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映画 鬼滅の刃で泣けなかった私

みんなが泣くと豪語する
映画『鬼滅の刃』を見てきました。

結果、全く泣けなかった次第で、
さてはて、感情が無くなってきたのか
と思ったけど、どうやら違っていました。

まず、泣いた人に『どこで泣いたのか?』を
聞いてみてから、自分検証です。
(ネタバレあります)

【炭治郎の家族の回想シーンなど】
私は家族崩壊、虐待連鎖の家族だったので
暖かな家族に自分を載せられない。

【煉獄さんの戦闘と回想】
回想に関しては、上と同じく家族ネタだから。
戦闘に関しては、自分の戦い方と似てて
やるだけやるしかない!な所を見守ってた。

【炭治郎の不甲斐なさでの涙】
もし自分の力足らずな場面に遭遇したら
私はそれを受け入れて
いかに次へむけて精進するか考える。
だから泣き続ける彼をみて、共感がなかった。

つまり…
自分に近い体験や思考がなく
擬似投影が出来ないから共感できなかった。

と言うこと。
 
じゃあ、泣くという感情表情は
私はどこで勃発するのか?
もう泣くことに繋がる感情が
冷めてしまったのか?

そこで最近泣いた場面を思い返してみました。
それは、
神社での『知らない3歳児の七五三』。
一生懸命に柏手を打って
お参りしていたのを見て
勝手に、うるっとしてましたww
子ども相手の仕事をしているからでしょう。
『健やかに育ってね♪』という想いと共に。
きっとその3歳児に
生徒を投影させてたのかもしれません。
あっ、映画なら『ダンボ』の実写版みて
号泣でございましたww

鬼滅の刃の映画はとても面白かったです♪
泣くポイントは人それぞれで
楽しむポイントも人それぞれ。

自分を通して“違っている”を楽しめました

#エッセイ #コラム #鬼滅の刃 #マインド #泣く #感情 #映画 #違い #共感

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