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自分の言葉10〜救いについて〜

“神は、聖書に触れ・聖書を聞き・聖書を読む人たちを、人生の苦しみの果てに教会を訪れる人たちを、聖書を読むこともできず教会に行くこともできない苦しみの只中にいる人たちを、そして更に「全ての人間」を愛している。(聖書を読んでいる人がすごいのではない。聖書を読んでいる人は聖書を読んでいる人を蔑むために聖書を読んでいるのではなく、ただ単に自分が神と共に居続けるために読んでいるだけである。聖書を他の人にも読んでほしいと思うのは、聖書を読むことで当の本人の心が実際救われる経験を何度もしているからである。神は聖書を通じて人を救うのではなく、全てを通じて人を救うのである。)”

聖書は確かに人を救います。これは事実であると私は思っています。

しかし、聖書だけが人を救うのではないということも、事実であると私は思っています。

聖書によって救われた人救われる人は、聖書によって救われたからといって、他人に聖書の読書を強制してはならず、お勧めする程度に留めておくべきでしょう。

聖書によって救われた喜びが他者に本当に伝わるときは確かに他者を上から目線では見ておらず、単純な喜びの表現に過ぎないのです。

神様は聖書を読むこともできず教会に行くこともできず、献金もできず、祈りもできない人を、聖書を毎日読み毎週教会に通い祈り続けている人と同様に、完全に愛しておられます。

神様はその苦しんでいる人の心の中にいらっしゃってくださり、いつも私たちを受け止め続けてくださっているのです。

イエス様は確かに救いそのものです。しかし、イエス様だけが救いそのものではありません。

イエス様だけが救いそのものではないにもかかわらず、イエスを主とする者にとっては、イエス様だけが救いそのもの、唯一の救いのように心の底から感じられます。

このこともまた間違いではなく、当人からすれば、イエス様しかその人の人生を本当には救えなかったのです。イエス様以外の誰も、当人を救うことはできなかったという事実がその者にイエス・キリストの刻印を洗礼という形で与えます。

私が言いたいのは、キリスト教も人を救うし、仏教も人を救うし、宗教ではないものも人を救う、飛躍すると、なんでも人を救うのです。全てが人を救います。

ゲームもスポーツも、テレビも小説も、ありとあらゆるものが神様にとっては救う道具になるのです。

救うとか救われるという表現を用いると、なんだかものすごく大袈裟で大それたことに聞こえますが、実際はもっと素朴で身近で、シンプルなもので、皆さんが日々感じる「救われるな〜」的な感覚が正解なのです。

みんな毎日救われています。瞬間瞬間救われています。

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