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人生設計にもHDPネクサスは必要なのではないか。

緒方貞子女史は言った。

「人道危機は政治的なものです。私たちは難民に対し人道支援を行うことはできます。しかし解決は政治的になされなければなりません。人道支援で解決はできないのです」

蓋し名言である。

紛争により長期化した人道危機は緊急支援では解決しない、先住民の追放と殺戮という80年に及ぶ問題の本質から目をそらし、責任の所在を有耶無耶にしてはならない。そのためにもまずは停戦だ。

カ"サ"情勢についてコメントを求められるたびに、筆者はこのような事を言ってきた。

そして、物資を運ぶために莫大な費用をかけて埠頭を設置し、安保理で支援の増加や検問所の開閉について侃侃諤諤の議論を繰り返しながらも、肝心の人道危機の要因である占領、繰り返される殺戮に対しては何ら制裁等の具体的措置を取らない先進諸国に憤ってきた。

彼らは人道支援を隠れ蓑にして、問題の根本的解決、今行われている虐殺から国際社会の目をそらしているだけにすぎない。

まさに盛大なマッチポンプである。

しかしかくいう筆者は、自身の人生に付きまとう葛藤と、ここ1,2年のミドルエイジクライシスに対し、緊急支援と形容するのもおこがましい場当たり的な対応に莫大なリソースを投下するも、危機の根本要因にメスを入れずに放置し続けた。

危機が顕在化したのは、最終面接でことごとく散った就職活動や、筆記試験でそこそこの成績を収めるも人物評価でカスみたいな点数を食らった公務員試験だが、それはあくまで一つのターニングポイントにすぎない。

そもそもの根本要因とは、過去への執着である。そして、執着から生まれる短期的な衝動、それによって目の前に現れる人参を追いかける高揚感だけをあらゆる行動の原動力にしてきたことだ。

幼少期、足が遅く、コミュニケーションに難があり、眼鏡をかけていて、やせ細っていた筆者はとにかく舐められた。

あらゆる場面で、その二級市民以下の扱いに辛酸をなめ続けた。

明確に暴力を振るわれるだとかそういう事は少ないので、むしろ手に負えなかった。

ゴミ扱いにいよいよ耐えかねて反乱を起こすと、結局喧嘩両成敗で処理されて終わりだった。

しかし、中高と(地方の自称進とはいえ)成績上位のクラスに行き、そこそこの大学へとステップを進めていくうちに、周囲に足を引っ張られることがほぼなくなった。

そういうところにいる、自分自身を高めることに一生懸命になっている人間というのは、コミュニティに事故で一匹混じってきたチー牛を、チー牛呼ばわりして茶化す余裕などないのだ。

ただそれだけなのに、筆者は自身の努力によって、プリミティブな野蛮人の世界を出て、「腕っぷし」や「その場のしょうもないノリ」や「上っ面のコミュ力」とやらではなく、それ以外のもっと高尚なところで勝負できるインテリゲンツィアの世界に上り詰めたのだと勘違いした。

そして、これからも自身の生きやすさのために、上り詰めていかなければならないのだという強迫観念は未だに完全にはぬぐい切れていない。

そもそもその生きづらさを解消するためには、せめて髪をツーブロックにして立ち上げるだとか、最低限筋トレを習慣化するだとか、姿勢を良くするだとか、コンタクトにできないならせめて眼鏡をもう少しあか抜けたものにするだとか、マニアックな音楽や落ち目のプロ野球チームにのめり込むのは止めて、世間一般の流行を最低限抑えるだとか、そういう自身の生きづらさにダイレクトにアプローチする打ち手をまず取るべきだったのだ。

(今となっては習慣化したものも多いが、どうも手遅れ感は拭えない)

しかし、なまじその生きづらさがほぼ視界から消えたので、そういう本質により近い部分に対応することなく、的外れな対応を続けた。

とにかくインテリゲンツィアの世界で何とか居場所を確保するために、痛々しいほど必死になった。模擬ナントカとかいうサークルでもそう、大学のトルコ語の授業でもそう、ゼミでもそう。

そして、新卒でうっかり入ってしまったネジ屋で、それまで高校~大学の6,7年間で覆い隠されていた生きづらさが一気に爆発した。

なんせその数年の間で耐性が無くなっていたものだから、全身が木端微塵に砕かれた。

「やはりこのプリミティブで無教養な(自分の事を棚に上げてひどい言いぐさである)、アラブとペルシャの区別はおろか、トルコとインドの区別も、イスラムとスライムの区別もつかない連中の中にいたら自分が腐ってしまうのだ、インテリゲンツィアの世界への固執こそが自分を救うのだ」と再び確信し、「G務省か死か」という究極のクソゲーに挑み、前者に受け入れられることもなく、無論後者を選ぶ度胸など1mmもなく、28歳フリーターになり下がった。

筆者は生きづらさに対する認知の歪みと、それによって明後日の対応を繰り返すことで生み出された無限ループの中で衰弱していった。

筆者は霞ヶ関の人事官に、自らを売り込むどころか、人生の敗戦処理を押し付けようとしていたのだ。

ジュネーブ条約を無視して占領下の住民の福祉やその他諸々を全て国際社会に押し付ける占領軍のように姑息である。

そして、修士課程で地域のコンテクストを無視し、西洋的紋切り型の枠組みや原則を無批判に適用した結果引き起こされた数々の"Do No Harm"の教訓を文献から学ぶ今も、自身の人生設計においては長期的に問題にアプローチするという発想はまるでなく、どこかの誰かの生存者バイアスにまみれたアドバイスや、サルトルやニーチェ、アドラー、秋田ひろむ、MCアフロ、そして危機感ニキに救いを求め続け、まさにアフガン、コンゴ、カ"サ"のケースの如きprotracred crisisを再生産し続けている。

己の人生設計には安保理決議のような法的拘束力もなければ、憲章7章のような強制行動もない。

ただし、経済制裁よりも強烈なダメージを与える「後悔」が発展の可能性を確実に狭め、気付いたら袋小路に陥っているのである。

HDPネクサスは、人生設計にこそ必要なのだ。

なぜなら、人間は永遠に「発展途上」であるのだから。

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