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自分の言葉14〜悟りはいつもすぐそばに〜

“神は、誰かを通じて、〝その人以外〟の誰かを通じて、人間に知らせたい福音を知らせる。当人が自分で真理に辿り着いて傲慢にならないように、確実に〝その人以外〟を通じて知らされる。〝その人以外〟の他者を通じて福音が知らされることは、神のご計画を達成するための手段として適切なのか。神はなぜ全ての人に同時に福音を語り給わないのか。なぜ全ての人に天使を送り、神の言葉を預けようとしないのか。それは、神を信じる者が御言葉の奥義を聞き、神を信じない者が御言葉の奥義を聞かないという単純明快な一線を示すためである。一見差別的に感じさせるこの事は、実は差別とは逆の受容であり、また、「神を信じる者は救われる」というこの世界で愚かな判断とされるものを知恵ある判断に変える事実である。この事実は、神が〈神を信じる者には永遠の命を〝確実に〟与え、この世に福音を〝確実に〟知らせる〉という印であり、神を信じない者も、この世界で神を信じる者と共に生きているという現実の中で、神の栄光を表す担い手とされているということである。

真理が当人以外の誰かを通じて知らされるということですが、誰かというより何かでしょう。人間でも動物でも自然でもいい。

悟りは当人の力のみによって完成するものではないということを知ることによって、当人は悟りを開くような気がします。

自分の力のみで悟りを開いたと思っている人は悟っていないでしょう。それはただの傲慢な歯がゆい自己肯定「私はこれでいいはずだ」です。本当に悟りに達した人は他者との全ての関わりに有り難みを感じざるを得ませんので、常に悟りの中には他者がいます。

自分の力でたどり着ける境地などというものはたかが知れていて、到達したとしても、土台が脆いのですぐに瓦解してしまうでしょう。私はそれを悟りとは正反対の偽物だと思っています。なぜ偽物かというと、私は毎日その偽物になっているからです。

神を信じる者と神を信じない者という言葉を使って、キリスト者は神を信じる者を人間として優秀だと思い込んでいる時があるようです。(もちろんそうではないキリスト者もいます。)

しかし、それは全くの間違いです。神を信じようが信じまいが、もし愛の神様がいるとしたら、それはどうでもいいことです。

問題は神を信じることによる喜び、神を信じないことによる喜びが確かなものなのかということであり、正直な気持ちから来るものなのかどうかということなのです。

また、仮に神を信じない者が神を信じる者との出会いで大いなる喜びを感じ悟りを開いたり、逆に神を信じる者が神を信じない者との出会いで大いなる喜びを感じて悟る可能性もあります。

私は神を信じる者と神を信じない者を振り子のように行ったり来たりしています。どちらの自分も自分です。どちらの方が正直に喜びが大きいかというと、どちらも同じくらいです。

私にとって一番精神的に落ち着いているときは、神を信じる信じないの振り子が静止したときです。その時のことを私は「一時的な悟り」「平穏」「内面の平和」などと呼びます。

その状態の私は、神を信じるわけでも信じないわけでもなく、神がいて神がいない状態にあるのです。つまり、私=神になっているのです。

神を信じる信じないという表現の時の神は「何かを生み出す者としての神」です。その神は絶対的に全知全能で、私の願いを叶えてくれるはずの神で、私とは全く次元の異なる手の届かない存在です。

私=神になっている時の神は、願望に突き動かされない静寂です。無であり全ての者で、私のすぐそばにいます調和の神です。

どちらの神も私には必要だと思っていますが、本当に幸せなのは、完全な静寂・平穏に在ると同時に、仕事や家事をして、他者と関わりを持って生きている状態でしょう。

孤独の中で悟りを開く人もいるでしょうが、そういう人は物理的には1人でも、心の中では1人ではありません。

私はできれば、目の前に他者がいる状態で悟りを開きたいです。そして本音を言えば、日々の仕事の最中に悟りを開きたいのです。

仕事中にゾーンに入ってバリバリこなすということではなく、仕事中に調和そのものになって、ただ単のタスクの消化ではなく、1つ1つのタスクの中にある愛をじっくり味わい噛み締めるということです。

私は福祉の仕事をしていますが、「〜〜さんがいると、なんだか落ち着くな〜。利用者の方々も落ち着いているな〜」と思われるようになりたいです。利用者に神を見出し、職員に神を見出し、関係者全てに神を見出したいです。

このように、なんだか私は真面目なことしか書いていませんが、普通に食欲も性欲も睡眠欲も承認欲求もあり借金もある、ごく普通の平凡な人間です。むしろ、平凡未満です。会える友達も1人しかいません。自分の過去を受け入れることもできていませんし、未来のことをいつも心配しています。

私がこの記事で最後に言いたいのは、どんな状態の人間にも、悟りはすぐそばに佇んでくれているということです。

学者でなくても有名人じゃなくても、牧師でなくてもお坊さんでなくても、私たちの隣にはいつも悟りが佇んでいてくれています。いつも平和が、いつも調和が、私たちの隣りに静かに居てくれています。

疲れたら、隣にいる、その佇んでいてくれる者に寄っかかって休みましょう。

そしたら、今日を生き抜く力が自然と湧き上がってくること間違いなしです。

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