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【人生の遍歴】親の離婚再婚束縛・DVダメ男経験済みLGBTQ+女性美容師が25歳で上京して4年後、表参道にサロン開業&会社設立

私をよく知らない方のために

簡単に人生をまとめました。


ちょっと眉毛久しぶりに描いたら太くなりすぎちゃった最近の私です。


1992年9月4日

茨城県ひたちなか市に生まれる。血液型はABの乙女座。のちに6人家族となるうちの長女。家族構成:父母私弟妹弟。1番下の弟とは11歳差である。

 


小学生になる前

母親が前父と離婚、小学4年生になる頃に現父と再婚。(前父は仕事を終え酔っ払って帰宅すると仕事のストレスを母に当たるDVだったそう。現父は母の中高の同級生で当時交際していたらしい。母と再婚する頃には父方の祖父・祖母が営む理容室で働いていた。)


母が学生の頃

やっていた卓球で優秀な成績を残していたため、私は小学生低学年には卓球スポーツ少女少年団に入り、スマッシュの仕組みが全く理解できずに終わり、得意だったのは玉拾いだった。中学年から同級生に誘われた水泳を中学卒業する頃まで続け、当時流行っていたアニメ“ヒカルの碁“にハマり地元のアマチュア級のおじいちゃんたちが教えてくれる囲碁教室に通い始める。小学4年生の時、ドラマみたいな出来事で担任の先生から受けた意地悪により金管バンドに入れず、その無念を晴らすために中学校では念願の吹奏楽部に入部。ずっと憧れだった楽器トランペットを高校卒業まで6年間続け、高校では学生指揮者にも推薦され兼任。当時はより一層多感な時期だったため、惚れに惚れてしまった交際相手に振り回される日々を送りメンヘラであった。毎日aikoや椎名林檎、Superflyを聴いては自転車を爆走させながら歌いまくって気持ちを発散していたものである。今でも、クラシックからロックまで大好きである。

母の教育論

「人に迷惑をかけなければ、好きなことは好きにやって良い。でも自分で働けるようになったら自分の責任で、自分で稼いでやりなさい。」
「何もせず、ただでお金がもらえると思うな。お金は湧いて出てこない。お金が欲しいなら人の役に立ちなさい。」
「自分がされて嫌なことは人にしてはいけません。」
「世の中にはいろんなセクシャリティの人や人種がいて、偏見や差別をしてはいけません。」
「美緒が好きになる人が男性だろうと女性だろうと、どんな人だろうと美緒を幸せにしてくれる人を選びなさい。」
「結婚=幸せではありません。結婚して変わる人もいるし、付き合って変わってしまう人もいる。付き合う人選びは慎重に。」
「女性に手を上げる人はどんな状況でも最低です。」
「お酒とタバコは身体によくないです。お酒は嗜む程度ならいいけれど、特にタバコは吸う人にも周りの人にも良い影響はありません。」
「親の目の届くところにいるうちは、親の言うことを必ず聞いて守りなさい。」
「家を出るまではお泊まりも禁止、門限は19:00、どこに行くか必ず言ってから出かけなさい。」
「(自分の好きで私を産んだはずなのに)育ててやってるんだから、家のことくらい手伝いなさい。妹弟の面倒も見なきゃだめでしょ。」だった。
お小遣い制とかは存在せず、1項目50〜100円の家中の掃除や家事を15項目くらいにして一覧表を自作し全部終えてチェックしてもらったら報酬として1000円もらえるようにしていたし、バイトできる年齢になった瞬間から携帯代と部費を稼ぐために朝練もして放課後の部活もギリギリ18:30頃までやった後、自転車で爆速でバイト先に向かって22:00まで働いて帰宅する生活を3年間続けた。偏見がなく育ったので、自分自身も一緒に過ごして幸せだと思う人をセクシャリティや性別関係なく人をパートナー対象と考えるようになったし(=全性愛者:パンセクシャル)、性癖以外暴力はいけないと認識してるし、結婚がゴールとかそれだけが人生の幸せじゃないって知ってるし、自己責任でなんでもできる覚悟を持てるように育ったし、世の中の危険を諭されていると分かっていても門限を厳しくされたりルールを虐げられたり母の価値観を押し付けれれるのは嫌すぎて、縛られて自由にできないことが嫌すぎてめちゃくちゃ反抗して喧嘩して取っ組み合いになったし、小学生の時から次の日の時間割をランドセルに背負って頻繁に家出しては父に連れ戻されていた。父には「お母さん美緒のこと心配してるからっていうのもあるんだよな。言い方はアレだけど、頑固だからさ。美緒が表面上だけでも謝れば丸く治るからさ。ここは美緒が大人になって、家に帰ろうよ。」と諭されて渋々家に帰っていたけど、私の心の中は育ててくれたことに感謝しつつも、「親が産みたくて勝手に産んだワケだから育てることなんて親の当たり前の責任なんだけどな。」「なるべく早く家を出るぞ。自由になるぞ。誰にも縛れれない人生を生きるぞ。」だけだったのを覚えている。こうやって文字に起こすと、結構母私に酷なことしてると思う。どうして私が我慢しなきゃいけないことがあったのか、腑に落ちなかったことがたくさんある。私はいつも自らその複雑なモヤモヤ感を噛み砕いて先手回って子供として理解したくないことを理解しながら生きていた。母の教育論や価値観には感謝している部分もあるが、反面教師にして育つしかなかった部分もある。それさえも全部ひっくるめて今の私を構成しているのだから、納得するしか、飲み込み受け入れ消化するしかないこともある。
めちゃくちゃ正直に書いているが、嫌いな部分もあるし好きなところもちゃんとある。だから一緒に旅行に行くこともあるし、疎遠なわけでもなく、大人になって家を出て、いい距離感で過ごしているという感じだ。

