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雑感記録(223)

【「好き」=「感謝」】


ここ数日、個人的にだが仕事が愉しい。別に何か良い事があった訳でもなく、正直大変なのだが、しかし愉しい。何でだろうなと考えてみる。冷静に考えて、社内の人と密にコミュニケーションを取るようになったからかなと思う。色々と任されるようになって、わりと重要で大変なことも任されるようになって、ヒイヒイ言いながら上司と仕事をしている。ああでもない、こうでもないと考えて話しては、「なるほど、自分の考えが甘いんだな…悔しい」と毎回打ちひしがれ、こうしたら良くなるんじゃないか?と考えに考え…。そんな毎日である。表には決して出さないが。

あとは単純にだが、自社製品が好きというのも当然にある。これは何の冗談でもなく、本気である。その製品を良くしたいという気持ちも少なからずある訳で、間接的にではあるもののそういったことに関われるのは嬉しい。僕等の環境が変われば自ずと製品にも繋がるのであれば、苦しいけど「苦しくない!」と虚勢を張れる。これは大事なことだ。思い込むということは時として強大な力を持つことだってある。


人とのコミュニケーションが大切だなと今更ながら当たり前のことを有難く思う。仕事上の関係であっても声を掛けてくれるし、あるいは仕事を離れて僕と一緒にどこかへ行ってくれる友人や、勿論マッチングアプリの人も、メッセージをくれる人も…。そこでのコミュニケーションが「正しい」とか「正しくない」というのは(と書いたが、そんなものがあるのかさえ実際のところは不明な訳だが…)置いておくとしても、言葉を投げかけてくれるというのは本当に有難いことだと思う。

1人暮らしをするようになってから、僕は人と話すことをしなくなった。これについては過去の記録でもちょこちょこ触れている訳だが、身の周りにはただ物と言っても本な訳だが、本が散乱し、日用品などの所謂「生活感ある事物」が転がっているだけで、そこに言葉を「発する事物」は存在しない。それはその空間では僕だけがその唯一無二的な存在な訳だ。まあ、お陰で独り言が増えた気はする。

これも過去の記録に書いたが、僕は詩を朗読することが好きだ。

だが、これが家族が居る場所でするともなれば、別に聞いていようがいまいが「同じ空間を共有している」とどうも「そこに居る」ということを意識してしまう。何というか身体の中に別の監視者が居るみたいな感じだ。それは自分という他者ではなくて、家族という監視者だ。だから実家では控えてきた訳だが、1人暮らしを始めると別に誰かに見られている訳でもないし、朗読したからと言って誰に迷惑を掛ける訳でもない。

最近は谷川俊太郎の詩を1人で読んで泣いている。いや、これも冗談抜きで泣いている。不思議なもんで、何故か谷川俊太郎の詩は泣ける。でもこの「泣ける」ということを説明出来ないということがまた悔しい。ただの僕の嫌いなセンチメンタルクソ野郎みたいな感じだ。ただ思うのは、訳が分からないけれども涙が出るという経験は人生1度ぐらいはして損はないかなと思う。これも再三に渡って何度も書くようだが、何でもかんでも言葉で表現が出来てしまえるほど人間の感情というものは単純な存在ではない。だから僕は何の理由もなしに泣けて良かったなと思った。

以前だが、会社の関係で動画を撮影しなければならなかった。これも過去の記録に書いたはずだ。それで動画を撮影して、動画の編集と確認を行なった時に僕は物凄く変な感じがした。まず以て動画の内容云々の前に僕の声が僕自身で受け入れられなかった。「こんな声しているんだな…」という驚きと共に自分が自分自身で発して直接聞く声と、機械を通して聞くその声の差に物凄く戸惑った。例えば、僕自身が詩を朗読する。僕が聞く言葉や音は僕の声だ。仮にこの朗読の声を録音して僕自身で聞いたとしたら…。泣けるかどうかは分からないかもしれない。

以前、吉増剛造とか田村隆一の詩も朗読してみようと思った。吉増剛造はもう何行か読んで挫折した。あの詩を眼で読むことも骨が折れるが、声に出して読むことも骨が折れる。だからなんか悔しい。まあ、それは良いとして、でも不思議と田村隆一の詩は泣けないんだよな…。むしろ「ほう…なるほどね…」とか「おおん!それ分かるわ!」とかそんな感じで。ちなみにこれも声を出しちゃっている。人には決して見られたくない光景ではある訳だが。

多分……いや、確実にだと思うんだ。谷川俊太郎の詩が凄いんだと思う。それで、「じゃあ、何が凄いの?」と聞かれた時にそれが説明できない。ただ、「好き」なんだ。それ以外にどう説明したらいいか分からない。そこがもどかしい。とにかく「好き」なんだ。それ以外には何も言葉が出てこないのである。


それでね、僕は恥ずかしながら谷川俊太郎の詩に最近救われている気がする。例えば先日の古本祭りの記録の最後に引用した『谷川俊太郎 質問箱』っていう作品があるんだけれども、あれが本当に凄く良い作品なんだ。ちなみに続編の『星空の 谷川俊太郎 質問箱』も凄く良い。何というか楽になるというか、引用した部分でね僕は本当に凄く良いなって思った。もう1度引用したい。

