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コモンズ・フォーラム#1「病の時代における『孵化/潜伏するからだ』をめぐって」シアターコモンズ'21の視聴メモ

登壇者|伊藤亜紗(美学者・東京工業大学准教授)、中村佑子(映画監督・作家)、百瀬文(アーティスト)ほか
司会|相馬千秋(シアターコモンズ ディレクター)

3月7日(日)19:00-21:00、オンライン
※チケット購入者はアーカイブ視聴可

中村さん
今のARの技術だと、現実空間はモノクロの解像度の悪い状態で見える。そこに記憶のカラー映像が浮かび上がるのがぴったり。また、現実のモノクロ空間が、うつ病などの病の人が見ている世界に近いのではないか。
詩人ジョン・キーツは医学生でもあった。弟と母を看取り、自身も結核にかかって自主隔離して恋人とは手紙だけでやりとりして会わず、客死。「ネガティブ・ケーパビリティ―」、判断の留保。

百瀬さん
作品(パフォーマンス)「鍼を打つ」では参加者がまず問診票に記入し、それに基づいた鍼(はり)治療を受ける。
他者と協同することが難しい今の状況。
コロナ禍での医療者への差別。患者と医療者のシステマチックな関係が影響?
鍼治療は、「悪い」内臓に直接打つわけではなく、臓器間の「間」にアプローチするような施術、学問。
自分の身体も所有、把握できていないものなのではないか、という感覚。
鍼師さんと、施術される側の体との対話。

伊藤さん
今は現実がバーチャル(AR、VR)っぽい。
現実にも目に見えないウイルスが存在しているかもしれない。
家にこもっていると、前後や時間がわからなくなってくる「サスペンデッド」な状態になる。
相馬さんの、「演劇もAR」という文章。
障害のある方の話を聞いて、「複数の体」の感覚を聞く。
幻肢。青木彬さんのnote:「アートには『不確かさ』を引き受ける技術があるのではないか」。
レビー小体型認知症。タイムスリップ。現実が変形する。
アルツハイマー型認知症。幻視。もうこの世にはいない両親が現れる。本当は現実ではないとわかっているが、その瞬間が幸福なので体験させておいてほしい。
認知症の方が、湯のみでお茶を飲もうとして湯のみが電話の受話器に変形してしまい「もしもし」という言葉が出る。
前田拓也『介助現場の社会学』:介助と性的なこと(セックス)がリンクしてしまう。改めて両者を考え直す。単にタブーとするのではなく。
百瀬さんの作品は、施術なのかパフォーマンスなのかわからなくなる。施術としては予測可能だがパフォーマンスとしてはどうなるかわからない怖さ。
伊藤亜紗『手の倫理』:道徳と倫理を分けている。道徳は「正しさ」「善」、倫理は限られた中で考えた選択。
ÉKRITS / エクリ」の取材でインタビュアーに「人はそもそも倫理的でないと創造的になれないのではないか」と言われた。
ケアと芸術の違い。↓
いとうせいこう『福島モノローグ』:ケアラーとしての被災者。帰宅困難地域で放置されることになってしまった牛たち。苦しんで死ぬことになった牛を目撃してしまい気付いたら牛のケアをする側になっていた。
ブレイディみかこさんはアナキズムの文脈でケアを語る。『文学界』2020年10月号。イギリスのブライトンで何かあったら連絡してくださいと個人の連絡先を配る人たち。
アネマリー・モル『ケアのロジック』:ケアはコントロールを超えたところにある。
アートは始まりと終わりがあり、計画・脚本があり、役割は固定され、観察である。ケアには終わりがなく、役割は可変で、行動である。

中村さん
アートは、映画なら見終わったらそれで終わってしまうのではないか?終わりのない生には関われないのではないか?という葛藤、苦しさ。
「サスペンデッド」では、最後に鑑賞者に部屋を見て回ってもらうのが大切だった。最後に映像が窓の外に消えていくのも大事。鑑賞者がその映像と現実とをリンクできるようにしたかった。

百瀬さん
鍼治療は、施術から時がたって思いも寄らぬことが体に起こり得る。そのコントロールできなささに賭けたかった。
記者からの、作品を作ることの道義性のようなものに関する問い。
痛みと快楽。同意性。治療者と医療者。SMプレイ。限定的であっても信頼性を構築する。

伊藤さん
安心と信頼は違う。
安心は自分の理解範囲内に相手を置くこと。
信頼は自分にはわからないことを相手はするかもしれないという不確実性を抱えながら相手に任せる。
鍼治療は「歴史のあるもの、多くの人が体験してきたことだから大丈夫だろう」と自分に言い聞かせて、施術を任せた。非論理的ではあるが、それが信頼というもの。

