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雑感記録(290)

【ガンダムSEEDシリーズ覚書①】


先日、Netflixにて『ガンダムSEED FREEDOM』の映画を見た。

僕はガンダムは小さい頃から好きである。というのも、父親がガンダム好きであり、初期の『機動戦士ガンダム』を見ていたことが大きい。その後、『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ZZガンダム』そして『逆襲のシャア』とこの一連の作品には触れていた。しかし、これは僕の世代からするとドンピシャではではない。僕のドンピシャガンダムはやはり『ガンダムSEED』であり、ある意味で僕の青春でもある。

このガンダムSEEDシリーズはそれまである種下火になっていたガンダムが再熱した意味でも大きなメルクマーク的なシリーズでもある。『ガンダムSEED』(2002年)、『ガンダムSEED DESTINY』(2004年)、そして『ガンダムSEED FREEDOM』(2024年)と20年の歳月を経てガンダムSEEDシリーズは一応の(?)完結を見せる訳だ。

しかし、僕は『ガンダムSEED FREEDOM』を見てがっかりした。

まず以て、ガンダムがどこかエロゲみたいな様相を呈していることが露骨に描写されているからである。見渡せども見渡せども、散りばめられた男女間の所謂、恋愛関係みたいなものがある。特に今回はラクスを巡る話が中心にあり、言ってしまえば寝取られたラクスをキラが取り戻すという話である。加えて、ビジュアルがエロゲそのものであった。特にキラを助けに行った後の場面に於いてはピチピチのスーツに揺れる乳房が印象的だ。あれを見た時に僕は内心「あ、終わったわ」と思った。それに映画最終場面。何故2人は裸になるのか。これこそエロゲ的展開の最終地点ではないか。

とまあ、こんな愚痴を書いてばかりでは仕方がない。

ところで、僕はこの『ガンダムSEED FREEDOM』のそのエロゲ的終局を見た訳だが…。というよりも、僕はここ最近「あそび」を考えるときに、格好の素材がガンダムSEEDシリーズにあるのではないかと、ふと思ったのである。それでこうして書き出している。つまり「あそび」の場としてのガンダムSEEDシリーズが存在する訳である。

些か唐突ではある訳だが、ここから連日に渡ってガンダムSEEDシリーズを取り上げて「あそび」という観点から作品ごとに語っていきたいと考えている。先にも触れた通り、ガンダムSEEDシリーズは『ガンダムSEED』『ガンダムSEED DESTINY』そして『ガンダムSEED FREEDOM』の全3部作である。途中に細々したシリーズ作品が入ってくる訳だが、今回は省き、あくまでこの3つに絞って順を追って、「あそび」とガンダムについて語っていきたい。

今回は、最初の作品である『ガンダムSEED』(2002年)である。


1.ガンダムSEED(2002年)

物語の構造的には大概どれも同じだ。主人公になる人間が不可避的に戦争に巻き込まれて、嫌々ながらも闘うことを選択して困難を生きながら成長していくというお決まりのパターンである。特にこのSEEDシリーズは初期の『機動戦士ガンダム』へのオマージュが至る所で見られ、これを知っている身としては興奮せざるを得ない。だが、逆を返せばストーリーの構造もほぼほぼ初期を踏襲していると言えなくもない。

そんな話はさておき、ガンダムSEEDの一連を理解するためには、様々な状況を踏まえておかなければならない。これを説明することなしにはガンダムSEEDに於ける「あそび」について考えることが出来ない。些か説明しずらい部分もある訳だが、頑張って書いてみようと思う。

『ガンダムSEED』の場合、まず厄介な問題として、唯の「地球軍/ザフト」という二項対立だけではなく、その内奥には「地球人/コーディネーター」という人種のことも絡み合ったうえで話が進んでいく。これが状況をややこしくしている訳だが、これのお陰で「あそび」が上手く出来ていると言っても過言ではない。特に主人公のキラ・ヤマトは正しく「あそび」の渦中にいる人物になっていく訳だが、ここが見どころである。

先に結論から述べてしまうと、『ガンダムSEED』は「あそび」という場をいかにして創っていくか?というある種のマニュアル的要素を含んでいる作品である。「地球軍/ザフト」「地球人/コーディネーター」という両者に挟まる「/」の隙間=「あそび」の存在が主人公であるところのキラ・ヤマトであり、場としてのアーク・エンジェルが存在している。

