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雑感記録(63)

【入院生活中思考体系】


いやはや、新年も明けて6日経ちました。明けましておめでとうございました。という簡単な挨拶から始めてみる。しかし、僕の正月はめでたいことから始まらなかった。それはつぶやきでも書いたのだが1月1日から入院生活を送っていたからだ。新年早々から僕は病院で過ごした訳だ。1年の始まりは幸先が悪いところから始まったのである。今年の抱負やらそんなものを考える前に僕の新年は出鼻を挫かれたのである。

簡単な入院の経緯について記録。1月1日の夜、猛烈な腹痛に襲われて深夜の救急外来へ電話し向かう。タクシーもなく自転車で猛烈な腹痛と闘いながら病院へ。診察を受ける。意外と救急外来には人が多かった。何時間か掛かりレントゲンやCT、血液検査を受けて出た結果「ああ。これ急性膵炎です。即入院です。」とのこと。そのまま今日まで入院生活。まあそんな流れである。

「急性膵炎」とは僕自身初めて聞いた病気である。簡単に言うと膵臓が炎症を起こしたという状態である。膵液の分泌がうまくいかないことによる炎症だとかなんとか。原因として過度なアルコール摂取、不規則な食事、喫煙などだそうだ。まあ僕はこれら全制覇中であり、なっても仕方ないなと今更ながらに思う訳だ。即入院となるのも、合併症を引き起こす可能性があるとのことで経過観察も兼ねてとのことらしい。

最初の2日間は地獄だった。猛烈な腹痛にうなされ、ベッドを転げまわる。小説や漫画なんかでよく「ベッドを転げまわる」という表現が使われ、僕は常々「いやいや、苦しかったらそもそも動けないだろう」と思っていた。なるほど、ある意味で紋切型になっているだけのことはある。本当に苦しいと転げまわるもんなのだなあと思った。しかも、この痛みに波があるから困ったもんだった。

しかし、波を超えて3日目ぐらいには腹痛も無くなり、無症状。若干の違和感があったものの痛さはない。するとどうだろう、本当に暇になってくる。再開となった食事と看護師さんと他愛のない話をするぐらいしか楽しみがない。あとは本を読むぐらいで…。何だか物理的に健康に向かっているが、精神的に不健康な方向へ向かっているような感じであった。

暇というのは人間にとって苦痛でしかない。人は忙しいときには暇を求めるが、暇なときは何かしたいという動きを求める生き物であるとつくづく感じた。そこで僕はこの貴重な暇な時間を利用し、色々と雑駁にではあるがとりとめのないことを考え続けていた。今日はその記録を書き殴ってみたい。


1.ラカンについて

今年はラカンに挑戦したいと考えていて、先日から『ラカン入門』を読み始めている。元々は保坂和志のエッセーなりを読んでいた時にしばしば「ラカン」という言葉が散見され気になっていたことが大きい。

精神分析について、僕はフロイトしか通ってきていないから正直不安なところがある。しかし、読み進めるとフロイトの進化バージョンぽいところがどうやらあるらしい。所謂、言語からのアプローチ。ベースにフロイトの精神分析があり、そこを補うような形で様々な思考が導入されている。

最初の「想像界」「象徴界」「現実界」という概念。僕は既にそこで躓いている訳なのだが、しかしこの難しさが僕にとっては愉しい。「想像界」のところで凄く面白い表現があった。

想像界はつねに「お前か私か」「自分か他者か」の二者択一の世界であり、絶え間なき不安定の支配する世界である。
イマジネールな世界は常に戦争、闘争状態にあるような世界である。だがわれわれの世界は常に戦いが支配しているわけではない。一般的にわれわれはほぼ平和の裡に生活している。

向井雅明『ラカン入門』(ちくま学芸文庫2016年)P.26,27

この「お前か私か」という言葉を見た時に「これ、ローランドじゃねえか!」と思わずツッコミしそうになった。「俺か俺以外か」というあの言葉。しかし、あながちローランドが言っていることは理に適っているという表現も些か変ではあるのだが、なるほどなとも思ってしまう。

ホストの世界を詳しく知っている訳では決していないので、それこそ想像の世界でしか語ることが出来ないのだが…。ホストの世界って結局なんだろうな、ある意味で常に闘争状態にある訳ですよね。お客さん(あっちの業界では「姫」と呼ぶらしいのだが…)を獲得し売り上げを上げるためには同じ職場内での競争があるように思われる。「絶え間なき不安定の支配する世界」正しくこれだなと思ったんです。

この闘争状態を回避するための「象徴界」、言わば言語が支配する世界である。要は絶対的第三者による和解の場というものである。

ラカンはこの世界を「象徴界」と呼んでいる。この場合の象徴とは言葉を表している。その意味で象徴界は言葉の世界だといえよう。人間どうしの争いは、武力による決着を別とすれば、話し合うことで解決される。ただし、言葉の法に従うことが前提である。ここでの他者とは、想像的他者とは別の次元に属し、嫉妬や憎悪をこえて和解にこぎつける際に認められる絶対的次元をもつ他者である。絶対的他者とは一つの概念的他者であり、それが実際に存在するかどうかは別問題である。