相馬さん
伊藤さんが書かれていたように、触覚には快楽も暴力もある。視覚のように距離を取ることはできない。

伊藤さん・百瀬さん
施術者によって、身体ややり方が違うところに任せている。

相馬さん
今日のゲスト3人は「手」がテーマ。「サスペンデッド」も、「触れたいけど触れられない」。

中村さん
信頼するマッサージ師は、私よりも私の体を知っていて、触ればわかる。性愛にも通じる。
伊藤さんが動物の触覚について書いていることも興味深かった。
母親に触れてしまえば病を感じることも母親を感じることもできるかもしれないが、それゆえに実際は触れられない。「サスペンデッド」ではそれを最も描きたかった。

相馬さん
経済産業省(?)の助成金を獲得。コロナ禍があるから、シアターコモンズではVR、ARでやろうと決意して申請した。
百瀬さんはリアルにいったが、これもまさにVRだと思った。実際に刺されていたのは鍼1本で、ほかは当てていただけだったのに、脳内ではいろいろな刺激を受けている状態だった。
バーチャルは、技術のことだけではなく、演劇の虚構と現実とやはり重なる。

伊藤さん
友人の視覚障害者の鍼師は「鍼の先に目があって、その目で体を探ろう」と言う。

百瀬さん
「サスペンデッド」で、映像が自分の方に来て自分を通過していく演出が衝撃的だった。少し怖かった。

中村さん
その「禁じ手」の演出は作品の中で1回だけ使った。病の人がいる世界を体験するということで。

百瀬さん
(脚本・演出=)問診票は100問くらい。
医療の問診票も、かなり踏み込んだ質問にも答えてしまう、あるいは答えないという選択をする。

中村さん
映像とリアルな場でのベッドやドアなどをリンクさせる。
会場のロケハンで、病のある親がいる子の、世界の解像度が上がる、というのは、光とかの感じ方なのかと思った。
会場の外の道路は意外と通行量があり、車の音や足音が聞こえる。それはもともと想定外だったが、映像の中の音なのか現実の中の音なのかがわからなくなることを作品に取り込んでいった。

伊藤さん
記憶と触覚。
医療者(看護師)が、患者が亡くなった後に、手にその患者の感覚が残っている、と話してくれた。生前は自分が「触っている」と思っていたが、亡き後に自分も「触られていた」と気付いた。患者側も、支えられたときに自分がその体勢になろうとしていた、など。死後も他者との関係性、その人の捉え方が変わっていく。

中村さん
介助する方も多く出入りする家庭で、手に注目。する側・される側ははっきり線引きされるわけではない。手で感じること。

伊藤さん
中村さんが「潜水する感覚で撮影する」、百瀬さんの作品のイラストでも人が水に浮かんでいる。

百瀬さん
鍼治療の感覚をイラストに描いた。自分の体が島になったような感覚。水面下でつながっている。グーグルマップのピンを指すイメージも。
ジュディス・バトラー:他者によって、自己が解体され、所有の感覚を失うことは必然。苦しみでもありチャンスでもある。

中村さん
撮影するときも、堅いカメラを通しているが、水中にいるときのような、他者を受け入れやすくなっている状態、自分を解体する状態をイメージしている。

伊藤さん
タコは「輪郭がない」。人間のように脳からだけ指令してはいない。水中にいるとああなるのか。

中村さん
普段は個の形にとらわれている。水中ではもっと自由になれるのではないか。本来は人もそうありたいのではないか。

相馬さん
言葉にできないもの、名指せないもの、分類できないものを、近代は枠組みにはめようとしてきた。
コロナ禍でも、打ち勝ってオリンピックをしようとしている。
アートは、そこから排除されたもの、はみ出したものを拾って提示していくものではないか。

中村さん
「濡れたぬるぬるを都市に置く」ことも作品として考えた。
病状もアートも流動的、そこからしか形あるものは生まれない。(アート=ケア、ではなくて)

百瀬さん
シアターコモンズ’21のプログラムの中で、自分の作品だけ接触を扱い、浮いていると思っていたが、実は見据えているところは近いと気付いた。
ヘッドセットを着けないことにしたのは、体験者が自分の目で鍼師のまなざしを感じてほしかったから。フーコーが書く「まなざし」。

中村さん
自分が溶けるのを怖がる人もいる。

百瀬さん
ヘッドセットを着けてずっと緊張している人もいる。内圧的に自分を縛ってしまう人もいるのか。

伊藤さん
体が環境にもなり得る。潜伏の場。ウイルス感染や妊娠。
自分の体を取り戻す、治る。でも、治るとは何か?
製薬会社。感染症を扱う会社は、自分とウイルスの線引きが明確。精神疾患だと、幻聴は自分か異物か?幻聴をなくすのが治療か、でも幻聴と生きていきたい人もいる。人それぞれ。
コロナ禍を生きる上で、これからますます大切な問い。

相馬さん
「治癒」のテーマも重要。
完全な治癒があり得ないという前提に立てば、どう共存していくか、どう宙づりのままでいるか、を考えるのがアート。
宙づりを悪いとするのではなく。


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