見出し画像

雑感記録(151)

【文学の意義】


先日こんなセミナーに参加した。

結構コアな内容なので、恐らく知っている人でないと中々面白さというか凄さがよく分かってもらえない。僕は大学時代に『群書類従』を一時期使用していたので、詳しい訳では決してないが馴染みがあるものである。江戸時代に塙保己一が編纂したといわれる壮大な歴史書である。ちなみにこれは25部に分類されている。その中の10番目、文筆部に確か『浦島太郎』の話があった気がする。あとは『懐風藻』(日本最古の漢詩集)とか…。まあ、実際に見てもらった方がいいだろう。見られる機会があればぜひ眺めてみるといいだろう。

しかし、『史料纂集』も『群書類従』もある意味でその道に詳しい人でなければ利用しない。僕も和歌の授業とか平安期の文学について学ばなければ、恐らく、いや、確実に利用しなかっただろう。今、大学を卒業してかれこれ5年が経つのだけれども、こういうものに触れる機会があるのはシンプルに嬉しい。社会人になると中々、こういうものから遠ざかってしまう。あの頃の愉しさや文学そのものに対する熱情が思い出される。

社会人になって、本関係のところに転職して非常によく分かるのだが、こういうイベントに興味関心を持つのは元々興味を持っている学者や所謂フリーク(熱心な愛好家)が殆どである。僕も一応興味関心がある人間なので、フリーク(熱心な愛好家)ではないが、単純な好奇心から受けた訳である。客観的に見て、正直「ああ、これはガチだな」というように感じて、ある意味で振り切っていて凄く気持ちが良いのだが、とっつきにくいこともまた事実である。そもそも、このイベントは「知る人ぞ知る」みたいなところもあるから、テーマで峻別していくのは見る人を厳選できるので「届けたい人」に確実に届かせるという意味に於いては非常に効果的であると感じた。


それで、僕は色々と考えてしまった。まず以て「ああ、こういう数少ない人たちに日本文学って支えられているんだな…」と感謝というと些か仰々しいのだが、それでもそういう感情を抱いたことは間違いない事実である。特に古代の文学、平安とか鎌倉、室町…そういった文学は現在に於いて自ら積極的に自発的に学ぶということは考えにくい。こういう形で昔の作品にフォーカスを当てて陽の目を浴びるようにするのは単純に凄いことだと僕には思う。決して僕には出来ないことだからだ。

そして一抹の不安。「今、文学なんて必要とされていない社会で文学を守ることが果たしてできるのか?」そして「現代に於ける文学はどうあるべきか?」という余計なことまで脳裏に浮かぶ。僕らが学生の時分から大学に文学部は必要ないと騒がれ、実際にどこかの大学では文学部がなくなってしまった。正直「しょうがないかな」とは思ったけれども、心のしこりとして実は今も残っている。文学を真面目に学んできた身としては少し悲しい。

※本記事に於ける引用は特段記述がない限り、上記記事からの引用である。

そんな中で、たまたまこんな記事を見かけた。恐らくこの記事の著者も文学部ご出身らしい。記事を通読して、「なるほどな」と気づかされることが多く、非常に愉しく読ませてもらった訳だ。今回は大変失礼ながらも、この記事をベースにしたうえで話を展開させていければと感じている。

大切なことなので先に断っておくが、僕は何らこの記事を貶めたいとか、この記事の著者を貶めたいという気持ちを以てして書くつもりは微塵もない。何らこの著作、著者を誹謗中傷しようという企みの元書かれている訳では決してないということを付言しておく。

まず以て、著者の記事を読むにあたり自分自身もそういった文学部に於ける事情を知らねばいかんと思い、本著作以外にも記事をいくつか当たる。考えなければいけない問題として、先にも少し触れたが文学部が減少しているという事情を鑑み「文学部は不要か」というところからスタートしていった。様々な記事を読み漁る訳だが、あらゆることが書かれている。文学部に入ったことのメリット・デメリットだったり、文学部に入って最悪だったとか各種様々に書かれている。

そういう記事を読んでいく中で、僕はどの記事にも共通している3点を見つけた。1つは「何もやりたいことないから仕方なく文学部へ」、2つ目は「文学部って就職活動に不利すぎる」、最後3つ目は「社会に出て文学なんて毛ほども役に立たない」という言説が大々的に書かれているということである。正直、あながち間違っていないように見えるが、何だか凄く通り一辺倒のような感じがして僕としては少々腹が立った。

