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雑感記録(213)

【思い出すことなど】


今日は渋々、新宿へ買い物に行ってきた。

起床し、着替えをしようと腰を曲げた瞬間「ピキ」というような音がした気がした。大体、人間の内部で発生する音はこれ程までに明瞭に聞こえるなんてことがあるのか。言葉が先に在るのか、症状が先に在るのか。何だか面白い現象だな…と思う余裕すらなく崩れ落ちた。しかし、幸いなことに「ギックリ」という音では無かったので、動けないことも無かった。

昨日の記録でも書いたが、僕は腰痛には慣れっこ…まあ、慣れたくはないのだが、こういう時の対処はそれとなくある。それは「動けるならば動く」である。無理をしない程度に身体を動かす。何とか着替えを終え、洗濯を回す。「昨日の動けるうちにやっておけば良かったな」と後悔するが、そんなものは何を今更である。これも過去の記録で「時間」という話をする中で再三に渡って書いているが、時間を巻き戻すことなど不可能である。

洗濯は過酷だった。普段ならば洗濯物をパンパンして広げて干せるが、今日はどうもそれが厳しい。しかし、折角洗ったのだし綺麗な状態で干したいという謎のプライドもある。必死に歯を食いしばり、鼻から荒々しい息をフンフンと言わせながら振る。たった数分の作業なのに長く感じてしまった。

朝、少しでも身体を動かすと便意が催される。腰痛の時に何が1番辛いかと言うと、些か汚い話で恐縮だが、排便である。座っているだけでしんどい。加えて力むことが出来ないので、自然の便意に任せることしか出来ない。そうすると何だか出し切っているのかいないのか、不安になってしまう。と言うのも、僕は家系的にどうやら腸が弱いらしく、すぐにお腹を下してしまう。そういう僕にとってはある程度排便でスッキリさせておかないと不安になる。

狭くほの暗い個室の中で、しばしの激闘を終え無事に生還。

今日の買い物は本当に単純で、ケースを買うというものだ。ケースと言ってもバッグみたいな奴である。仕送りを送ってもらったのだが、それらを入れるケースと言うのも無かったし、本が増えすぎてしまい、本棚が限界を迎えているので本を入れる様に買いたいと思っていた。だったら本棚を買えば早いじゃないかとなる訳だが、これから買い物に行き棚を持ち電車に乗り自宅まで歩き、組み立てるという作業一連を考えたら途方に暮れそうになったので辞めた。

僕はこういう収納とかそういった物を買う時はニトリに行く。新宿駅のニトリである。近くのニトリだとここら辺しかない。それはそうか。一応、渋々新宿区民をやっている訳なのだから。だけれども、新宿駅って渋谷区にあるっていうのが本当に訳が分からないんだよな…。まあ、そんなことはどうでも良いことだし、僕には全く以て関係ないことだが。いずれにしろ、僕の今日の目的地はニトリである。


僕は予てよりこの記録で「新宿駅が嫌いだ」ということを書いている。

本当に新宿駅周辺は人が多い。加えて汚いし、臭いし、変な奴が沢山居るし…。だから日常生活でもなるべく出掛ける時は新宿駅を使わないように努力している。最近は専らJR線よりも地下鉄を頻繁に利用している。今日も今日とてJR線を回避すべく都営大江戸線で新宿へ向かうことにした。しかし、地下鉄の面倒くさい所だが、地上に出るまでが長い。加えて、出口を間違えると地獄を見る。特に大きい駅が近くにある場合には注意した方が良い。例えば大手町とか銀座なんかはもはや分からない。

僕は幸いなことに、今住んでいる所は都営大江戸線も近いので歩いて駅に向かう。しかし、歩くたびに左腰がズキズキする。先程の「ビキ」よりかは全然マシだ。と言うのも歩いているから気が紛れるのである。黙々と駅に向かって歩き続ける。いつもならすぐ近くにあるように感じるのに、今日は凄く遠くに感じた。近いのに遠いというこの矛盾を孕んだまま僕は悶々としてしまう。

駅について電車を待つ。東京の交通網は凄い。平日のダイヤであれば大体2,3分間隔で電車が来る。休日ダイヤでも5分間隔ぐらいで電車が来る。当然に人口が多いということもあるだろうが、待つことにストレスを感じなくて済むのが良い。そう考えると本当にJRも含め、東京メトロなどには頭が上がらない。遅延した時は「畜生が!」となるが、安全にああやって運んでくれるのだからあまり文句は言えないのかなとも思ってみたりする。感謝である。

