考え。

これでもかというほどに自分で自分を責める言葉を生み出してしまう思考の流れ。

時間が経っても、いや、時間が経てば経つほどに積み重なる罪悪感。

毎日自殺することを考えてしまう地獄のような毎日は、一体いつになったら変わるのだろうか。

それは、関係性によって変わる。

誰かと関わる。何かと関わる。家族、友人、ネット仲間、アニメ、本・・・あらゆる誰か何かとの関わりが変えてくれる。

人と関わるのが無理なら、本でもアニメでも映画でも自然でもなんでもいい。

何も興味がないなら、それでもいい。何もないと思われる自分の言葉をスマホに打ち込むという形で自分と関わるのでもいい。

「今日も1日地獄だった」と思ったら、そのまま「今日も1日地獄でした。明日も地獄かもしれないと思うと死にたくなります。」でもいい。

その関係性を持っていれば、いずれ必ずその関係性を通して、キリスト教で言われる聖霊という名の大いなる内なる生命が、私たちの心に生まれる。

そんなことしたって借金も罪も、あることには変わらないだろと思うかもしれないが、内なる生命が生まれると、「では、今何をするのか?」という現在形の問いのみが今の自分を動かし続け、現在形が自分を支配してくれる。

借金しようが、罪を犯そうが、地獄の日々を味わおうが、諦めなければ、私たちは必ず乗り越えられる。

乗り越えた先に、罪悪感は他者貢献のための肥料・ガソリンに変わる。借金返済の日々は生活スタイルの改善の日々に変わる。

マイナスが裏返ってプラスになる。地獄が裏返って天国になる。

オセロで負けたように見えても、大事な角だけは押さえよう。その角は自分自身であり、誰か何かとの無理のない関わりのことである。

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