順番に見て行こう。


①「何もやりたいことがないから仕方なく文学部へ」

そもそも、「何もやりたいことがないから」と言って文学部に来る理由が実際僕には理解が出来ないでいる。それこそ「文学部なんてオワコン」と分かっていながらにして、本気で文学を学びたいと思っている学生に些か配慮が足りていないのではないかと思う反面、現状の教育現場では難しいのではないかと思われる。偏差値至上主義的な様相を呈している受験戦争に於いては仕方がない現象なのかもしれないと思ってみたりもする。

ここからは僕の妄想なのであまり真に受けないで欲しいのだが、恐らく「何もやりたいことがない」のであれば正常な判断ができる子であれば理系に進むはずだ。それでも文学部や文系の道に進もうというのはある意味でリスキーな訳だ。これは②にも少し触れることになるが、就職先に於いて文系は強くないという事実がある訳で。では、なぜ文学部や文系学部を受験するのか。

単純に理系は難しい。高校の段階で専門性があり、文系科目に比べて細分化されている訳である。つまり、「文転」する可能性がある。ただし、ここが大事ではあるのだが、あくまで「その大学自体に」受かるのが目的だった場合「文転」する可能性は大いに高い。だってそこの大学に入れれば学部なんてどこだっていい訳だ、大学入学がゴールの人は。

ある意味で文学部はそういった「大学入学がゴール」という学生向けの受け皿学部と化している。冷静に考えて「数学ができる文系」って強いでしょ。そうしたら文系の大学入試は無敵である訳だ。ちょっと話は脱線させるけれども、たまに文学部の方が他の理系学部よりも偏差値が高いことあるでしょ。あれって何でだろうな…って考えてみてハタと気づいてしまったのである。そうか、こういう学生がたくさんいると自ずと上がってくるよねと。

ここまで書いておいて何だが、僕は文学部の全ての学生がこうであるとは決して言えない。というか言いたくない。自分が結構真面目な学生だったから。と意味不明なプライド。中には真面目に「文学が好きで研究したい」とか「国語教員になりたいから文学を学びたい」とか、そういう目的を持っている学生もいた。事実僕の周りにもちらほら居た…(大概は愛すべきプー太郎たちばかりであったが)。

つまりだ、「何もやりたいことがないから仕方なく文学部へ」というのは結局のところ「大学入学がゴール」になっている人達のことを指している。大学に受かれば学部は問わないという、ある種のブランドを纏いたいが為にである。それの受け皿としての文学部なのである。それを理解しないで「文学部はクソだ」とか「文学なんて何の意味もない」とほざくのはあまりにも都合がよすぎる話ではないのか。

「文学部であることに理由を探すな。割り切って勉強しろ。」

なるほど、格言である。今のやる気のない文学部生たちに聞かせてやりたい。些か「割り切って」というのが僕には気に食わないが、これは中々的を得ている気がする。大学に入ることがゴールだったんだから文句言うなよ。自分が文学部であることに理由なんて探したってどうにもならねえんだから。と潔いこの姿勢は非常に好感が持てる。

しかし、僕はこの後に続く文章が些か納得しかねる。


②文学部って就職活動に不利すぎる

文学部を擁護する記述で、よくインターネットには、やたら、長くて、分かりにくい文章で、文学部にコンプレックスを抱いている人が、自己防衛で、説得力の低い理由を並べます。私は、そういうのがとても嫌いです。
 難しいことを、難しい言葉で説明する人は「頭が良くない」のだと思います。説明するのが難しいことを、簡単な言葉だけで、誰にでも分かるように説明するのが「頭が良い」のだと信じています。文学を研究することは、「難しいことを、噛み砕いて、分かりやすくする」という訓練になります。

僕自身、纏まりがつかない文章を書いているので著者の思うところの「分かりにくい文章」であり、大変恐縮ではあるが書かせてもらうことにしよう。

この2段落目の文章が僕にはよく分からないなと思っていて、特に最終部。「文学を研究することは、「難しいことを、噛み砕いて、分かりやすくする」という訓練になります。」という部分である。文学を真面目に学び続けている僕が偉そうに言えた訳ではないが、これは違うのではないかと少し異議を唱えたくなってしまう。これは研究ではなく、ただの「精読」だ。