母がシングルマザーになった頃

母が働きに出ている時間は、一人かあるいは3つ下の弟と過ごす時間が多かったために図書館や本屋さんで時間を潰すことが多かった。だからその頃から気になった本や漫画をたくさん読んでいた。自己啓発本も心理学の本も体の仕組みや美容の本もたくさん読んだし、漫画や小説もたくさん読んだ。読むことも、字を書いたり物語を書いたり絵を描くのも好きだった。描いたものを母がたくさん褒めてくれて、ある時から家族の似顔絵を描くと喜んで買ってくれるようにもなったので、人を喜ばせると対価としてお金がもらえる感覚をそれで学んだ気がする。(おじいちゃんの白髪の髭を抜いたら1本十円のバイトもあったな。笑)今も、本を読んだり絵を描いたり字を書くことは好きだ。

2021年11月に久しぶりに描いてみた絵。ジムのパーソナルトレーナーのたくやさん。
初めてiPadでちゃんと描いた。マッチョも描くの楽しかった。


学生時代

個性が目立ちすぎる友人たち(私を含めAB型ばかりだった)と常に一緒に過ごしていた。学生時代は学生時代にしかできないことを全力でしようと中学校一の不良くん(根はいい人だった)に3年間の片思いしたり卒業文集にそれを綴ってその後それに気づいた不良くんが連絡してきてくれたけど、もうその時には高校入学後に出会ってすぐ好きになってくれた男の子と付き合ってしまっていたり、その男の子との恋愛は泥沼化してズブズブにハマり、高校までは部活と恋愛とバイトといういかにもな青春時代を謳歌した。


高校で進路を考える時期

母は「大学や専門学校の費用までは出せないから行きたいなら奨学金なりバイト代なりで、どうにかしなさい。」とのことだったので、私は“今後の人生をどう生きていきたいのか?”を考えるようになった。昔読んだ自己啓発本で“人生は逆算だ”みたいなことを読んだからだと思う。その時にはすでに当時の彼氏と125歳(確か当時の最長寿ギネス)まで生きることを目標にしていたので、そこから125歳までの人生設計図を書き始めてみた。(その当時の設計図通りに意外となってる人生だから不思議だ。)私は母の教えや当時読んでいた自己啓発本で「お金は何もしなければ湧いて出てこない。お金=人を喜ばせて得られる対価=仕事」だと思っていたし、それなら自分が仕事をするなら好きなことじゃないと続かないだろうし、頂く対価が同じなら私が好きなことで得たいなと思っていた。「じゃ、私が人生を通してずっとやっていきたい好きなことってなんだろう?」と考えたとき、たどり着いた答えは“自分が関わったことでその人の人生がより豊かに幸せになること”だった。それを軸に考えて好きな行動・仕事はたくさんあったけれど、その中で1番私の好きなことが多く重なった職業+先に専門的資格を取得しなければいけない職業が美容師だったのだ。美容師なら資格さえ先に取得してしまえば、お客さまや友人に一生髪を任せてもらえるし、美容師以外としてもファッションやメイク、メンタル、内面から外見にまで、一生、その人の人生に携われて、良好で密接な関係を続けながらその人の人生に私が携わることでその人の人生がより一層豊かに幸せになるなら、私も幸せでお客さまたちも幸せでWinWinじゃん!となった。これは、現父が理容師をしながらお客さまと仲良しすぎてお客さまの車まで修理したりして喜ばれてお礼をもらっていたのを見てきたからだとも思う。(それゆえ、実家にはいつもお客様から頂いたお下がりの電化製品や差し入れが絶えなかった。)