話を順を追って辿って見て行こう。


話の内容については、実際僕が説明するよりも、サイトで説明されている方がよっぽど分かりやすいので、そちらを引用しようと思う。

C.E.70。経済圏の確立を求めるコーディネイター(ザフト)とナチュラル(地球連合)の軋轢は「血のバレンタイン」の悲劇によってついに武力衝突へと発展した。モビルスーツを擁するザフトを各地で地球軍が圧倒するが、戦渦は予想に反し長引いていく。「血のバレンタイン」から11ヶ月が経った頃、中立国の工業コロニー、ヘリオポリスに住むコーディネイターの少年キラ・ヤマトは、ザフトによるガンダム奪取作戦に巻き込まれる。その奪取作戦にはザフトの軍人となった、キラのかつての親友アスラン・ザラが参加していた。戦火の中、運命的な再会を果たす二人。しかしキラは、ナチュラルである友人を守る為、唯一奪取を免れたストライクガンダムに乗り、アスランと敵対することになるのだった…。

機動戦士ガンダムSEED|ガンダムSEEDシリーズ公式サイト
機動戦士ガンダムSEED | 機動戦士ガンダムSEEDシリーズ公式サイト (gundam-seed.net)
閲覧日:2024年6月10日(月)

まず以て、ここでコーディネーターとナチュラルという語が出る訳だが、少し説明をしておこう。コーディネーターとは即ち、遺伝子操作組替技術によって生まれた人々のことを指す。それに対し、ナチュラルとは我々のような地球人、つまりは遺伝子操作せずに生まれてきた人々のことを指す。まず、人種間としての「/」が存在する。「コーディネーター/ナチュラル」という二項対立である。

ちなみに言うと、コーディネーターはナチュラルが作り出した産物であり、コーディネーターはナチュラルと比較すると身体能力も頭脳もずば抜けている。この引用にある「血のバレンタイン」というのは簡単に説明するとナチュラルによるコーディネーターへの核兵器による攻撃のことを指す。つまり話を単純化するならば、ナチュラル、つまり人間はコーディネーターを排除しようと喧嘩を吹っ掛ける訳だが、「彼らの能力の前には何も及ばない。だったら人類の持つ核で対抗しちゃろう!」というのが事の始まりである。

まず以てこの二項対立の起源的な部分が、典型的な出自で構造的に理解しやすいという点に於いて評価できる。これもまた単純化して言うなれば、「地球人のやっかみ」である。自分たちの手でコーディネーターを創り出しておきながら、そのコーディネーターを排除しようとしているのだから馬鹿な話である。それはさておいて、ここで改めて鈴木大拙を引用しておこう。

 東洋・西洋というと、漠然としたことになるが、話の都合がよいから分けておく。東洋的見方または考え方の西洋のと相異する一大要点はこうである。西洋では物が二つに分かれてからを基礎として考え進む。東洋はその反対で、二つに分かれぬさきから踏み出す。「物」といったが、これは「道」でもよし、「理」でもよし、「太極」でもよし、神性でもよし、絶対「無」でも、絶対「一」でも「空」でもよい。とにかく何かある、それが分かれぬ前というのは、「渾然として一」である状態である。これは甚だ誤解しやすい言詮であるが、今しばらく仮にそういっておく。言葉はいつもこれで困るのだ。それで西洋の考え方は、二元から始まるとしておく。
 二つに分かれてくると、相対の世界、対抗の世界、争いの世界、力の世界などというものが、次から次へと起こってくる。西洋に科学や哲学が、東洋にまさって発達し、したがって技術の面にも、法律的組織の面にも、著しい進捗を見るのは、いずれも個に対して異常な好奇心を持っているからである。東洋はこの点において大いに学ばねばならぬ。対抗の世界、個の世界、力の世界では、いつも相対的関係なるものが、弥が上に、無尽に重なりゆくので、絶対個は考えられぬ。いつも何かに連関しなければ考えられぬ。個は、それゆえに、常住、何かの意味で拘繋・束縛・牽制・圧迫などいうものを感ぜずにはおれぬ。すなわち個は平生いつも不自由の立場におかれる。自ら動き出ることの代わりに、他からの脅迫感を抱くことになる。たとい無意識にしても、そのような感じは、不断あるにきまっている。

鈴木大拙「東洋的見方」『東洋的な見方』
(岩波文庫 1997年)P.20,21

ある意味でこのガンダムSEEDの世界は、やはり西洋的な世界観で物事が進んでいることは明白である。実際、技術の目覚ましい発展は眼に見えている訳で、その産物としてモビルスーツが存在している。まだ、この段階では西洋的な思考の枠組みに留めるが、後にキラ・ヤマトそしてアークエンジェルを巡る場合には後半の鈴木大拙の指摘が重要になってくる。