質問 四

どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
                (こやまさえ 六歳)

(追伸:これは、娘が実際に母親である私に向かってした質問です。
目をうるませながらの質問でした。正直、答に困りました~)


谷川さんの答

ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながら
さえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
その後で一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
言葉で問われた質問に、
いつも言葉で答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

谷川俊太郎『谷川俊太郎質問箱』
(ほぼ日 2007年)P.18,19

前に書いたので「くどい!」ってなっちゃうかもしれないんだけれども僕にとって大切なことだから自分の為に書くんだけれども、「言葉で問われた質問に、いつも言葉で答える必要はないの。こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね。」という部分が本当に有難かった。

実は今日、そういう場面と言うか、「これはどう説明しても駄目だな」という場面があった。少しその話を書いてみよう。

僕が今主導になって進めている案件についての会議があった。内容としては本当に簡単で「事務効率化するためのツールとして何を導入して、どう運用していくか」っていうもの。こう言葉にして書くと簡単だけれども、実際こういうことを始めてする僕の立場からするとドキドキな訳だ。自分でも考えながら「これでいいのか」「これじゃいけないんじゃないか」という不安の中で提案する訳だ。

それで今日の会議で一通り僕は説明した訳だ。僕が選んだ商品の選定理由、今後の運用方針はこうしていきたい。など色々と話したのだが、実際問題僕はまだ入社して5ヵ月しか経っておらず、色々と話を聞きながら、相談しながら進めてきたとは言え、やはり知らないことが多い訳だ。だから何というか僕の提案後の反応が物凄く微妙で、一瞬お通夜状態だった。

その時に、ベテランの人が僕に対して冷静に突っ込んでくる。正直、これが中々鋭くて、「痛い所をつかれてるけど、確かにめちゃくちゃ大切なことだよな…」と打ちひしがれながらずっと聞いていた。僕もそれに対して何か返答せねばと思って口を開くんだけれども、出てくる言葉というがどうもぎこちなくて言葉に詰まって、自分でもしっちゃかめっちゃかな感じだった。上司がすかさず助け舟を出してくれて、僕の代わりに説明してくれ。僕はこの時に「しまったな…」と思った。

それは「自分が的確に答えられなかったこと」に対してではなく「質問してきてくれた人のことを考えていなかった」ということが大きい。つまりは、僕は言葉でその鋭い質問を煙に巻いてうやむやにしようと少なくともしていたということである。そしてさっきの谷川俊太郎の言葉が会議後に過るんだな、悔しいことに。

アタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

僕は「説明する」ことで頭がいっぱいだった訳だ。相手のことなど全く以て考えずに進めてしまった。僕が過去の記録に散々書いているように、想像力が欠如していた。これはいけない。僕はココロでその鋭い質問に答えなかった。ただアタマのみで対峙してしまった。何だか申し訳なくなってしまって、居た堪れなくなってしまった。幸か不幸か、その人はリモートワークでその場に居なかったので、具体的に色々と話を聞こうと思ったんだけれども、何だか曖昧な雰囲気でその会議は幕を閉じた。


こういう気づきというか、長い(か短いかは知らんが)人生の中で重要なことに出会えたことを嬉しく思う訳だ。だから僕はこの谷川俊太郎の言葉に凄く感謝している。やはり谷川俊太郎の言葉を僕は好きなのかもしれない。

さて、タイトルには仰々しくも「好き」=「感謝」はと書いた。

僕は何というか、人を好きになるとか、物を好きになるとか、そういうものって結局「感謝」の積み重ねの上にあるものなのかなと最近物凄く感じるようになった。これは友人と古本祭りに行った時から実はずっと考えていて、ようやく言語化することが出来た。これはこれで良いのか悪いのか分からないが良かったと思う自分自身が居ることは間違いようのない事実である。

友人と一緒に古本祭りに行く。お互いに古本が好きな訳だ。2人で一緒に巡っている時にね「ああ、幸せだな」って思って、僕はね自分が古本好きで良かったなと思った。古本があっても無くても、大学の時から仲は良いんだけど、それでも卒業してからもこうして古本で(という訳ではないんだけれども、1つの要因として)繋がっていられることに感謝しかないと思った。

だから、僕は度々、とち狂ったかなんか知らないけど、過去に何回か「感謝」伝える系のnote書いてたりするでしょう。あれは畢竟するに僕から皆(と言うのは狭い範囲での、つまりは僕を支えてくれた人全員)に対する「好き」というラブコールな訳だ。と書いて自分自身で恥ずかしくて、愧死しそうなんだが…。でも実際そうなのだから仕方がない。

だから好きな人には感謝の気持ちを伝えて生きていきたいなと柄にもないことを思う、そんな1日だった。

感謝の気持ち、アタマだけじゃなくてココロやカラダで応える。

これ大切。

よしなに。



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