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クラシック音楽の美しい呪い【エッセイ】

21歳の私の人生のうち、21分の20はピアノ(クラシック音楽)に囚われていた。囚われて、執着していた。

それでも、執着の離れた今、時折イヤホンから流れるのは、堅苦しくも美しいクラシック音楽だった。

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少し、自分の過去について書かせて欲しい。長いと感じるかもしれないが、知らない人間の21年間の1部を、たった1500文字で聞けるチャンスだと思って、少しだけ、聞いていって欲しい。

幼い私が気づかないうちに、親とピアノの先生がコンクールを受けさせてくれた。何度か、何年か繰り返すうちに、自分にそれなりの才能があることを認知した。周りの子がジャニーズグループに騒いでいる間、何百年も前に作られた曲を、何度も何度も繰り返し弾きこんだ。練習を頑張ったり、良い結果が残せた時に褒められることが、生きがいだったのだと、今になって思った。
何故「今になって」なのかというと、幼い子どもには大人の意思がよく反映されるように、私の意思がどれほど強いものだったのか、思い出せないからだ。
ピアノを弾くことは楽しく、結果を残して自分の価値が確立された時は嬉しかった。

中学に上がってしばらく経った頃、執着は始まった。

中学時代というのは、ほとんどの人にとって「大人の意思」が徐々に離れくる時期だろう。例に漏れず、コンクールに出るか出ないか、結果の出なくなってきたクラシック音楽をやめるか、最終判断を私が選べるようになった。
しかし、私は現状維持を希望し、さらなる高みを目指すことをやめなかった。
それは、コンクールで良い結果が出せなくなってきた私にとって、完全に執着だった。自分があれほどアイデンティティとしていたピアノを無くしてしまったら、自分は自分では無くなってしまい、全くの無価値な存在になってしまうと思っていた。
それは、音楽高校を卒業し、さらに1年かけて挑んだ県立の音楽大学に最後の三次試験で落ち、もう1年かけて、今までの自分とは全く別の進路を選び切った時まで続いた。その頃、気づけば20歳になっていた。呪いは、歳を追うごとに、焦りを餌としながら私を縛りつけてきた。

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ピアノ以外は何もない人間なのではないか、と囚われ続けながらも、1年かけてなんとか選び切った新たな進路は、思いのほか性にあっていたようだ。

学業が忙しくなり、ピアノに触れる機会が減った。「1日弾かなかったら、ピアノの腕は3日戻ってしまうんだよ。だから毎日練習しなさい。」と言われていた私が、1週間以上鍵盤に触らない事は、20年間生きてきて初めてだった。その頃、今までの分を取り戻すかのようにポップスを聞き漁った。

ピアノに触れなくなっても、周りの人間の態度が変わることは無かった。「最近は弾いていない。」と素直に打ち明けてみると、残念がる人はいたが、新たな進路を応援してくれた。
ピアノが無くても、無価値な人間に成り下がってしまうことはなかった。そもそも、人間たった1人の価値なんて、考えなくてもよかったのだ。

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イヤホンから、ピアノの音を流してみた。
新しく買ったBluetoothイヤホンで、ピアノのみの音楽を流すのは、もしかしたら初めてかもしれない。
なんともいえない懐かしさを感じた。
自分の指が1本ずつ、座っていた自分の膝を、順番に音に合わせて叩くのを感じた。無意識だった。

執着が離れた今も、呪いはかかったままのようだった。
でも、美しいと思った。

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