つまりは著者は「精読」を「研究」と勘違いしておられるようだが、これは別物である。文学を「研究」することというのは、僕が考えるにだ「既存の作品に対して、既存の読みから脱却した、新しい読み方や考え方を検討すること」であると思われて仕方がない。無論、その作業の中で「精読」は必須になってくる。作品そのものの理解、あるいは補助的に使う資料の「精読」そういったものが必要になる。しかし、これは「研究」ではない。何度も言うようだが、著者の言うところの「研究」はただの「精読」に過ぎない。

さらに、これは1つ苦言を呈しておきたい。「難しいことを、難しい言葉で説明する人は「頭が良くない」のだと思います。説明するのが難しいことを、簡単な言葉だけで、誰にでも分かるように説明するのが「頭が良い」のだと信じています。」との発言がある訳だが、これは些か納得しかねる。特に「難しいことを、難しい言葉で説明する人は「頭が良くない」のだと思います。」と言っちゃってるところだ。そうしたら、世の哲学者は多分、全員が全員「頭が良くない」人になる。

これは多くの人が曲解してしまっているような気がする。というよりも嫌味を言うつもりは微塵もないが、むしろ難しい言葉で端的に表現されている方が楽な場合がある。例えばそれこそ文学を研究している人でも良いし、所謂読書家でも良いし、もっと広げて言えばその道のプロでもいい。そういう人達が読む際に、難しい言葉を使わずに説明されているとしたら「くどい!」と感じてしまうことがあるし、逆にその人の言いたいことの核心からどんどんズレて何だか間延びしたようなものになってしまう。

僕は大学時代にレポートを書いていてそれを痛感した。学生特有の、所謂文字稼ぎでやるのであればそれは構わない。しかし、レポートを読む人は誰か?文学を知らない人か?誰も知らない第3者か?少なくとも大学で書く文章はどこの学部でも前提として「みんながある程度の共通認識を持っている」という所で進められている訳だ。平板化する必要はない。

寧ろ、文学部はありとあらゆる言語を学ぶ訳だ。それは単純な言語の違い、英語とか中国語とかフランス語とかそういったものだけでなくて、あらゆる人が書いた文章に触れることになるので、その人が持つ独特の言語に触れることが多い。これをボキャブラリーが多いと捉えてしまうと、些か短絡的である。

「就職活動に文学部は不利である」という命題は僕は少なくとも間違っているという認識を持っている。言語を学ぶということはその人のことに対する想像力を働かさなければ到底無理な話である。行間を読む(という言葉は僕は好きではないが…)ということである。その人が話す言語あるいは面接に於ける面接官の身振り手振り、自分自身の身振り手振りだって言ってしまえば言語の一部である。そういったものに鋭敏な感覚を持てるという点で有利であると僕は思っている。

もっと言うのであれば、これは就職活動だけではなく今後の人生に於ける人との向き合い方という点でも有用である(「有用である」と書いてしまうと何だか道具的な言い方で嫌なのだが…)。そう考えると、文学部で学ぶということはそれはつまり就職活動だけでなく、その先のことを考えるのであれば非常に役に立つと僕には思われて仕方がない。この言葉を著者には送りたいと思う。

人間を支えているのは教養であり、教養の中核になるのは文学・哲学なのだ。

保坂和志「教養の力」『人生を感じる時間』
(草思社文庫2013年)P.211より引用


③社会に出て文学なんて毛ほども役に立たない

上記の最後の保坂和志の引用で事足りるはずだが、これは文学を真面目に学んでいた僕からするとちょっと過剰になってしまう部分ではある。一応、著者によるコメント部分を引用しておこう。

文学部って何の役に立つの?

基本的に、役に立ちません。ただ、コミュニケーションに関係する全ての仕事に、役に立ちます。文学は、文字を書くこと、プレゼンテーションをすること、取引先と良好な関係を築くこと、相手の気持ちを理解すること、自分の思いに向き合うこと、など、応用が可能です。

なるほど、役に立たないと言いつつも応用が可能であると述べられている。僕もこれにはあらかた同意できる。あまりにもビジネスシーン中心での考え方ではあるが、僕自身のこういう場面で役に立つなと感じる。ただ、だからと言って「良好な関係を築ける」ということは難しいように思う。これは働けば分かる。ハッキリ言って、僕はコミュニケーションがあまり上手な方ではない。むしろ文学を学んでからより一層、難しく感じるぐらいだ。