向井雅明『ラカン入門』(ちくま学芸文庫2016年)P.29

言葉の法に従う…ある意味でホストの世界もそれであるように思うのだけれども、身体的メディアが多いような気がする。言葉というものが絶対的他者として存在しているのは確かなのだろうけれども、言葉で魅せるというよりも美しい男の方々の姿で魅了するということも重要なファクターとしてあるように思えるのだ。「言葉の法に従」っているかどうかを考えてみた時に、どちらかというとホストの世界観って想像界的なものが大分の割合を占めているのではないかなとも思ったりしている。

まあ、ラカンを読んで面白いなと思うのはとにかく言語的なアプローチが非常に緻密であることだ。これはフロイトにも言えることなのだが、言葉から精神を考えるというのは非常に興味深いと思う。僕らは言葉が絶対的存在としてあるということをハッキリとは認識していないと思う。当たり前のように言葉を使って話し、書き、そしてそれで全てが伝わると勘違いしている。

そこを疑うという意味でフロイトやラカンの思考は必要になってくると僕は個人的に考えているのである。これは長期的なお付き合いが必要になってくるだろうと心躍っている。


2.ニューアカへの挑戦

入院中に佐々木敦『ニッポンの思想』というものを読んで、ニューアカって凄い現象だったんだなと思いつつ、僕もニューアカについて勉強したいなと思ったのがキッカケである。

この本では中沢新一さんと浅田彰さんの話から始まり、柄谷行人や蓮實重彦などの話があり、所謂日本に於けるいわば2000年代頃の日本の思想史が纏められている。これが結構面白いというか「ああ、自分はこれを知らずに生きてきたんだな…」と恥じ入るばかり。それなりに哲学を学んできたことが、それが「分かったつもり」になっていることがまざまざと見せつけられて、コテンパンにされた気分になった。これこそ本を読むことの醍醐味なのではないだろうかと嬉々として読み込んだ。

ただ一つ言えることは、「ニューアカ」の言説の魅力が、実は単純な意味で「わかりにくいものをわかりやすくする」ということだけではなかったのではないか、ということです。
「チャート=カタログ=マップ」と同じくらいに、読者の心をくすぐったのは、高度で難解な「現代思想」を平易で明解なロジックに変換してみせただけではなく、それを更に多くの固有名詞と新奇な用語群でややこしく彩ってみせたことでした。(中略)
この「難解ー明解」の往復(シーソー)運動のような回路は、ニューアカ以降の「ニッポンの思想」の特質の一つだと思います(われわれはこの後すぐ、それを蓮實重彦の「文体」によって確認します)。しかし、前にも書いたことですが、そもそも「わかりにくいものをわかりやすくする」とは、どういう意味なのでしょうか。「わかりやすい」と思えた時点で、それはもともと「わかりにくく」はなかったことになってしまうのではないでしょうか。よくよく考えてみると、よくわからなくなってきます。というか、それ以前に、「わかる」とは一体、どういうことなのでしょうか……?

佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書2009年)P.102,103

個人的に最後の箇所が響いた。「わかる」って確かにどういうことなんだろうというのは正しくといった感じで…。僕らは誰かに何か言われたり、書面で見せられて説明を受けるけれど、それを本当に「わかった」ことになるのだろうかと。

入院中も処方された薬や点滴について、これはこれこれこういう成分で、こういうところに効果があって云々と説明を受けたのだが、僕はその説明に対して安易に「分かりました」と答えてしまった。正直に言ってしまうと、専門的な言葉が多すぎてその2割程度しか理解できなかったというところが現実である。効果があるといわれても何だか実感が湧かないし、医学分野に僕は詳しい訳ではないのだから、黙って頷くしかないし、言うことを聞くしか術がないのである。

しかし、お医者さんや看護師さんの説明は「「難解ー明解」の往復(シーソー)運動」とは言い難いような気がする。いや、どうなんだろう。書面上は凄く難解な言葉が続くのだけれども、お医者さんや看護師さんはそれを僕らに平易に伝えようとしてくれる訳であり、話すという行為によって書面の堅苦しさを和らげる効果はあるような気もする。ただ、一貫したシーソーではないようにも思える。……難しい。

退院直後、自宅に戻って僕は『構造と力』そして『逃走論』を本棚から取り出し手元に置いた。以前、僕は挫折してしまったのでこれを機に読み直してみようと思う。それと中沢新一さんの著作にもチャレンジしようと思う。偶然にも中沢さんとは同郷であるから……というのはあまり関係ないのだけれども、挑戦しようと思う。



3.フーコー『監獄の誕生』へ思いを馳せる

病院に居るとかなり規則正しい生活を送ることが出来る。朝昼夕と決まった時間に食事が提供され、点滴の時間や定期的な体調の確認等が全て時間によって区分され決められている。こういうのは学校教育以来のことであって今、こうして経験すると不思議な気分になる。