高校卒業と共に

地元茨城県の美容室に18歳で就職した。本当はすぐに東京に出たかったけれど、周りに相談すると「親からの仕送りがないとキツイよ」「茨城でも基礎は学べるし、東京にセミナーとかいけばいい」と言われ納得してしまい、地元でできる限りのことをした。専門学校には自費で学費を払うために一年遅れて通信過程に入学し、働きながら勉強に励み、学費と生活費を稼いでなんとか3年で専門学校は卒業し、美容師免許取得。今思えば、月6日制のシフト休みの他にも働きまくっていたので本当に体力お化けだった。当時ドクターストップが出るほど手荒れの影響で指の腹の皮膚がなくなっていた。

昔の手荒れの写真。今思うとなぜこの状態で仕事を永続的にさせてしまっていたのか・・・。


2017年、私が25歳になる頃

東京の美容師主宰のオンラインサロンに参加していたのをきっかけに東京と地方の違いを認識し、周りからの後押しで覚悟を決めて表参道の一角にお店を構えるヘアサロンに転職。顧客0の状態から暇さえあればSNSで自身の活動を発信し始めたら、瞬く間に指名予約が増え続け1年で年間1500名以上を指名担当させて頂きながら著名人やインフルエンサーにも支持して頂ける整体術からランジェリーなどトータルビューティを提供出来る美容師と認識されるようになった。営業日には予約がパンパンな為、なるべく多くのお客様を受け入れようと自分の休みや時間を使って予約を受け付けるようになり、年間のうち1番の繁忙期12月には毎年休みは無しにして9:00〜24:00までご予約を受け付けることが恒例になり、2020年12月の売り上げは専属アシスタント一人に手伝っていただきながらでも714万円を超えていた。今思うと、完全に働きすぎだった。



その後

もっと自由に私のこだわりの詰めた独自の世界観でもっとお客さまに安らぎのあるプライベートな空間を提供したいと思い、2021年7月に独立。南青山にトータルビューティーサポートサロンとしてMUSE.incを開業。オープン後に使用できる施術の前売りチケットを販売したところ約550万円も購入金額が集まり、週6日10:00〜22:00の営業形態を2.5ヶ月間続け、お客さまと1:1のこだわり空間で過ごした。
その間、シンデレラバスト(胸のサイズが小さめの方)向けのランジェリーブランドfeastとコラボしランジェリーが2種類“a new choice”と“with roses”が販売されたり、髪を柔らかく美しくすることで有名なヘアアイロンブランドradiantとのコラボ“forMUSE”ver.ストレートアイロンのクラウドファンディングでは416万円もの支援金額が集まった。


自分で課した度を超えた過重労働

2021年10月頃、ずっと抗っていた腰痛と体力の消耗が祟った過重労働により心身のバランスを崩し、軽度の鬱状態(職場や地下鉄などの閉所で軽度の呼吸困難になるなど)を経験をした末、2022年4月から療養と永続的な活動と生存のため、新たな美容師の生き方として年間20万円の会員制を開始し、新規の受付は中止、木曜日〜日曜日までの週4日午前中のみ美容師をしながらサロンの経営業に励むこととなった。

働き方を変えるということは

それまで仕事人間だった自分を変えることになる=自身の考え方(脳内)から紐解く必要があった。なぜそういう考えを持つようになったのか、自分が本当に望んでいたものは何か・・・この時、カウンセラーさんにお世話になることになるまで、自分を犠牲にしてまで相手に尽くすことが己の正義になってしまっていたことに気付けないでいたことに気づく。

人生で初めて、カウンセリングを受けてみたら

全ては幼少期から体験して感じてきたことから生まれた思考から始まっていたことや、脳の仕組みから自分が今まで選択してきた行動の原因と結果を理論的に知ることができて、とてつもなくスッキリした感覚を得た。一度、自分の過去に起きたことを直視するタイミングでは辛かったことを自覚・再認識したくさん涙を流したが、自分を“ちゃんと”知ることができて、気持ちと脳内の整理ができた。今と今後どう生きることが自分にとって最重要なのか、何がストッパーになっていたのかがわかるようになっただけで、心がとても軽くなった。ここでカウンセラーや人生相談、自問自答の先導役の必要性に気づく。そしてそのカウンセラーさんの人柄の重要性も。(過去にお客様が“資格保持者のカウンセリングを受けたことがあるけれど、私が気にしすぎることが悪い、世の中に合わせて生きた方が利口だし余程生きやすいと指摘されたことがありトラウマになりました”と仰っていたので、美容師にも色んな人がいるようにカウンセラーも様々なようです・・・)


