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優しい殺人者(ヒットマン)

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この物語は、フィクションとして描かれています。
 なお、登場する地名、団体名、個人名などは架空のものであり事実とは一切関係ありません。

表紙デザイン 星野彩美

優しい殺人者

著者 星野 彩美

その日はどうも蒸し暑かった。ジリジリと照りつける日光は、容赦なく男の肌を焼く。光一は、ハンカチを手に額から流れ出す汗を拭っていたが、あまり意味はない。吹き出す汗は増すばかりでハンカチを湿らせてゆく。まるでおしぼりのようだ。これが冷たかったらどんなに良いものだろうかと、叶わない願いを考えたりする。この登り坂は、中年の俺にはキツイ。だけど仕方ない。坂の上に俺が根城にしている安アパートがあるからだ。

息を切らしながら、登り切るのも一苦労だ。先ほど坂の下のコンビニで買った弁当と冷えていたビールは人肌に変わっている。戻っているといった方が正解なのかもしれない。光一を嘲笑うかのようにそばを若い女性が過ぎ去っていく。彼女は息切れさえしていないようだ。若い連中はいい。未来があるからな。女性は片手に土産物らしいどこかの百貨店の紙袋をぶら下げてあっという間に見えなくなった。俺はなるべく日差しを避けるように街路樹のある歩道に移動して再び歩き出す。

俺も昔はあの若い女性以上の身体能力を身体全体に張り巡らせて頭にアンテナを立てていた。いや、今でもその癖は抜けきれてない。昔と違うのは、以前のほうが人間離れした精神と肉体だったということだ。だから、一般の中年よりも肉体的には高いだろう。でなければ、誰がこんな斜面の坂を登ろうなんて思うだろうか。光一は苦虫を噛んだ表情だ。

俺もまだ捨てたものじゃない。予定より早く登りついた坂の頂上は目的を達成した感が襲ってくる。自然と笑みが綻ぶ。表面に水滴の飽和したビール缶をもう一度キンキンに冷やすにはどれくらいの時間を要するだろうなど、たったひとつの楽しみを考える。そんなことはいつものことだ。
今は坂の上に登頂したときに、目的を達成したご褒美のビール缶が冷えたままの状態で現状維持することが次の俺の目標だ。

俺は「何なく」斜面の坂を登り切ると安アパートに入る。中からは叫び声が聞こえてくる。キンキン声で張り上げているようだ。その声はアパートの外にまで響き渡っている。

「だからぁー、私はここに住んでる影山光一に用があるっていってるでしょ?」

「ありえませんね、あの人のところにこんな美人がくるわけない。お帰り願えますか?」

女性は片手に紙袋をぶら下げて、俺の部屋の前で喚き散らしている。先ほど、俺のそばを通り過ぎて斜面の坂を登っていった女性だ。
あれは、さっきの…。

あッ…!影山…さん?影山光一さんですよね?
久しぶりッ!元気だったのかい?と俺は躊躇わずに彼女に近づく。
まさか、連絡してきてくれるなんて思わなかったよ。
…と、影山は女性に近づくと軽くハグを交わして女性を中に招き入れた。「さ、入って…」
そして、いかにも健康そうな歳下の管理人女性に声をかける。
あ、洋子さん。僕の知り合いですよ。
管理人の洋子は両手を腰に添えて睨みを効かせている。
洋子は不機嫌そうな顔つきで影山にフンッと怒り気味でソッポを向いて自室に入っていった。