あらゆる人のあらゆる言語に触れると、考えなければならないことが山のように出て来る。例えば取引先で「こういうことをしてほしい」と依頼があっても、その言葉に含蓄される意味はその場その場で変わってくるし、どこでその言葉が発されているか、あるいは発している人のバックグラウンドは、あるいは現状置かれている状況は……と考えだしたらキリがない。

定型文でのやり取りをする先ならば、何も考えずにある種機械的に対応することが出来る。例えばメール対応とかね。しかし、いざ対面でとか電話でとなってくると話は異なって来る。その人の声の調子であったり、先述したが身振り手振りであったりとそういったあらゆる所にまで想像力を働かさなければならない。

僕は先程から「想像力」という言葉を使用しているが、この「想像力」というものは一朝一夕に会得できるものではないと文学を学ぶ中で痛感した。特に研究し学生の前で発表する時にそれをヒシヒシと感じていた。文学に限らずだが、作品に対する先行研究というのは数多く行われておりあらゆる人のあらゆる作品に対する「想像力」がそこには凝縮されている。しかし、それを読み解くにはこちらもその「想像力」に対する「想像力」が必須になって来る。

ではその「想像力」をどのように鍛えるかという話になってくる訳だが、ここまで書けばもはや当たり前だが読書しか方法はない。それも自己啓発書やビジネス書と言った受動的な読書ではなく、小説や詩、批評、哲学といった作品を能動的に読むということである。ただ、これを1人で出来るかというと難しいところがあるだろう。そこには「対話」というものも必要になってくるからである。

社会に出て毛ほども役に立たないというのは僕は間違っていると思う。加えて、そもそもビジネスシーンで役に立てようと思っておられるその考え自体が好ましくない。文学はそんな狭い世界線の話ではない。僕らの人生全体に渡って影響を与えるものなのだ。社会に出て役に立たないと感じる文学部生が居るとするならば、真面目に文学について考えてこなかった人間であるか、真面目に学んで考えたうえでの結論だと思う。これも保坂和志の引用で全て事足りる気がする。

想像力のない人の考えることは途方もなく馬鹿馬鹿しく、その馬鹿馬鹿しさが底知れなく怖い。想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。いや冗談や言葉遊びを言っているわけではなくて、2の想像力しかない人間が相手に10の想像力があることを想像することは不可能にちかい。「不可能にちかい」という留保がついているのは、「この人は俺が想像できないことまで想像することができるんだろうな」という想像さえできれば、2の想像力しかない人でも2以上の想像力がこの世に存在しうることだけは想像できるからだ。それを相手に対する「敬意」と呼び、そういう敬意は文化や教養によって育てられてきた。中身までは想像できなくても、それがあることだけでも想像できれば、2の想像力しかない人の内面も豊かさに向かって開かれる。

保坂和志「想像力の危機」『人生を感じる時間』
(草思社・2013年発行)P.232より引用



はてさて、長ったらしくも図々しくも色々書いてしまった訳だが、僕は先日のセミナーで色々と考えてしまった。「文学部いらなくね」とか「文学ってやる意味あるの」と少なくとも思っているのなら、今1度考えて欲しい。僕個人としては文学部が最悪無くなってしまうのはまあ仕方がないのかなと思いつつ、文学に意味がないとは決して思わない。

それならば、何故今この時代に学校で森鷗外や夏目漱石、芥川龍之介などが読みうるに耐えるのであろうか。文学が何の役にも立たないのであれば、そもそも教科書から外れるだろう。それが外れていないことから考えて見ると良いかもしれない。

この記事のベースにさせて頂いた記事を書かれた著者がこの記事を読まれるかどうか分からない。もう1度言うが、僕は何ら著者を否定したいとか、目の敵にしているという気持ちは一切ない。「批判してやろう」という気持ちも一切ない。清廉潔白な気持ちで書いている。むしろ感謝しているぐらいだ。こういうことを改めて考えさせてもらえる機械を頂けた訳だ。感謝しかない。

僕の拙い言語で何とか「批評」してみようという試みである。

もし仮に文学部で文学をやる意味が分からないという人は今1度、目の前に与えられたテクストに真剣に向き合って見ると良いかもしれない。それこそ著者も言っておられたが「割り切って勉強」してみろ。

よしなに。

『逃亡の書』面白過ぎた…。


※引用させて頂いた方


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?