自問自答の先導役の必要性

自由奔放に我が道を行く勢いで生きてきた私でも、自分一人では、自分の思考の及ぶ範囲でしか物事を考えることができなかったため、意外にも自分にストッパーがめちゃくちゃかかっていた。(例えば、会員制にして予約を制限することや午前中のみ美容師をすることはお客様に申し訳ないだとか。)それをカウンセラーさんはいとも簡単に外してくれたのだ。私もこのカウンセリングと自己理解の体験を、人生に困っていたり、人生のターニングポイントで迷っている人に経験してもらい、人生をより良くするために使ってほしいと強く思った。
そして、私がもし美容師という職業が何らかの理由で出来なくなったとしても、カウンセリングでもお客様や誰かの人生に携わりながらその人の人生をより豊かに幸せにすることができる!なんて最高なんだ!と気づいたのである。


原点に還る。誰かにとって、私はどう在りたいのか。

私と関わる特別で大切なあなたに、豊かで幸せな人生を生きてほしい。
妥協をしないでほしい、自己犠牲による我慢をしないでいてほしい。
あなたにとって、最高でいてほしい。
他人のためではなく(そんな日もちろんあってもいいけど)
あなただけのために、在ってほしい。
自分の身体や人生はあなただけのものだから。
私は私の限りで、美容師として身体をケアする整体術・髪をぷるんぷるんにする縮毛矯正・小顔&頭の形を美しく見せるカット・髪を美しく見せるカラーを、一人の人間として脳科学や心理学や独自の経験によるマインドケアを、女性でありパンセクシャルでもありながら、あなたを本来の意味で豊かにするサポートをしていきたい。

・・・と、ここまで書いても

まだまだ私の人生色々ありすぎて、割愛してるところ多々あるんですよ。
また書き足すか、他の記事で書いていきますね。

経歴まとめ

・2011年高校卒業後地元茨城県にてフレンチカットのヘアサロンに入社。
・2012年茨城美容理容専門学校通信課程に入学。
・2017年国家試験合格美容師免許取得。
・2017年12月末で7年勤めていたサロンを退社。
・2018年1月に上京。
・同年表参道のヘアサロンに入社。顧客0の状態からの再スタート。
・入社3ヶ月で整体術メニューがSNSで爆発的話題に。各メディアに取り上げられ、著名人やインフルエンサーを含むお客様の予約はどんどん増加。月120名以上を施術。
・1:1のマンツーマン施術で入社3ヶ月で130万円、5ヶ月で150万円、7ヶ月で170万円の指名売り上げを突破。
・主に女性からの支持を得て、Twitterメインの発信から縮毛矯正、髪質改善技術も人気に。平均350〜400万円の月指名売り上げになる。
・2019年12月には1:1施術でも指名売り上げ420万円を超える。
・2020年12月専属アシスタント1名と714万円の売り上げ伝説的記録に。
・2021年2月交際1年未満のパートナーと事実婚。
・同年3月独立に向けた施術の前売りチケットが約550万円売れる。
・同年6月末上京後勤めていたサロンを退社。
・同年5月合同会社MUSE.incを設立。
・同年7月15日南青山にトータルビューティサポートサロンMUSE.incをオープン。その後ヘアアイロンブランドとランジェリーブランドとのコラボ制作販売が行われる。週6日10:00〜22:00営業を2ヶ月半続け心身に無理が祟る。(特に腰痛の悪化。)
・同年10月に週4日10:00〜19:00営業に切り替えるも軽度の鬱状態に。(話そうとすると涙が出る、職場や地下鉄などの閉所空間で過呼吸が起こるようになるなど。)
・同年12月にヘアアイロンブランドとのコラボストレートアイロン“ForMUSE”のクラウドファンディング開始。416万円もの支援金が集まる。
・2022年1月に意を決して脳科学を利用した総額50万円のカウンセラーを受けることに。カウンセリングの回数を重ねて鬱状態からの脱出に成功。
・同年4月美容師としてのご予約は年間20万円の会員制、週4日午前中のみに移行。美容師業以外に、心理学や脳科学、オリジナル商品の開発、ピラティスなど学びと活動を広め深め続けている。
・今現在、唯一無二の「外見からマインドまでのトータルビューティをサポートする美容師」として多くのお客様に支持され続けている。




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