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雑感記録(120)

【大杉栄を読む】


最近、蔵書整理をした結果、読みたい本が山のように増えて困っている。時間がいくらあっても足りない。だから様々な本を「つまみ読み」状態である。しかし、これはこれで面白い。何というか、僕は読書、まあこれはとりわけ「読み方」という観点ではあるが、そういったものは自由であるべきだと思っている人間である。漱石の『草枕』の如く…と言った感じか。

そんな訳で、今週は月曜日から大杉栄の本を読んでいる。しかも、『ザ・大杉栄』という何とも仰々しいタイトル。この本には彼の全著作が収録されている。僕にとっては嬉しいことこの上ない。冷静に考えて、たった1冊で全ての著作が読めるなんてコスパ良すぎでは?3,000円でその人の思想を学べるのならば僕は安いもんだと思う。……いや、こんな書き方は資本主義に支配されている証左か…。金額が思想の価値ではない。とにかく、言いたいことは「1冊で全部が読めるの最高」ってだけの話。


はてさて、そもそも僕は何で『ザ・大杉栄』という本を所有しているのだろうか。以下、回想に入る。

僕がこれを購入したのは今はなきジュンク堂である。そう言えば、今度甲府駅にくまざわ書店が出来るらしい。それはそれで嬉しいが、過去の売り場面積を知っている僕からすれば申し訳ないが足りない。それでも、本屋が復活することに嬉しさを感じることには変わりないのだけれども…。話が飛んでしまった。

この手のシリーズは他にもあって、例えば夏目漱石だったり太宰治、その時は確か一緒に『大菩薩峠 全一冊』なんてのも一緒に置かれていた記憶がある。この本を手にした時には、僕は戸坂潤に確か傾倒していた気がする。

戸坂潤(1900~1945)

戸坂潤というと「シェストフ的不安」という言葉が一人歩きしている感が否めないが、それ以外にも面白い作品はある。何で戸坂潤にハマったかというと、これは簡単な話で中野重治を読んでいたら戸坂潤のことについて書かれていて興味を持ったからだ。所謂「数珠繋ぎ的読書」による結果だ。

それでその時に平凡社から出ている『戸坂潤セレクション』を購入しようと手元に持っていた訳だ。所謂マルクス主義に傾倒していた僕は、当然の如く戸坂潤に辿り着いた訳だ。日本に於けるマルクス主義を学ぼうとなると恐らくだがマストになってくる人物のうちの1人であるはずだ。それに戸坂潤は意外と読み易かったりする。難しい言葉をこねくり回すそんじょそこらのマルクス主義者たちとは異なる。

 リアリズムは現実が有ち現実が生み出す処の現実的な可能を、現実的な自由を、現実的な理想を、否、現実的な空想をさえ、抜きにしては、何等のリアリズムでもあり得ない。そういうことが真のリアリズムのもつ本当の必然性というものだろう。この必然性に較べて、一見夫と対立するように見える偶然性という観念が、如何に貧弱な力ないトリビアルな響きを持つかを、生活に富んだ文学的な耳は明瞭に聴き分けるだろうと思う。

戸坂潤「思想としての文学」『戸坂潤全集第4巻』
(頸草書房 1966年)P.68

またまた登場、「リアリズム」。でも、僕にとって何かを書くという点では常に意識していることだし、自分の中では大切なことなので敢えてこの部分を引用した訳だが。

さて、話がまた脱線したが、とにかくだ。この『戸坂潤セレクション』を購入する予定でいた訳だが、プラプラ本棚の間を歩いていたら僕の眼に埃をかぶった『ザ・大杉栄』がこちらを見ているではないか。「俺も関係してるよ」みたいな感じで訴えかけてくるような気が勝手にしていた。思わず手が伸びた。本が僕を呼んでいた。

回想終了。


大杉栄というと知っている人は知っているという感じだろう。自分で言うのも変だし、烏滸がましいにも程があるが、普通なら手に取らないと思われる。世間一般の「本をよく読みます」という人でさえ恐らく取らないだろう。それに『ザ・大杉栄』というタイトルだ。これはビビる。僕でさえも手に取るか一瞬迷ってしまった訳だが、僕でさえ一瞬迷うぐらいなのだからそんなに読まれないだろう。それに埃を被っていたぐらいなのだから、それは誰にも手に取られなかったことの証左である。