しばし電車に揺られ、新宿西口駅に到着。

電車のドアが開き、階段を昇り、エスカレーターに乗り地上へ。そして大きなため息。「本当に人が多いな…」と辟易とする。何と言うか、新宿駅は間口が広い分、色んな人が居る印象だ。東京駅も主要な駅ではあるし、人は多いのだがサラリーマンや旅行者が多い印象である。当然に混雑は嫌いなのだが、そこに居る人たちの漂う品格?と言うのか?東京駅の方がまだ落ち着いていて苦ではない。新宿駅は人種のるつぼとは言わないが、様々な人が縦横無尽に歩いている。

人混みを掻き分け、何とかニトリに辿り着く。

しかし、既に買うものは決まっているし、どこにその商品が置いてあるかも分かるので直行。他の商品を見るよりも、新宿駅付近から離れたいという気持ちの方が強かった。必要な個数をレジに持って行きそそくさと会計を済ませる。それにしても、セルフレジは楽でいい。自分のペースで出来るからいい。後ろに人が並んでいるからというプレッシャーをそこまで感じること無く済ませられるのは助かる。

ニトリで買い物を済ませ、そのまま帰ろうと思い改札付近まで来たのだが、こんなゴミゴミした所から乗って帰らなくても良いんだよなと思い、歩いて帰ることにした。これも矛盾である。僕は早くここから抜け出したいのに歩いて帰るという時間が掛かる行為を選択している。散歩が好きだとは言うものの、新宿駅付近など散歩したくない。池袋駅も同様だが。

とりあえず僕は紀伊国屋書店に行く。

久々の新刊書店探訪である。色々と出ているんだなと思い愉しく見て回った。岩波書店からも結構新刊が出てて「あ、こんなのもあるんだ」と感動していた。実は僕は今、欲しい本がある。ムージルの本である。

古本屋に行っても中々見つからないし、新刊書店などに行ってもない。ムージルの岩波文庫は確か古井由吉が翻訳していたのではなかったか。まあ、そういうこともあって手に入れたい1冊なのである。近々、所沢古本祭りがあるのでその際にでも探してみようと思う。変な話だが、小林秀雄が翻訳した『ランボー詩集』は読む気に慣れないのは何故なのだろう。僕はあんまり小林秀雄が好きではないので関係ないが。

3階の哲学コーナーへ向かい物色する。欲しい本が沢山あって買おうか迷ったが、リュックの中には先程ニトリで購入した商品がパンパンに詰まっている。本など入る余裕がない。それに所沢古本祭りが僕を待っている…。ええい、我慢だ我慢!と言い聞かせよだれを口から垂れ流しながら本を見る。しかし、思わず手が出てしまいそうで息苦しくなった。「いや、腰も痛いからあんまり動いたらな…」と腰痛を言い訳にして留まっていた。だが、しかし!

格闘の末、紀伊国屋書店を後に自宅へ向かう。


新宿駅から少し離れると歩きやすい。僕はいつも戸山公園をぐるっと周って帰るのだが、ここがいつも良い。というのもこの周辺は想い出が沢山あるからである。僕の大学時代の想い出がそこにはある。歩き風景を見ることでブワッと身体を覆うベールみたいなものが頭に一気に押し寄せる感じがする。

大学時代、僕は戸山公園付近に住んでいたのでやっぱり大学の友人と過ごした想い出も当然だが、1人で生活していた時の想い出が多い。例えば、国際感染症センターの前を通ったりすると「大学の時、夜な夜なここら辺を散歩したっけな」とか、よく行っていたローソンを通り過ぎて「可愛かったあの店員さんはまだいるのかな?」とか色々と湧き出てしまう。

自分が見知った場所を散歩するとどうもセンチメンタルな感情になってしまう。

あの時、僕はここに居て、今時を経て再びここに居る。あれから5,6年という歳月が流れている。周囲の環境は日々変わり、過去に存在していた店は無くなり、通い詰めていたお店も無くなり、僕の意志とは関係なく進んで行く。でも僕の中の想い出は、その変化した風景を見ても想い出として僕の中に存在している。場所は記憶を持つのではなくて、僕等が意味を与えているに過ぎないのだなと悲しいような気がする。

