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半月の夜に(短編小説)

あれは八月だった。
日が沈み、辺りがすっかり暗くなり始めたころ。
私は外を歩いていた。
田舎の町に人影はなく、街灯もまばらな静かな道だった。
左側には潰れたガソリンスタンド、そして右側には、朽ち果てた大きなお屋敷の庭があった。
塀越しに見える緑がジャングルのように茂り、手入れもされないまま巨大化して歩道まではみ出していた。
海の方から吹いてくる湿気を含んだ風は、どこか不気味な表情をしていた。

早く家に帰ろうと急ぎ足で歩く私の前方を、年老いた小さな老婆が歩いていた。
真っ白な白髪頭で、すっかり腰が曲がり切っていた。
水分の無い皺だらけの手を片方後ろに回し、杖をつきながら、亀のようなペースで一歩、また一歩とおぼつかない足取りを進めていた。

私は歩くペースを速め、老婆を追い抜いた。
10メートルほど歩いたところで、不思議な違和感と、どこかぞっとする感覚を覚えた。
ちらりと左の肩越しに後ろを見ると、なんと恐ろしいスピードで老婆がこちらに走ってきているではないか。
白髪を振り乱し、見開いた眼は、暗闇でも分かるほど光っていた。

あっという間に追いつかれた私の背中に老婆が飛び乗り、首にがっしりと腕を回してこう言った。
「連れてけ。」
老人のものとは思えないほどの力でしがみつかれ、恐ろしさのあまり私はガタガタ震えていた。
言葉を発することのできない私に、老婆はもう一度、
「連れてけ。」
そう言って杖で前方を指さした。

私は老婆をおぶったまま、言われるがままに暗い道を歩いた。
何本も細い路地を通り、見たことのない道を歩いた。
一体どのくらいの時間歩き回っただろう。
老婆が一軒の家を杖で指した。

老婆には似合わない、2階建てのレンガの洋館だった。
門と壁には蔦が絡まり、荒れた庭にはクチナシの木が何本も植えられていた。
咲き乱れる白い花は、半分以上が茶色く変色し、地面に落ちた花からも強烈な甘い香りが立ち込めていた。
疲れ切っている私は、その香りに吐き気を覚えた。
汗をかいた首に、老婆の白髪が張り付き、不快は頂点だった。
この時には恐怖よりも、早く家に帰りたい、そればかりを考えるようになっていた。

老婆を負ぶったまま、蔦を引きちぎりながら無理やりに門を開け、クチナシの花びらを踏みながら玄関に向かった。

真鍮の取っ手はギイっと軋み、ドアが開いた。鍵はかかっていない。
玄関に老婆を降ろし、私はそそくさと帰ろうとした。
老婆が私の手首をつかむ。
「茶飲んでいけ。」
何年も生きてきたがこれほどまでに人の誘いが嫌だと感じたことはなかった。
どうしても解けない老婆の手に根負けし、私はしぶしぶ家の中へと上がった。
埃をかぶった廊下を通り、台所に案内され、ダイニングテーブルに座った。
老婆は棚からやかんを取り出している。

周囲を見渡すと、
台所は隣の居間とつながっており、奥には古ぼけた仏壇があった。
お供えの花瓶に花はなく、老婆の夫らしき人の写真が飾られていた。
その横にもう一枚写真があり、そこに映っていたのは目の前にいる老婆だった。

「おばあさん、本当はもう死んでるんじゃない?」
思わず声に出して尋ねてしまった。
しまった、と思う私の方を見ずに老婆は、
「死んでる。」
そう言った。

「・・・成仏しないの?」
尋ねる私に、
「したい。」
言いながら、茶托に乗せたお茶を運んできた。
茶碗には、何も入っていなかった。

私は、空の茶碗からお茶を飲むふりをした。
「なんで成仏しないんだろう。」

沈黙の後、老婆がうつむいたままぽつりと言った。
「・・・寂しい。」

私は少し老婆が気の毒になった。
人は死んでからも孤独なのだろうか。

ひとしきりの沈黙の後、私はふとポケットに入れていた水色のビー玉のことを思い出した。
今朝、道に落ちているのを拾ったのだ。
昔、祖母と遊んでいたのを思い出して、懐かしくて拾ってしまったのだった。

私はビー玉をポケットから取り出し、目の前の老婆に渡した。
「あげる。マーブル模様が海みたいで綺麗だと思ったんだ。」
老婆はうつむいたまま、手の中のビー玉をじっと眺めていた。

それから私は立ち上り、
「お茶美味しかったよ、ごちそうさま。」
そう言って、洋館を後にした。


外はもう真っ暗で、空には半月がぽかりと浮かんでいた。





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