大杉栄(1885~1923)

一言で彼を表現するなら「アナーキスト」それに尽きるはずだ。まあ、一言でそもそも表現する必要も無いだろうが…。所謂「無政府主義者」とか言う輩だ。かの大逆事件にも関わっている訳だし、彼の死については彼を殺害したとされる人の名から「甘粕事件」などと言われる。これまた俗に言う「国家の敵」であったという訳だ。

彼の面白いのは女性関係だ。これはウィキ先生を見て貰えれば分かるが、その関係性が面白い。大杉栄は自身の色恋沙汰が災いして、瀕死の重傷を負うぐらいだったのだから、相当な輩だったことは言うまでもない。結局、伊藤野枝が最終的な妻となった訳だが、あくまで表面上の妻になっただけであって、実際は婚姻関係はない。それなのにキラキラネームの子供たちを設けた。

長女の魔子、次女の幸子(←まあこれは普通だ)、三女のエマ、四女のルイズ、長男のネストル。ちなみに長女の魔子に関しては「悪魔の子」という意味らしい。いや、まんまじゃないか。しかも、全員日本人だ。もしかしたら日本のキラキラネームの発端は大杉栄だったんじゃないのか…。まあ、そんなことはどうでもいい。

さて、ここからほんの少し込み入った話をしよう。この当時は雑誌が非常に流布していた時代。雑誌の数で言えばかなり出ていた。それは大正時代を迎えると更に隆盛する訳だが、この大杉栄も『近代思想』という雑誌に貢献した1人である。この『近代思想』という雑誌は大逆事件後、「冬の時代」と呼ばれた際に社会主義者たちが出版した雑誌である。彼以外に荒畑寒村なんかも居る。

「冬の時代」と言うのは、まあ簡単に言えば、大逆事件後に社会主義が弾圧されたことにより、そういった活動家たちが行動を起こせなくなってしまった時代ということだ。詳細を書くつもりは微塵もないが、そういう感じの時代だったと雰囲気だけ分かればよい。そんな中で大杉栄は文章を書き続けていた。


彼は主に批評やエッセーを残している訳だが、そういった社会主義の思想とか、アナーキズムとかそういったことを抜きにしても面白いものがある。ここまで彼の背後関係について語ってきた訳だが、あくまでこれらは余談に過ぎない訳で。ここからが僕の書きたいことの始まりである。

彼の批評の中で僕が1番好きな作品がある。一部引用したい。

 書物を讀んでゐない事を以て無學であると自卑するが如き風習は、僕等の間から全く一掃しなければいけない。僕等は、他人のいろゝゝな判斷を机の上に並べ立てて、一種の論理的遊戯を以て、それをさまざまに混交し排列する、謂はゆる學者の眞似をする要はない。寧ろ斯くの如き方法を侮蔑し排斥して、始めて個人的思索の端緒に就く事が出來るのだ。
 書物を讀むよりも先づ、自らの身邊に生きてゐる事實に眼を轉ぜよ。そして、其の事實に對して、徒らに頭の中で理屈をこね廻はさずに、只だ其の有りのままを注視せよ。其の事實そのものに對しては飽くまでも深く、又其の事實と關聯する諸事實に對しては飽くまでも廣く、出來るだけの觀察と調査とを遂げよ。又必要の場合には、此の必要は甚だ屡々起る事であるが、自ら其の事實の中に身を投じて見よ。卽ち自ら自分を實驗に供して見よ。斯くの如き觀察と實驗との度び重なるに從つて、始めて僕等は、僕自身の、動かすべからざる思想を築き上げて行くのだ。
 此の個人的思索を欲しない輩は、謂はゆる衆愚である、永遠の奴隷である。歴史を創る事無くして、歴史に引きづられて行く、有象無象である。僕等とは全くの他人である。

大杉栄「個人的思索」『ザ・大杉栄』
(第三書館 2004年)P.154

これは、僕にとってかなり響いた部分だ。というよりも、僕の読書に対する姿勢を再度見直さなければならないと感じさせてくれる一節だ。こう考えてみると、読書もただ読むというだけでは足りないと改めて痛感される。確かにそうだ。行動に勝る知識などないと僕も思う。