この世界はやはりどれだけ自然が存在していても、人間という存在そのものがある限り「意味」というものを付与せずには生きていけない。結局、どう頑張っても人間優位の世界である。当然のことではある訳だが、何だか「何でもかんでも支配出来るんだぞ」というその人間の驕りを感じてしまう。僕もこうして「想い出」と綺麗な感じで語っている訳だが、そもそも「想い出」と言うのは僕等の我欲の所産でしかない。そこにある事物に対して個人的な経験による意味付け作業でしかない。

その紋切型の表現として「かつてここには〇〇があった」というものだと思う。これは本当に個人的な文章である。まず以て「かつて」というのは主体の時間性を問題にしている訳で、一般的な時間の中での「かつて」ではない。僕がこれまで「あの時僕はここに居て」と書いた訳だが、この記録を読んでくださる方には全く以て関係ない。皆さんにとっては「今・ここ」が重要なのであって、別に僕の「かつて」というものはどうだっていい訳だ。それに語られたところで「あっそ」となるのがオチである。

恐らくだが「想い出」というのはそもそも共有できるものではないのではないかと思う。これは小説の回想部分でもそうだと思うし、現にこうして書いていることもそうだが、読んでいる人からすれば「ふーん」でお終いな訳で、そういう個人的なものであってより閉じられた世界である。「過去の事実の報告」でしか語られ得ず、それで僕が「こう思った」「ああ思った」といくら書いたところで終局、僕にしか分からないのである。

しばしば、まあ、これは僕もそうだが「この作品の良さを分かってほしい」と相手に何かを伝える際に「想い出」と併せて語ることが多い。その時こういうことがあって、この時には他の本も読んでて…云々。しかし、いくらどれ程言葉を尽くそうとしても最終的に自己完結してしまう。それを書いたところで「想い出」は読み手によっていくらでも改変されうるし、読み手によってその言葉から僕の「想い出」を捏造する訳だ。だから「想い出」を語ることは難しい。

僕は事物に意味を付与しながら歩き続けた訳だ。

そんな中、僕がかつて住んでいた場所付近にやってきた。ここは閑静な住宅街が広がり、落ち着いている雰囲気である。そこを歩いていると、外国人の女性だった。年齢は60代ぐらいで、綺麗な白髪だった。陽が出ているのに厚手のコートを着ていた。「暑そうだな」と思い眺め、すれ違いざま彼女がシャンプーボトル(多分、DAVEだったと思う)を大事そうに抱えて絶妙な笑みを浮かべていた。何だか僕はその姿が凄く美しいと感じた。

こういう時、カメラがあればいいなと思った。

すれ違った後も僕はその光景に微笑ましくなってしまった。美しさは人の感性によって異なるだろうから、何に美しさを感じ美しさを感じないか。はたまた美しさとは何かというのも異なるだろうから一概に言えないのが難しい所ではある。それでも僕は何だか美しさを感じた。どう言葉で表現すればいいのか分からない。こうして書き出して見れば書けるのかなと思っていたが、全然言葉が思い浮かばない。

しかし、本来的にはこの状況が正しいのかもしれない。「想い出」などを言葉で語るということの方が無理な訳だと思う。冷静に考えて「想い出」なんて本当に個人的な問題なのだから、そもそもそれを言葉に変換する必要すらないのかもしれない。「僕はそれを美しいと思った」それでいいじゃないか。そこに理由なんていらないのかもしれない。

言葉で書いてしまうと、これもどうも不思議で仕方がないんだがその「想い出」の美しさを表現しなければという感覚に陥る。言葉が言葉を呼ぶというテイの良いものでは決してないが、心のうちに秘めておけばいいものですらこうして書かずにはいられなくなる。言葉と言うのは厄介だなと思う。そうして「カメラがあればな」と本当につくづく思う。最近、中平卓馬の展示に行って触発されたことも大きいだろうが、写真の良さの一端が今日のこの瞬間に僕は個人的に見出した。


帰宅後、そういえば腰の痛みも大分引いたなと思い、先程購入したバッグに本を入れたり出したりした。

「ビキッ…」

そのまま眠りに落ちた…。

寝て起きたらスッカリ元気になってこの記録を記した。

よしなに。



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