見出し画像

小1女児が初めてのおこづかいで漫画「ガラスの仮面1巻」を買う決断の先。

はじめてのおこづかいで買ったのは、漫画「ガラスの仮面」の第1巻でした。

幼稚園児の私は、4歳年上の兄が毎月お小遣いをもらっているのがうらやましくて仕方ありませんでした。

「あなたも小学校に入学したらね」
と母から言われており、待ちに待ったその日。
渡された月謝袋のような封筒には500円が入っていました。

買うものは決めていました。ずっと前から。
私はさっそくその500円を握りしめ、いや、握りしめることはできなかったのですけど。
なにせ、当時はまだ「500円硬貨」は存在せず、もらったのは「五百円札」。表記もおのずと「500円」ではなく「五百円」と書きたくなります。青いインキの紙幣が懐かしい。

ななめがけのイチゴのポシェットに小さなお財布を入れ、近所のショッピングモールの中の書店へ。ショッピングモールといっても昨今のお洒落な大型ショッピングモールのようなものではなく、スーパーに生花店や薬局などいくつかの専門店が併設されたスーパーにちょっと毛が生えた程度のものでした。

書店に入るとまっすぐ漫画本のコーナーへ行き、どれを買おうか物色を始めました。
先程「買うものは決めていた」と言ったが、正確に言うと決めていたのは「漫画の単行本を買う」ことで、どの漫画を買うかはこれから選ぶのです。

「自分の好きなものをなんでも買えるお小遣い」同様、「漫画の単行本」も当時の私にとって「お兄さん・お姉さん的な」ちょっと背伸びした存在だったのです。

私は本が好きでした。両親の影響もあると思います。
我が家は「毎週土曜日は図書館の日」で、家族で図書館に行って本を借りるのが習慣だったんです。
絵本や童話や児童書もよく買ってもらっていた気がします。

だけど、「漫画を買って」とは言えませんでした。

なんとなく言いづらかったのです。幼稚園児の私は「漫画」という存在にちょっとした背徳感を抱いていたのかもしれません。
だから、「自分の好きなものをなんでも買っていいお小遣い」を手に入れたら、絶対に漫画を買おうと決めていました。

少女向けの単行本のコーナーを隅から隅まで全部の棚を見て回ります。平積みされているものはもちろん、棚に入れられているものはタイトルを見て気になったものは引き抜いて絵を確認し、裏表紙に書かれているあらすじをくまなく読んで。

当時、身長が120センチしかなかったので、もしかしたら一番上の段は背伸びをしても見られなかったかもしれないけれど、とにかく目の届く範囲の漫画本をすべてチェックし、棚と棚の間を行ったり来たり何往復もして、最終的に私が手に取ったのは、「ガラスの仮面」の第1巻でした。

主人公の北島マヤちゃんがガラス製の仮面を手にしているオレンジ色の表紙の単行本。当時、確か360円だった気がします。

500円のお小遣いでは1冊しか買えません。しかも、その時すでに「ガラスの仮面」は十何巻かまで出ていて、第1巻を買うということは、今後のお小遣いもすべてこれに費やす覚悟の上です。
1か月に1冊。お小遣いで他に一切何も買わなければ、3か月ごとには2冊買える。そこまで計算したのも覚えています。

もし面白くなかったら続きを買うのをやめて別のにすればいいという人もいるかもしれませんが、そんな選択はあり得ません。そのために、絶対に面白い漫画をこうして選んでいるのですから。第1巻を購入する時点で最後の巻まで購入することを含めての決断です。


「脚本家で能面師です」というと、「ぜんぜん違うことをやっているんですね」なんて言われることがあります。
そう言われると、なんだか落ち着かない気持ちになります。
自分の中では同じくくりのものなのだが、どう説明したものかと戸惑うのです。

能面師と脚本家の共通性について考えた時に、「ガラスの仮面」のことをふいに思い出したんです。
あぁ、私の原点はこれだったのか、って。

演劇、舞台、表現、表情、仮面。
今、私が脚本家としても、能面師としてもまさに取り組んでいること。
やっぱりここは私の通る道なのだ、とうなずけました。

最近、頻繁にいろんな人がこう教えてくれます。
世の中は偶然なんてなくて、すべて必然。なるべくしてそうなっているんだよ、って。

今、脚本家と能面師という仕事をしているのは、そうなるべくしてなっているのだと、「ガラスの仮面」を思い出して改めてそう思えた日。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?