こういう規則正しく生活し監視されるというとやはり僕はフーコーの『監獄の誕生』を思い出さずにはいられない。大学3,4年あたりフーコーは読み込んでいた。とりわけ『監獄の誕生』については卒論で利用しようと思っていたので何回か読み直した。フーコーの著作の中では比較的読みやすいこともあり、今でも時々読むことがある。

〔1〕時間割は古来の一種の遺産である。その厳密な規範は、最初おそらくは修道院が暗示したにちがいない。その三つの主要な方策―拍子をつけた時間区分、所定の仕事の強制、反復のサイクルの規制―は、たちまち学校や仕事場や施療院の中で見出されるようになった。(中略)
つまり、絶えまのない取締り・監視者による圧力・仕事の迷惑や邪魔になりうるすべての事柄の除去がおこなわれるのであり、重要なのは、すべての点での有益な時間の組立てである。

田村俶訳 フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』(新潮社1977年)P.154,155

大分省略してしまったのだけれども、所謂「規律・訓練」のところでの時間割について書かれた記述の部分である。ここだけだと中々分かりにくい部分があるのだけれども…(引用しておいて言うことではないのだが…)

時間の徹底的な管理により、自分自身を管理する他者を自分の中で設定する。要はパノプティコン化だ。病院に居ると徹底的なまでの時間管理および体調管理が求められ、それに合わせた行動をするようになる。というより管理される。その管理をしやすくするための自身の中に他者を設定するという方法がとられている訳だ。

それに病院というのはお医者さんと患者というある種の権力関係が存在している。病院の先生に言われたことは絶対であり、仮に万万が一先生が言ったことが誤診であったとしても「医者が言うことだからそれは真理である」といった思考にならざるを得ない。ありとあらゆる面で僕ら患者は医者の手によって掌握されているのである。究極言ってしまえば、自身の命でさえも医者の手の中にあるのだ。

こう書いてしまうと、お医者さんや看護師さんがどこか悪者じみたような感じで捉えられかねないのだが、僕は決してそういうことを言いたい訳ではない。僕の治療をしてくださったお医者さんや看護師さんには心より感謝している。ただ、こういった一面も病院という場にはあるよねということを改めて考えてしまったということを言いたいだけだ。

何よりも目に見えないところで働く権力ほど恐ろしいものはないと僕は考えていて、それは病院や学校だけに限らず会社や家族関係の中でもきっとあるだろう。そういったことを再考するという意味でも入院体験は貴重な時間であったように思うのだ。


4.『I.W.G.P』を見て

病院内でもwi-fiが使えたのでNetflixを見ていた。その中で『池袋ウエストゲートパーク』を見た。これが結構面白くて見入ってしまった。

原作を僕は知らない。多分、原作を読んだらげんなりしてしまうだろう。あの世界観は小説独自のものというよりも、ドラマ独自のものであり、その世界観しか知らない僕にとってはむしろ小説は不要であると感じたのだ。

しばしば、映画や小説の乖離によることで受け手側の心象が変化するということがある。「この作品は原作に忠実でない」とか「このストーリーは原作になかった」など。そういったところで幻滅してしまうということがある。勿論、僕もごく稀にそれを感じることがあるが、そもそもそこは分離して然るべきであると考えている。

小説と映画、はたまたドラマやアニメでもいいのだが、そこで比較し価値を見出すことに関して僕は何も言うまい。しかし、それで何か1つの中心点があるのが不思議で堪らない。要はそれはどちらか一方に肩入れしたうえでの話であるからだ。

僕もかなりやりがちなことなのだが、自分の中にもうこれは譲れない何かというのが措定されているうえで比較をする。そうすると自分の中でこれは絶対的であるというのが既に決定されており、そこにどう勝とうとしたって無理なのである。それを超えることなど不可能なのである。

つまり、こういうことを言う時は既に自分の中で優位性のあるものは決定されている。ということは、それを超えることは不可能に等しいのである。この状況を分かったうえで見るのと、これを意識せず見るとやはり違うと思うのだ。そしてこれはある意味で寛容さが必要になってくるのだ。

寛容さ、これは何事に於いても重要である。「別にこれはこれでいいじゃん」っていう心構えは必要であると思う。そうすることでよりフラットな目線で物事を見れるように思うのだ。人間関係でもそうだと思うし、作品鑑賞にも言えることだし…。物事を語るうえでやはり寛容さは大切であると考える。

勘違いしないで欲しいのは優しさ=寛容さでは決してないということだ。要は受け入れることのできる容量の広さとでも言えばいいのだろうか。これは人間生活にとって重要なことであると思うのだ。


他にも色々と考えることがあったのだけれども、そろそろ僕の身体も限界を迎えそうなのでお休みします。また書きたいことがあれば書きます。

1年間の食事制限と禁酒が命じられましたので、体調との兼ね合いを見ながら適宜noteを更新していこうかなと思います。

雑駁な文章で失礼。今年もどうぞよしなに。
皆さまも体調にはぜひお気をつけください。

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