不躾ですまないことをした。と影山は汗さえ掻いていない彼女に頭を下げた。
「先ほど、機転を効かせていただいてありがとうございます」
顔と外見からも容姿端麗が窺えるその女性はにこやかに笑顔で答えた。
…ところで君は?
立ち話もなんだから、そこに座って。と影山はオフィスを兼ねたリビングの革張りのソファに彼女を促した。
すみません!と女性はソファに埃がないかチェックしてからハンカチを敷いて腰掛けた。
…そんなに汚くしてないよ。と影山は笑いながらコーヒーメーカーに冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを2杯分注ぎ込む。
…それで?僕に用とは依頼か何か?と喋りながらコーヒーミルをクルクルと回し始めた。
「私の名は、角田玲子といいます」「すみだ」です。
よく、「つのだ」とか「かくた」とか間違われます。
彼女は言葉遣いまで丁寧だ。育ちが良いのかソファの座り方までキッチリしている。両脚を揃えて組んで斜めにすると背筋を伸ばして、モデルのようにして座っている。
…見たところ、金持ちの令嬢と言ったところか。とまるで品定めすることかのように見つめる。
五分ほど他愛もない世間話を交わしてからコーヒーを持って彼女のまえに差し出した。
「コーヒーは飲めますか?」もうすでに入れておいてから様子を伺う。
「中にはカフェインアレルギーの人もいるんでね」
女性は影山が喋ってあとに続く。
カフェインアレルギーというものは存在しないですよ。
もともと身体に良くないものなので。と影山を否定するように言葉を遮る。実際にはカフェインアレルギーは存在する。彼女が言ってるのはカフェイン過敏症のことじゃないのか?
「いただきます…」とカップに汚れがないか調べている。
女性はコーヒーにひと口、口をつけてから、何か言いたそうに考えている。
…神経質な女性だな。この人は。
…ところで、私にどんなご用でしょうか?
影山まで言葉遣いが丁寧になる。というより彼女に合わせたカタチになった。

「単刀直入に申します。私を殺人者にしてください。」

「は?」影山はこの女性は突拍子もないことを言う。と鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきをした。

「あなたの弟子になりたいのです…」

わたしはただの私立探偵です。人を殺める行為は行っておりません。そう言うことはあまり他言しない方があなたのためですよ。口を慎んだ方があなたのためになる。分かったら、お引き取り願おうか。それ以外の依頼ならお受けします。うちには事務員がいなくてね。仕事の依頼はすべてわたしが受けるか受けないか考えてる。一般の探偵事務所なら事務員がいて、仕事の依頼の管理業務を行っている。
私、知ってるんですよ。何もかも。あなたの素性を調べてますから。
何を言ってるのか理解に苦しむ。お引き取りください。と影山は入り口まで落ち着いた表情で歩くとドアを開ける。
角田玲子は軽く目を閉じると少し考えながら、立ち上がり入り口まで歩く。そして…「お土産、よかったら召し上がってください。」と両手を前にして軽く頭を下げて、部屋をあとにする。

玲子は外に追い出されるカタチになり、茫然自失している。
ドアに見つめながら、踵を返して立ち去ろうとしたら管理人が自室から顔だけを覗かせている。そして口を「イ〜」と言うカタチにしながらあかんベーをした。
玲子は少しカチンとしたらしく、激しく睨みつけて、「ふんッ」と向こう側にソッポ向きながら後にした。

玲子が去ったあとに、管理人の洋子がノックもせずに入室してきた。そして入り口で両脚を肩幅まで広げると身体を少し傾けながら腕組みをして睨みを効かせる。今にも怒りそうな顔だ。
「何なの?あの女は?私に内緒で女を連れ込もうなんてありえない」
影山は、後ろ手に片腕を上にあげて、手を振って挨拶。
「ちょっとした知り合いさ。それに洋子さんはただの管理人ではないのか?」
「わぁぁぁ…!」といきなり洋子は泣き出す。
「光一が虐める…わたしを虐めるぅ…!ああああ」
両手で顔を覆うとその場にしゃがみ込んで泣き崩れる。
「あんな女じゃなくて、私がすべて世話してるでしょう…」
…と両手で覆った指の隙間からチラッと視線を影山に向けて様子を窺う。
はいはい…飯は?洋子さん。それから女性から差し入れだ。
食べ物らしいからお茶請けにでもしてくれないか?
洋子は管理人だが、影山のオフィスの事務員みたいな存在だ。
影山の問いかけに「泣いたふり」をした洋子は鼻歌を歌いながら出ていった。
それにしても…あの女性。なぜ?俺のどこまでを知ってるというのか?
電子レンジで温めた弁当を取り出して、ビニールを剥がしながら考えこむ。
情報漏洩はどの経緯だ?もう俺はすべて足を洗ったんだ。戻ることもないし、ありえない。
影山はただの私立探偵だ。洋子の経営するワンルームアパートを転がり込むように間借りしている。洋子とは古くからの知り合いだ。昔、2人の間に何があったのは、聞かないでほしい。洋子の部屋一室を借りて細々と経営している。大した依頼などはない。収益の大部分は痴情のもつれによる依頼だ。それから影山は携帯は持たない。時間に縛られるのをもっとも嫌う。連絡は手紙か洋子宅の固定電話のみだ。その方がストレスなく生活できるし、仕事も捗る。あとは、今のように直接事務所に来る依頼主の仕事内容を聞いて、受けるか受けないかを決めている。洋子は管理人だが、なかば事務員扱いだ。間借りしているとはいえ、ここでは影山のほうが実権は上だ。
洋子はセミロングのストレートヘアでブラウンカラーに脱色した美白の30代半ばの独身女性だ。訳あってアパート管理と経営をしている。運営紛いの言わば、光一狙いの押しかけ管理人みたいなものだ。いつも浅いグレーのタイトスカートにジャケットを羽織り白いワイシャツは上からボタンをふたつほど開けている。去年の誕生日に影山からプレゼントされたパールのピアスがお気に入りで毎日のように身につけている。事務員気取りなんだろうが、影山は助かっている。
弁護士気取りでジャケットの向かって右側に菊の紋章らしきバッチまでつけている始末だ。細長い黒縁のメガネをかけたキャリアを気取っている。
洋子のことはほっとけばいい。俺は俺のことに精一杯だ。
あのことがあってから、以前の仕事もやめて探偵業を密かにやるだけの生活を送っている。
住む場所も追われて、転がり込んだこの場所は、俺の今の住処であり根城だ。
先ほどの来客者の角田玲子が言っていたとおり、俺の前職はヒットマンだ。ヒットマンはスナイパーとはちがう。
ここで説明しておく必要がありそうだ。
ヒットマンとスナイパーの主な違いは以下の通りです:

ヒットマン
- 役割:暗殺者として特定のターゲットを殺害するために雇われる人物。

- 任務:ターゲットを暗殺するために、接近戦、毒殺、爆破など、さまざまな手段を使用することができます。

- 方法:ターゲットに近づいて殺害することが多い。また、ターゲットの動きを追跡し、計画的に暗殺を実行する。

- 依頼主:一般的に犯罪組織や個人からの依頼で動く。

- 武器:ピストル、ナイフ、爆発物など、さまざまな武器を使用します。

スナイパー
- 役割:長距離から正確にターゲットを狙撃する射撃の専門家。

- 任務:軍事作戦や警察の特殊部隊などで活動し、特定のターゲットを遠距離から狙撃することが主な任務です。

- 方法:狙撃銃を使用して遠距離からターゲットを射撃する。ターゲットの観察、風向きや距離の計算など、高度な技術が要求される。

- 依頼主:通常、軍や警察、特殊部隊に所属しているが、フリーランスの狙撃手も存在する。

- 武器:主に狙撃銃(スナイパーライフル)を使用し、高倍率のスコープを装備しています。

共通点
- 両者ともにターゲットを排除することを目的としていますが、その手段と方法に大きな違いがあります。

- 高度な訓練とスキルが求められる点では共通しているが、ヒットマンは多様な手段でターゲットを排除し、スナイパーは特に射撃の技術に特化している。

角田玲子はどこの経路から情報を得たのか疑問が残る。だが、もう金を積まれてもやろうとは思わない。
俺は数年前に、俺の仕事が原因で家族を亡くしてしまった。
大切な家族を亡くして、俺一人が今だにのうのうと生きている。何と言う皮肉だろうか。
生きる希望さえ失ってしまい、今は生きる屍と同レベルだ。
忘れていたこと、記憶から遠ざかっていたことが蘇ってきた。

「誰か…俺を抹殺してくれ」

自分で自殺することは出来ない。

たとえ、その日が来ても俺はもう後悔はない。この世に未練はない。やり残したことさえない。俺を待つ家族の場所へ行くだけだ。洋子か?彼女のことは心配ない。あれでタフな女性だ。
俺がいなくなっても彼女なら上手く生きて行くだろう。
俺はベトナム帰りの元兵士だ。
ベトナムは地獄だった。国のためにひたすら戦った。何人もの仲間の兵士が目の前で命を落としていった。 
俺の中で記憶が動き出した瞬間だった。
…カチャ…。「何だ…」誰か入ってきたな。
俺は枕の下に手を翳す。しかし、遅かった。
それは、突然俺に覆い被さってきた。身のこなしが素早い。
何者だ?いくら現役ではないにしろ、元ヒットマンの俺を交わすとは。口元にタオルらしきもので塞がれて意識が遠のいていく。「洋子…洋子は?アイツは大丈夫なのか…」
もう大切なものを失うのはごめんだ。
だから、俺は自分以外の人間に関わり合いになることを拒んだ。遠のいていく意識の中で目の前に微かに見えたものは。

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