見出し画像

雑感記録(86)

【アニメ『FREEDOM』】


先日、久々に仕事帰りにTSUTAYAへ寄って来た。TSUTAYAへ行くのは本当に久々で約1年ぶりぐらいだ。行ってみてその変化に驚く。かつてはCDやDVDがメインだったのが、今ではレンタルコミックが店舗のおおよそ半分を占拠していた。何だか悲しいような気がしてならなかった。

今ではサブスクが発達しており、そもそもCDやDVDと言った媒体を利用しなくても自宅で、外出先で愉しめる時代になった。僕もご多聞に洩れず、各種サブスクの恩恵を受けてここまで生きている。しかし、よくよく思い返してみると僕は小学校、中学校そして高校時代、大学時代とTSUTAYAには大変お世話になった人間だ。とりわけ大学の頃はかなり利用させてもらった。

今こうして書いてみて、僕がTSUTAYAのそういった変化に対して悲しくなるということは失礼なことなのではないかと思われて仕方がない。TSUTAYAから離れ、サブスクに頼ってばかり…。何だか申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。

さて、僕が何故TSUTAYAへ行ったかというと、Amazon Primeで見たい作品を探していたが見れなかったからDVDを借りて見ようと考えてからのことだった。こうしてみると、主軸が既にサブスクに取って代わられている。これも時代の変化かと思うと同時に、やはりTSUTAYAは偉大だなと思わされる。サブスクでも網羅出来ていない作品を見ることが出来る点については非常に有用である。

僕が借りてきた作品は以下のもの。
・『20世紀少年』(第1章、2章、3章)
・『FREEDOM』

作品数に換算すれば2作品であるが、DVD枚数に換算すると10枚だ。レンタル料1,650円(GW期間ということもあり14泊でのレンタル)となった訳だが、見たい作品が見られるという欲求と金額を天秤にかけたら金額は別にどうってことはない。


ところで、この『FREEDOM』という作品を知っている方はどれくらいいるのだろうか。ある一定の世代には「カップヌードルのCMだよ」と言えば大体伝わるのだが、これは見て貰った方が分かるだろう。

FREEDOM(2006年)

少しこれでも分かりにくいと思うので、実際に当時のCMなんかを見てもらうと良いかもしれない。結構僕の記憶に残っているCMもあったりして何だか懐かしい気分だ…。

当時流れていたFREEDOM関連のCMだ。実際のアニメでもカップヌードルを食べるシーンが散見され正直くどいなと思うのだが、何だか美味そうに見えてしまうところがまた不思議なところだ。地球編となるとシーフードカップヌードルが登場するのだがそれもまた面白い。

作品を見て貰えばすぐに分かるだろうが、キャラクターデザインを大友克洋さんが手がけているのもアツいところだ。しかも、作中に出てくるビークルのレースなんかは、さながら『AKIRA』を彷彿とさせるものがある。正直、金田のバイク程カッコいいと僕は思わないが、でも見ていてカッコいいとは思う。

この作品はカップヌードル発売35周年の記念として製作されたプロジェクトである。元々はCMでの上映だけであったのが、この広告作品をモチーフとしてアニメ『FREEDOM』が製作されたのだ。


何と言えばいいか…。僕はこの作品のストーリーも勿論好きなのだが、オープニング曲もとても好きだ。むしろ、オープニング曲が好きなところからこの『FREEDOM』を見た。作品のストーリーよりも曲が先行している。ここが他の作品を見るキッカケとは異なる。

僕は映画でもアニメでも見るときは大抵ストーリーがどんな内容か、はたまた好きな俳優が演じているとか好きな声優が担当しているとか…そういった所から見始める人間だ。曲などはあまり眼中になく、それは見ていく中で関連付ければいいと思っている。「この曲はこの映画にあってるな」とか「この曲があるから作中のシーンも引き立つんだな」とか。見た後にそういうものはやってくる。

ところが、この『FREEDOM』に関しては「めっちゃいい曲だし、面白いオープニングだな!」というところから入った。だから究極言ってしまえば、この曲を聞きたいが為に『FREEDOM』を見るという逆転現象が僕の中で起きている訳だ。僕の中でアプリオリに存在したのは音楽だった。

この曲は『FREEDOM』のために書き下ろされた曲らしい。そう考えると製作者側、つまり宇多田ヒカル側からするとアプリオリにあったのは『FREEDOM』という作品があった訳だ。それを元に描かれている曲であって、言ってしまえば「このアニメ以外には通用しない音楽」であるということなのではないのかなと思う。

例えばこの曲が他のアニメに使われていたとするならば、そこに違和感を感じるだろうか。これは難しい問題だが、少なくとも合わないような気がするのではないかとあくまで想像の話だが…。僕はこの曲が『FREEDOM』のために書き下ろされたことを知ってしまっているが故に、その範疇を超えて他の作品にと考えることは難しい。



地球でカップヌードル

さて『FREEDOM』の内容的な話にも触れる訳だが、このアニメの見どころというか個人的に気になるポイントとして、正しくタイトルにある通り「自由とは何か?」というところである。

僕らは当たり前のように、そして口癖のように「自由が欲しい」と言う。そこで想起される自由とは果たしてどんな自由なのだろうか?自分の好きなことをする時間?何者にも縛られず生きる時間?社会のレールから外れること?責任を放棄すること?……考え出せばキリがないだろう。

この作品で見受けられるのはTHE 所謂!というものだ。つまり「管理社会からの脱出」というところだ。月の都市エデンに住む主人公たちは常に腕に付けたリングや至る所にある監視カメラにより行動を監視されている。当事者たちはそれが既に当たり前のこととして生活している。

しかし、地球へ行くとそんなものはない。むしろ文明社会というものの残骸しか残っていない。地球の至る所は荒廃しており、その中で人間たちは月とは異なる生活を送っている。誰にも管理され監視さえされることなく、生きることに全力な人間たちがそこには居る訳だ。

だが難しいのが、月と地球に住む人間が交流すればいい世界が出来るというように1つの命題として作中には提示される。でも本当にそうなのか?それはまた逆戻りするのではないのか。つまり、月の先進的な文化吸収による新たな管理社会の発現があるのではないだろうか?それが従前のものと同じかどうかは分からないが…。

僕にはこの『FREEDOM』というアニメはどこかアイロニカルな様相を呈しているような気がしてならない。自由を求めた先に待っているのは自由ではなく新たな管理社会の幕開けを予感させるような作品であるという印象を受けた。とりわけ最後の場面なんかがそうだ。

最終回で主人公のタケルが月から地球へ戻ってくるのだが、最後のセリフで彼はこう言い放つ。「次は火星だ」と。これは捉え方を変えれば「次のターゲットは火星だ」とも読み取れてしまう。作中では良いようにこれから交流が生まれて、人間が成長していくというようなある意味でプラス方向に捉えられている訳だが、結局辿り着くのは自由ではなく新たな管理社会の創出でしかないのではないだろうか。


こう考えると、そもそも「自由」という概念がどこから発生して何処へ向かって行くのかを考えなければならなくなる。少なくとも言えるのは、「自由」をどう捉えるかにもよるが、「自由」などというものは言葉という形骸化されたものであり、内実は何もないものであると思う。

便宜上「自由」という言葉や概念があり、実際それは何だと聞かれた時に中身は何もなくただ虚しい空虚がそこに広がっている。「自由」とは空虚な言葉であると思われる。中身は何もなくただ言葉としてあるだけで。

アニメから随分変なことを考えてしまったが、こういうところでも非常に勉強になる作品であると思う。オススメです。

よしなに。





この記事が参加している募集

最近の学び

アニメ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?