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雑感記録(101)

【断片的休日】


予備校の教室7階。時刻は朝9:30。本日は快晴ナリ。

窓際の席に座る僕は北側の景色を眺める。マンションが立ち並ぶ。過去に父親に聞いたことがあるのだが、山に囲まれた地域で地盤の関係だか何だかの関係で建築物の高さに制限があるそう。確かに東京や他の地方都市に比べると見上げるような建物はあまりない。それはそれで首が疲れないから良いのだけれども寂しい気持ちもする。

360度、山に囲まれた地域で育ってきた僕にとっては山そのものが1番高いものである。景観は非常に良いが面白みという点ではあまりワクワクしない。しかし、その分かなり落ち着いた雰囲気でそういった所は昔から好きである。県庁所在地であるわりに、駅から離れれば町は栄えているというよりは落ち着いている。逆を返せば、エキサイトなものは何もない。

新緑の山を見る。空の青さと山の緑が映えていて何だか心が落ち着く。不思議なもので、昔から見慣れている景色であるはずなのに、毎年そこに新しさを感じてしまう。はたとそこでハイデガーが思い出された。

永遠回帰の教えにおけるもっとも重い本来的なものは、まさに永遠は瞬間にありということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目的を疾駆する刹那とかではなく、将来と過去の衝突であるということである。この衝突において、瞬間は本当の瞬間になる。

細谷貞雄監訳 ハイデガー『ニーチェ』
(平凡社 1997年)P.372

将来と過去の衝突。本当の瞬間になる…。正直よく自分でも理解しきれていないところがあるが、文字面だけが頭に浮かび上がる。ただ何となく、どことなく分かる気がするという程度のものだ。僕はこれからのことと過去に思いを馳せながら時間が来るまで思考を巡らせていた。


予備校の教室7階。時刻は朝9:40。本日は快晴ナリ。

教檀にたむろしている、スーツを着たおじさん達の動きが慌ただしくなる。「これから試験についての説明を行います」云々かんぬん…。ああ、そうか僕は今から試験受けるんだとそこで改めて認識し、手元の解答用紙に眼をやる。見慣れた解答用紙。羅列される番号。カナ氏名欄。アンケート。眩暈がしてくる。

再び景色を眺める。先程とは雲の動きが大分異なる。雲の動きは速い。僕は置いてきぼりだった。会場に入る前に後輩たちと話したことが思い出される。今まで「さん」付けで呼んでいた人が役職名で呼ばれるようになり、況してやその人が僕の直属の上司になった訳だ。何だか最近、何事も速く進みすぎている気がしてならない。余裕を感じる隙を与えない。

僕は取り残されてしまった。ヒシヒシとそれを感じる。何度目のアナウンスだろうか。何度目の会場なのだろうか。何度目の解答用紙なのだろうか。何度目の問題用紙なのだろうか。考えたらキリがない。僕の過去は渋滞している。あれやこれや眼に映るものに触発され湯水のごとく溢れる過去が現れ始める。

おじさんはマニュアル通りにマニュアルを読み進める。音だけでもそれが分かる。そこに使用されている言葉がそう感じさせるのか、はたまた同様の状況を過去に何度も繰り返し経験したことによるものだろうか。あるいはその両方か。注意事項なんて紋切型のオンパレードだ。もはや聞くまでもない。

1羽の鳥が横切る。一瞬だったから何の鳥かは分からない。だが、鳥が飛んだことは分かる。…「分かる」?本当に?もしかしたら鳥じゃなかったかもしれない。大きな虫だったかもしれない。あるいは未確認飛行物体かもしれない。どうして僕は鳥が飛んだと分かったのだろうか。

ただ一つ言えることは、「ニューアカ」の言説の魅力が、実は単純な意味で「わかりにくいものをわかりやすくする」ということだけではなかったのではないか、ということです。
「チャート=カタログ=マップ」と同じくらいに、読者の心をくすぐったのは、高度で難解な「現代思想」を平易で明解なロジックに変換してみせただけではなく、それを更に多くの固有名詞と新奇な用語群でややこしく彩ってみせたことでした。(中略)
この「難解ー明解」の往復(シーソー)運動のような回路は、ニューアカ以降の「ニッポンの思想」の特質の一つだと思います(われわれはこの後すぐ、それを蓮實重彦の「文体」によって確認します)。しかし、前にも書いたことですが、そもそも「わかりにくいものをわかりやすくする」とは、どういう意味なのでしょうか。「わかりやすい」と思えた時点で、それはもともと「わかりにくく」はなかったことになってしまうのではないでしょうか。よくよく考えてみると、よくわからなくなってきます。というか、それ以前に、「わかる」とは一体、どういうことなのでしょうか……?