だから、僕がこうしてnoteに書いていることは言わば「他人のいろゝゝな判斷を机の上に並べ立てて、一種の論理的遊戯を以て、それをさまざまに混交し排列する、謂はゆる學者の眞似」でしかないのだ。この状況を打破すべく僕はこうして書き続けるのかもしれない。いやはや、これまたよく分からなくなってきた。

僕は今まで「読む」という行為しかしてこなかった訳だが、こうして約1年ほどnoteを書き続けている。そうして、それは本から得た知見を僕の日常生活にフォーカスして延々とくだらないことを書き続けている。発見も多いが、やはりそれでも僕には経験が足りないと思うことはある。それこそ、本を読むとそれがまざまざと思い知らされる。

僕がnoteを書くときと言うのは「日常生活で感じて、考えたことが積もり積もって容器からはみ出た時」に書く。しかし、そこに至る前段階として僕には「読む」ということがアプリオリに存在する。「本を読む」→「日常生活」→「考える」→「疑義の蓄積」→「本を読む」→…というサイクルを僕は繰り返し繰り返し、最終着地点が「書く」ということになる。

無論、「読む」ことも「考える」ことも「書く」ことも人間の行動様式の1つであり、行動の一形態であるのだ。やはり重要なのは「自身の生活を見つめる」ということなのではないだろうか。

これも何度も書いているからくどくど書きはしないが、やはり自身の生活を出発点とする芸術は読んでいて発見が数多くあり、見たり読んだりして面白いものが多い。これらについては過去の記録を参照されたし。

こうやって見てみると、意外とこういうアナーキストだったり無政府主義者、社会主義者やプロレタリア文学というものは結構こういった姿勢が通底しているように思える。生活が出発点となる。先の戸坂潤の引用でもリアリズムについて書かれていた訳だが、それも「現実」という言葉が羅列されているように、僕らが生きているこの世界が出発点となる。そうしてそれ以外にはもはやないのではないか。僕等は僕らが生きていることからスタートする。

僕らは僕らの生活から抜け出せない。生きているということは、同時に生活するということである。つまりは誰でも(かどうかは定かではないが)、自分の生活以外を出発点として何かを創作したり考えたり、行動したりすることは不可能なのではないだろうか。

よく、自分本位で考える人のことを「自己中心的」という表現をする。それがどこか害悪のような様相を呈している。無論、生活をする上では自分以外の存在が要る訳であって、そのような態度を取ることはいけないことだ。しかし、これの全てが悪いとは僕には思えない。「生活」という言葉で先程から僕は一纏め、一括りとして表現しているが、個々人によってその「生活」の様相は異なっている。皆が皆同じ「生活」ではない。その人にはその人なりの「生活」がある。

その自身の「生活」からスタートし物事を考え行動し伝達しというようにする訳であって、正直なこと言えば、そこに在るのは自己の「生活」のみであって、他者の「生活」は含まれていない。僕らの物事の思考法や行動と言うのはやはり自分の、自分自身の「生活」からスタートせざるを得ないし、畢竟するにそれが全てだとも思えて仕方がない。それを強要すること程息苦しいものは無いだろう。

ベストなのはお互いの「生活」の根源を知ることではないだろうか。そこに書かれたものでもいいし、言った言葉でもいいし、身振り手振り、服装などの見た目でも何でもいい。そこに現れる「生活」をお互いに寄り添わせ、アウフヘーベンする。そうして新たに創出された「生活」からスタートして行けばいい。人付き合いの困難さの一端はここにあるのかもしれない。


はてさて、またまた何を書きたかったんだかよく分からなくなってきてしまった。最後に大杉栄の詩を引用して締めよう。

生は永久の鬪ひである。
自然との鬪ひ、社會との鬪ひ、他の生との鬪ひ、
永久に解決のない鬪ひである。

鬪へ。
鬪ひは生の花である。
みのり多き生の花である。

自然力に屈服した生のあきらめ、
社會力に屈服した生のあきらめ、

かくして生の鬪ひを廻避した、
みのりなき生の花は咲いた。
宗教がそれだ。
藝術がそれだ。

むだ花の蜜をのみあさる虫けらの徒よ。

大杉栄「むだ花」『ザ・大杉栄』
(第三書館 2004年)P.710

よしなに。

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