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雑感記録(20)

気が付けばnoteの投稿も20回目を迎えました。本当に不思議なもので、三日坊主の僕でもこうして続けられているんですね。まあ、自分が考えていることを殴り書きしているようなものだから、これはこれで続けられているのかもしれないなあなんて。

本当にこのnoteというプラットフォームには様々な方がいらっしゃって、色々記事を読ませて頂く中で勉強になることが多くて、本当に感謝しかないです。それに、こんな僕の殴り書き的な記事を読んで頂けていることにもう頭が上がらない。況してや「いいね」まで頂けるなんて光栄至極…。これからもぜひよしなにお願い致します。


さて、本日はちょっと自分の読書する際のスタンスについて書いてみようと思います。最近、本が思うように読めていないからこそ、自分の読書に対する考え方や姿勢を改めてこうして書いてみることで何か見えてくるものがあるかと思ったからです。

恐らくある程度の読書経験を積んでいらっしゃる方にとっては「何を言ってるんだ」と思われるでしょうが、あくまで自分の思考の整理という形で残しますので温かい眼で見ていただけると幸いです。


【独断と偏見による読書論】


はい、いつもの通りまたもや仰々しくタイトルをつけてみました。書いている時は良いんですよ。ただ自分の書いた記事を読み直すときに、何だか恥ずかしくなってしまうのですが…。まあいいでしょう。


1.「最後まで読まなければならない」という幻想

僕は個人的にですが、「本を最後まで読まなければならない」という風には実は全く考えていなくて、自分にとってつまらない作品、琴線に触れない作品だったら途中で辞めてもいいんじゃないかなと考えています。

これは何と言えばいいのでしょうか。嫌々本を読むのって意味ないと思うんですよ。「ああ~、つまんねえな…」って思いながら本のページをパラパラした所でそれはただの動作であって、読んでることにはならないんじゃないかなと思うんですね。

自身の精神健康上も良くないですし、何より本を書いた作者に対して嫌々な気分で、「ああ~、つまんねえな…」っていう感覚で読むことは失礼なんじゃないかなと感じます。

例えそれが駄作と言われていようが、実際に作品を残せている訳ですから、そこはやはり凄いことです。それにその作品を書くのに時間と労力を割いている訳です。僕も一時期、小説だったり詩を書いたりしていたことがあるのでそれとなく分かりますが、1つの作品を生み出すのに相当な思考力を必要とします。1行書くのでさえ何日掛ったか知れません。

そこに対して「ああ~、つまんねえな…」って嫌々最後まで読まれたら、僕だったら溜まったもんじゃないですね。だったら途中で見切りつけてくれた方が全然いい。

精神健康上というのはまあ簡単な話です。「これを読み終えなければ次の本へ行けない」という思考に陥りがちになってしまうからです。例えばその本を読んでいる最中にその本以外のことに興味関心が湧いて、それに対する関連書籍を購入したとします。そうした時に「これを読み終えなければ…」「これを読み終えたら読もう…」となってしまうと、今読んでいる本を読み終えるうちに興味関心が薄れて、また別の興味関心が発生してというようになってしまうと思うのです。

つまり、その時々の自身の興味関心を捨てていくことになる訳です。勿論、読み終えるまでにその興味関心を保持することは可能かもしれません。それでも、その時の情動はその時、その瞬間だけのものだと思うのです。僕はそれを大切にしたい。

少し引用します。

読者はそのような本の"形"に忠実であるより自分自身の興味の赴くところに忠実であってほしい。読みはじめたらつまらなくても最後まで読まないと気が済まないという人がいるが、そのようなまじめさは小説に対する一種の甘やかしではないか。つまらないと思ったところで中断したり放棄したりするのが小説に対する愛というものではないか。小説が望んでいるのは読者の熱い気紛れ、関心が持続しなくなったらさっさと放り出してしまう冷たさ、それこそが小説に対する"熱"というものではないか。

保坂和志「文庫版まえがき」『小説の自由』(中央公論新社2010年)P.11、12

正直、僕はこの保坂和志の言葉に助けられました。真に読書を愉しむということをこの文章から教えられた気がします。


2.本への書込み・付箋の貼付はしない

よく本を読む際にその本に線を引いたり、書き込みをしたり、はたまた付箋をじゃらじゃら付けている方がいらっしゃいます。素直に「凄いな…」と思いつつも「僕にはできないな…」とも感じています。

何と言えばいいのでしょうか、本はやはり綺麗な状態で読みたいという僕の邪な気持ちが1番大きいのですが、何よりも何回も何回も同じ本を読み直す僕にとってはむしろ邪魔でしかないんですよね。

本への書込みや付箋を貼ることを僕は良いことだと思っています。その読んだ時々で自分の感じたことや考えたこと、つまりその瞬間をそこに記録することが出来るからです。自分がそれを読んで何を感じ、何を考え、そして自分の糧とするのか。これを明確化することは非常に重要なことだと思います。

ただ、何回も読み返す僕にとっては邪魔でしかない。だって単純に考えて、読むタイミングで自分が考えていることや思考というのは核は変わらずとも、違う方向へ向かっているかもしれないからです。ニーチェ的に言えば「諸力の散乱」ということなのでしょう。(シクロフスキー的なのかな?まあ、いいや。)