佐々木敦『ニッポンの思想』
(講談社現代新書2009年)P.102,103

僕はそれを鳥として「分かった」気になっていただけかもしれない。「分かる」という言葉は危険だ。「分かった」と自分の中で了解してしまった瞬間にそれは思考の対象外となる。現に僕は横切った物体を鳥として「分かって」しまったことで、それがなんであるか考えることを辞めた。


予備校の教室7階。時刻は朝10:00。本日は快晴ナリ。

「それでは問題用紙を開けて解答を始めてください。」との声と同時に僕は手元に視線を落とす。置かれた問題用紙を開く。ビリビリと音が響く。僕は毎度この瞬間に『Men In Black』の試験の場面が思い出される。

Men In Black

ウィル・スミス演じるJが、トミリー・ジョーンズ演じるKにMIBに入る試験を受けてみろと言われ、MIB本部に試験を受けに行く。その場面で最初にペーパーテストを受けるのだが、その時に鉛筆を使って問題用紙を開ける場面が流れる。少しコメディタッチで描かれ、鉛筆で開けようとしたら鉛筆が折れてしまうという珍事が発生。その時のウィル・スミスの表情は未だに鮮明に覚えている。

僕は今まで点線を丁寧に手で開けてきたが、今日ぐらいはふざけてみようと思ってシャーペンを使って開けてみた。しかし、実際にやってみると難しいものがある。勢いよく下から上へシャーペンをスライドさせた。表紙は分断された。

もういいやと諦め解答を進める。書かれた文字列を眺め、再び眩暈がする。数字が並ぶ。桁数は何千、何億といったものだ。僕は普段こういうものを見慣れているから別に何とも思わないが、通常縁がない人間からすると凄い桁数何だろうなと思いを馳せてみる。

当初、僕も戸惑ったものだ。1,000万円の束すら今まで見たことないのに、入社して1ヶ月足らずで普通に触っているし眼に入る。不思議なもので人間、そういう環境に慣れ続けると札束なんてただの紙にしか思えなくなってくる。これは非常に怖いなと感じる。

一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態Ⅲ)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。
そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界の中で一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態Ⅱではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態Ⅲでは自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である。(中略)
金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にたいしてすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。すべての他の商品と同じように、金もまた、個々別々の交換行為で個別的等価物としてであれ、他のいろいろな商品等価物と並んで特殊的等価物としてであれ、等価物として機能していた。しだいに、金は、あるいはより広い範囲のなかで一般的等価物として機能するようになった。それが商品世界の価値表現においてこの地位の独占をかちとったとき、それは貨幣商品になる。

岡崎次郎訳 マルクス『資本論』
(大月書店 1972年)P.131,132

貨幣は価値体系から弾き出されたものである。長ったらしく書いているが、至極簡単に言えば「貨幣も商品である」ということだ。つまり、何十束の紙幣を見ても僕はそれを「貨幣」と価値あるものとして見られず、僕には「商品」にしか見えない。畢竟するに、紙幣も僕にとってはモノでしかない。

問題なのは貨幣そのものに価値を置くことであると考えている。交換過程。これが肝心である。貨幣は交換して初めて価値が出るということではないのかなと思う。銀行に居ると本当に紙幣が段々とモノでしかなくなってくる。これはある意味で発見だった訳だ。


予備校の教室7階。時刻は朝10:43。本日は快晴ナリ。

集中力が切れた。電卓で遊び始める。ひたすら1を足し続ける。1+1+1+1+1+……。しかしすぐ飽きる。あと17分したらここから抜け出せる。もう少しの辛抱だ…。退屈だ。もはや僕にはなす術がないのだから、こんなところで時間を無駄にしている場合ではない。

カタカタと周囲から電卓をはじく音が響く。それにしても暇だ。無駄な時間が流れる。しかし、無駄な時間はあっても時間は無駄ではない。この時間をどう使おうかと考えてみたところで辞めた。何だか全身の力が抜けてしまいもはや何も残らないまま僕は時間に置き去りにされる。

それに抗うために僕は捨てることを選択した。今こうしている時間の根源を辿れば、それは決して僕が必要としたことではない。半ば強制的な時間による拘束。「置き去りにされる」ではなくて正しくは「置き去りにさせられている」である。僕は自分でこの環境に居る。ここからの脱却。

いずれこうなりたい、ああなりたい、こうしたい、あれしたい…。僕は将来を考える時に必ず枕詞として「いずれ」を付けてしまう。「いずれ」っていう言葉は便利だが危険だ。先延ばしの言い訳を合法化している言葉だから。こういう言葉を使っているうちは将来のことを考える資格など無いのかもしれない。

そういう自分を変えたくて、今のままではいかんと思った僕は抜け出すことを実は2年前から密かに考えていた。時間は随分と掛かってしまったが、そろそろその時が来たのかもしれない。しかし最後までは気が抜けない。全力で挑む。こんなところで全力出す訳にはいかない。


予備校の教室7階。時刻は朝11:00。本日は快晴ナリ。

終った。いや、終えた。何と清々しい気分であることか。もう何も残らない。これからのことに向けて全力をやっと出せる。こんなくだらないことに時間を費やしていたかと思うとほとほと自分に呆れてしまう。しかし、取りあえずは終ったのだ。

会場を後にする。エレベーターを待つ。窓の外を眺める。やはり変わらない。山に囲まれた建物。僕らは自然に見られている。監視されている。ただ何だろう、別に悪い気はしない。何十年何百年とこの山々は僕らを監視してきた。過去そして将来を見届け続ける存在としてあり続ける。

瞬間に居る。衝突を受け止め続ける。そこに広がる山々は瞬間であり、永遠がそこにはある。本物の瞬間というものはもしかしたら延々とそこにあり続ける、正しく永遠回帰なのであるのかなと変なことを思う。

エレベーターが開く。僕は階段で降りることにし、その瞬間にある永遠を噛みしめて降りていく。


退屈なる休日の断片。よしなに。






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