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自分の言葉8〜自分と向き合う〜

“神の全能性という〈小ささ・弱さ・脆さ・後悔・自責を実感している只中でのみ働く神の圧倒的存在感と光の差し込み〉。このことは偉大過ぎる。私たち人間にとって、神の全能性は偉大過ぎる。人間にとって神の全能性は何を意味するのか。神が私たちの願いを全て叶えてくださるという意味で神は全能なのか。そういう考えもあって当然であるし、あって良い。しかし、神の全能性は、神の人間に対する〝大滝のごとき怒涛の恵み〟(神が人間に向き合っていること自体が奇跡であり矛盾。恵みは常に矛盾を孕んでいる。大滝のごとき怒涛の恵みという表現には「神の恵みは一瞬一瞬どんな時もどこにいても怒涛の如く注がれて続けている」という意味を含ませている。)から現れる。
 取り換え可能な喜び・自分自身を偽ることによる喜び・人を踏みつけることによって生じる喜びのために神が全能なのではなく、この世の只中で現実と向き合って生きる者・現実の只中に居られる神を畏敬する者にとって、神は全能なのだ。神は破滅ではなく調和(流転。流れゆく交わり・混沌の交わりの中に調和という奇跡を見い出せる人であれ。)を願っておられる方である。
 人間的全能性が神ではない。神〝は〟全能なのではなく、神〝が〟全能なのだ。人間は神に全能性という価値を付与できない。既に神は神御自身で御自分が神、全能者であることを知っているのであり、神は、人間が「人間が考え得る全能性」を神に付与しようとする前から既に神は全能なのである。”

神の全能性は弱さを認識した者にしか現れないということでもないのですが、弱さを自覚して、そういう自分を受け入れて初めて、私たちは人間として成長します。

自分の不甲斐なさと向き合い、自分の愚かさと向き合う。真剣に向き合う。本気で向き合う。言い訳せずにとことん向き合う。追い詰めて追い詰めて、向き合う。(精神障害?心の病?今の私はそれを受け入れた上で越えようとしています。)

その時、私たちの予想を超えた何者かの力が自分の内でも外でも溢れて働き出す。

人事を尽くして天命を待つ

と言いますが、まさしく私たちに必要な人事とは、自分の弱さ・愚かさに対して正直な姿勢から生み出される正直な行動・仕事でしょう。

こんな偉そうでもっともらしい文章を書いている私ですが、正直言って、全然自分の愚かさと向き合うことなんてできていません。

いつも自分に正直であることができず、理屈をこねて、自分を誤魔化して仕事している人間です。

こんな私でも、もちろん堂々と生きていて良いのです。完全な人間などいないのですから、生から遠ざかることを考えなくて良いのです。

しかし、私はどうしても、今の自分の状況を好きではいられません。今の自分が嫌いというよりも、今の自分を取り巻く環境が嫌いなのです。

・面白いのか面白くないのか分からない仕事
・借金
・実家暮らし

そういう環境が嫌いなのです。ぬるま湯に浸かったような腑抜けた生活から、私はどうしても抜け出したいのです。

神の全能性はこういう状況をも打開するでしょう。日々の人事をしっかり尽くすことこそが内外の神の全能性の顕現につながるでしょう。

私の人生がこんなもので終わって良いはずがないのだと、私は強く思っています。私は情熱的に真剣に生きたい。

最近「悟りを開く」という言葉に対して、ものすごく先入観が出てきていて、今の私にとっては人生を諦めて虚しい表情で偽りの笑顔を作ることのようにしか感じられないのです。

何かが間違っている。私は人生を諦めることを求めているのではなく、自己実現に執着したいのです。私は執着したいのです。執着してはいけないとか言う考えもありますが、敢えて私は自己実現に執着したい。

自分の人生において、自己実現に執着することを悪いこととして捉えようとする訳の分からない私の思い込みを今ここで捨てたいです。

私は変えることのできない他人や過去ではなく、変えることのできる自分と未来に執着したいのです。そのことを神が望んでいると、私の良心が叫んでいます。

そして、それこそが私を本当の意味で受け入れ、愛し、悟りに至らせることなのかもしれません。

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