さっきの話とも関連してくるのですが、その時々によって考えていることはやはり違う訳で、注目する場面や言葉や文章だったりというのは変わってくると思うんです。その時に本に書込みされてると、そこにどうしても引っ張られてしまって、自分の殻を破り切れないのではないのかなと思ってしまうんです。読む度毎に付箋張ってたら、多分全ページに付箋付いちゃうんじゃないかな…なんて。

僕は読むときにノートを1冊用意して、日記的な形で記録しながら読むようにしています。勿論、このnoteやInstagramも同じような形で活用しています。自分の何か核心を変え得るようなものに出会った時は必ずノートに鉛筆でそれこそ殴り書きしています。

これは人によってまちまちですから、そもそも何が正解だなんて言うのは最初からないのです。ただ僕はこうしてるという話。


3.積読による罪悪感

人様の記事をこうして引用させて頂くことは非常に気が引けるのですが、僕はこの記事が正しく核心をついていると思うのです。この記事を拝見させて頂いた時に「これ!そうこれ!正しく!」となりました。

よく色んな方に「そんなに本買って全部読んでるの?」と聞かれることがあります。僕は正直に「読めてないのが殆どです」と答えます。

積読は僕にとっては自身の興味関心への準備という位置づけにしています。ここまで読んでくださった方ならお分かりかとも思いますが、最初と言っていることと矛盾しています。超絶、矛盾しています。

先程、僕は自分自身で「本を読み終えてから自身の興味関心に関する本を読んでも、その時の興味関心は他の興味関心へ移ってしまう」と書きました。しかし、積読を読んでその時の興味関心がもしかしたら再発するかもしれない。何と言えばいいのでしょうか、言わば「保険」みたいなものです。

積読は僕にとっての「保険」です。
興味関心が他の興味関心へ移ったとしても、もしかしたら積読を読めばそれが戻ってくるかもしれない。例えそれが最初程の熱情がなくてもそれなりに戻ってくるのではないかと考えています。

そこに微かな希望を抱いています。積読は悪くない。


4.手元に手繰り寄せること

よく読書をした際に、読んだ内容を忘れてしまうという現象があります。僕もしばしば経験します。その時は何度でも読み返せばいいのですが、何としてでも自身の糧にしたいと、この自分の核心を揺らぎうる何かに出会った時、僕はノートに殴り書きすることは勿論ですが、自身の生活に無理矢理当てはめて考えるようにしています。

これは小説というよりも、哲学書などを読んだときの方が多いかもしれませんがよくしています。自身の手元に手繰り寄せる感覚ですね。

あれは2年前ぐらいですかね。ニーチェを読んでいた頃のことです。その時の職場の人間関係が良くなくて、仕事がめちゃくちゃ嫌だったんですね。毎日毎日、仕事に行くの嫌だなって思っていました。

その時にニーチェを読んでいて、ふと考えたんです。「これ今の自分自身に重ねてみたらどうなるんだろう」と。そこから毎週土日はカフェに行ってニーチェを読んでは、自身の職場環境などを考えて、ニーチェを手元に手繰り寄せながら分析してみた訳です。

結果として何かが得られたかと言えば、正直得たものなんかなかったし、むしろ「今の職場環境って休みが取れる以外、いいところなんもねえじゃねえか!」ってよりマイナスになったのをよく覚えています。気分はあまり晴れ晴れしたもんではなかったですね。

それでも、その時、考えている時はめちゃくちゃ面白くて、自身の仕事に対する姿勢だったり同僚や先輩、上司のことを想像力を働かして「例えばこういう言い方だったらどうなるのか」「資本主義に汚染されているのは僕だけじゃないのか!」などとまあ発見は色々とあったんですね。

結果はどうであれ、そこで自身の手元に手繰り寄せたことで、「ニーチェの言いたかったことってこうかな」とか「この考え方を援用すればこうできるよな」って考えられたことが単純に面白かったし、嫌なことについて考えているのにすごく愉しかった。これも読書の1つの効用なのかもしれません。


5.否定から入らないこと

ある程度本を読んでいると「いや、この人が言ってることおかしいよ」とか「それって暴論すぎやしないかい」ということをしばしば感じることがあるかもしれません。「こんなことありえないだろ」とかね。

でもそこで立ち止まって「うんうん。そうだね。」って読むことも大切なのかなと思います。最初から否定的に読んでしまうと、思考が阻害されてしまうように感じます。

僕の中の本を読むときのルールで「この人の話を否定したいなら、それなりの論証が出来る程度の確証を持っていなければならない。」という風に設定しています。

勿論、好みの問題もありますが、それでも本当にそれ否定できるの?と自分に1度疑問を吹っ掛けます。何か否定できる材料がしっかりあって、それを自分が組み立てて他人に腑に落ちるような説明が出来るようになって初めて否定できるのだと思います。

極論言ってしまえば、これは実生活にも関わってくる訳で。

何でもかんでも否定から入ってくる輩が多いじゃないですか。自分が正しいんだ、と謎に権力を振りかざしてくるじょう…おっと、口が滑りそうに…。


とまあここまで書いてみましたが、大方こんなところかなと。

皆さんの読書感を聞かせていただけると嬉しいです。
今後ともよしなに。

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