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黄金をめぐる冒険㉓|小説に挑む#23

黄金を巡る冒険①↓(読んでいない人はこちらから)

台所に戻ると、既にコップも水も机から片付けられていた。その空間には静かに座る彼女の姿だけがあり、その少し寂しそうな横顔は、どことなく誰かに似ていた気がした。それを思い出そうとすると軽く頭が痛んだ。

「僕の体は本当におかしくなってしまったみたいだ」
「ここではそういうことも起こりますから」
「急なことでとても驚いたんだ。だからあんな言葉遣いを……」
「そういうこともここでは起こり得ます」

そう言って彼女は優しく微笑んでくれた。僕はもう一つの椅子に腰かけ、また彼女と向かい合った。そこから静かな時間が流れ、彼女は自分の左手の甲を右手の親指でさすりながら、その反復を虚ろな目で眺めていた。僕には見えないだけで、もしかしたら彼女の手には取れない何かが付着しているのかもしれないと思った。

ふと彼女は顔を上げ、寝床で眠っている四人の男たちの方を向いた。その横顔はやはり誰かに似ている気がした。顔、声、それにお互いの距離感みたいなものに郷愁のような懐かしさを感じる。一緒に居ると落ち着く、そういう類の懐かしさだ。

だが、僕はこんなところに来たことも無いし、ましてや山小屋なんかに泊ったことなんて無い。おそらく”地獄の道”の前で離ればなれになってしまった『彼女』が恋しのであろう。『彼女』と見た三日月はとても綺麗だった。儚く大地を照らす太陽の恵みを一部失った地球の衛星の光……

月? あの洞窟に月なんて存在しなかった。あるのは暗闇だけだ。彼女と三日月を見たなんて、そんな非現実的なことはありえなかった。
僕の中で夢と記憶の境目がどんどんあやふやになっていく。現実と非現実の見境が無くなり、終いには善と悪の区別が、その壁が消滅する。僕は廻り、そして混ざり、果てに失い、僕の底へと流されていった。

水は下に向かって流れていき、諸君は底に向かって落ちていく。水は大気によって上へと運ばれ、諸君は記憶によって天まで昇っていく。それは世界の循環であり、諸君の真理なのだと、”孤独”はそう言った。

***

意識が視界へと戻ると、彼女はまた左手の甲を親指でさすっていた。何がそんなに気になるのだろうか、僕は思い切って彼女に尋ねてみた。
「手の甲が気になるのですか?」
「いえ、癖みたいなものです。なぜかここに傷があったような気がして、触ってしまうのです」
左手の甲を見ながら、彼女は静かにそう答えた。

「傷? 傷なんて無い綺麗な手だと思いますが、」
急に僕の言葉が途切れた。僕ははっとした。あの白い”壁”らしきものを抜けるときに、『彼女』の左手には傷があった。きちんと舗装された一筋の綺麗な傷跡。『彼女』は僕に約束してくれた、僕の隣に居てくれると。

おそらく、『彼女』はこの世界できちんと僕の隣に居てくれているのだ。『彼女』は肉体そのものを超え、その存在をこの世界で伝播させて僕のそばに居てくれている。
僕にとってそれは、彼女から受ける優しさと哀れみ、そして愛情という「鍵」であった。

パタパタパタと記憶は音を立てて、過去を僕の底から上昇させはじめた。そして過去が現在へと流れ込み、はっきりとした意識を僕に与えた。
僕は『彼女』を知っている――。

僕の目から、水が下に向かって流れた。それは頬を伝って机へと落ち、真っ直ぐな一筋の綺麗な跡を作って、途絶えることなく下へ下へと流れていった。それは僕と『彼女』を繋ぐ一本の道のように、僕の記憶へと還っていく。

流れが止まると、目の前にいる彼女は、僕に優しく声を掛けてくれた。
「ここまで長い道でしたね、もうお休みになりなさい」

そう微笑んで椅子から立ちあがり、居間にあるストーブの隣に寝袋を用意してくれた。僕は頬を拭い、曖昧な視界と鮮明な記憶でふらふらと居間へと向かった。
「ありがとう。水も飲んだし、寝るとするよ」
「ええ。おやすみなさい」

彼女は例の如く優しい笑顔と澄んだ声で、もう一度おやすみなさいと言った。僕は頷き、ストーブの火を消し寝袋にくるまって目を閉じた。

そしてとても深い眠りが僕を襲った。

第二十三部(完)

二〇二四年六月
Mr.羊
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