はてさて、そんな中でナチュラルは核兵器を以て戦争を起こす訳だけれども、それが更に軋轢を生んでしまった訳だ。そうして戦争は激化していくことになる。そこで白羽の矢が立ったのが、キラ・ヤマトの住んでいるヘリオポリス、つまりは中立国の存在である。既にここで広義での「あそび」の空間が存在している。少し説明を加えよう。

中立国は言ってしまえば、「どちらでもない」という態度を積極的に取っている訳である。ナチュラルにもコーディネーターにも与しない。実は後に出てくるオーブ首長国連邦も同じ中立国として描かれるのだが、わりと完成している訳で、これは後シリーズでも重要な位置にあるので詳細はまた後に譲ることにする。このヘリオポリスは結論から言えば、最初のモビルスーツの戦闘でキラ・ヤマト自身によってぶっ壊される。

ヘリオポリスに至ってはおかしな話で、中立国でありながら自国を守る術を保持していない。描写だけの判断でしかないが、地球軍に偏ったイメージだ。街中は大概地球人、つまりナチュラルしか存在しない訳だ。中立国という仮面を被った地球軍である訳だ。だからヘリオポリスは一応体裁としては「あそび」なんだけれども、しかしどちらかに依存して作られている訳で結局これも二項対立でしかない。つまりは本当の意味ではこのヘリオポリスは「あそび」ではない。

さて、ここで1度キラ・ヤマトとその周辺について触れておかねばなるまい。

キラ・ヤマトは先にも書いた通り、地球軍に所属しながらコーディネーターというある種特異な人間である。また、周囲についても友人であるカズイやミリアリアなどは地球人であるが、キラがコーディネーターであることを承知している。そして、それについて友人たちは誰も咎めない。そうそう、説明をすることを忘れていたので急遽、ここで少し説明しよう。

僕は先程から地球軍やらザフト軍という言葉を使用している。「地球軍」というのは単純に言えば地球人すなわちナチュラルの軍組織のことを指す。そして「ザフト軍」というのは単純に言えばコーディネーターの軍組織のことを指す。お互いがお互いに同じなのに同じでない民族間同士で戦争をしているのだから、例えば「地球軍」なのにコーディネーターが居ると知れば恐ろしいことだし、「ザフト軍」にナチュラルが居たらこちらもまた大変なことになる訳だ。つまり、通常のルートで行けば「地球人(ナチュラル)は地球軍」「コーディネーターはザフト軍」というようになる。そしてそこに住む民衆の間でも同様の認識がある。

だが、何度も書くようだが、キラ・ヤマトは「コーディネーターで地球軍」である。この存在が重要で、尚且つキラ・ヤマトが抱える問題意識こそが「あそび」に直結するものである。そしてそれを意識させる誘発剤としてコーディネーターそしてザフト軍の親友、アスラン・ザラの存在も重要な役割を果たすのである。彼らの関係性は丁寧に追っていこうと思う。

とここで延々と書いても良い訳だが、それでは何だか良いのか悪いのかよく分からないので、これから取り上げたい主要人物たちの名前を挙げるとするならば以下4名である。
①キラ・ヤマト
②アスラン・ザラ
③ラクス・クライン
④カガリ・ユラ・アスハ

人間関係に於いては彼らの周辺およびアークエンジェルのことを抑えておけば問題はないだろう。加えて、先程から同時に「あそび」の場ということも考えているので些か話が混乱をきたしている、というか書いている僕自身が今既に混乱している。ただ、彼らを語る際には必ず場も問題になるので、一応ここまでを導入としつつ、今度は群像劇を中心に据えて書いていきたい。書けるかどうかは不明瞭だが。


先の繰り返しになる訳だが、この『ガンダムSEED』なる作品は言ってしまえば「あそび」」の場を如何にして創り出したのかに重きが置かれていると僕は思う。「地球軍/ザフト軍」「ナチュラル/コーディネーター」という二項対立の「/」の隙間を見事に切り開いたのが先程の4名と、何度も名前が出ているアーク・エンジェルである。

このアーク・エンジェルについて説明しよう。これは言ってしまえば宇宙船である。元々は地球軍の船であり、当初キラ・ヤマトやミリアリアやカズイ、後にフレイなども乗船することになる訳だが、地球軍の宇宙戦艦である訳だ。これは物理的な場としても「あそび」の空間であり、存在としても「あそび」なのであり、非常に重要な場となる訳である。ここを中心として繰り広げられる「あそび」を巡った一連の行為は興味深いものがある。

さて、少し話は脱線したので少し軌道修正。

とにかく、ここからキラ・ヤマトを巡る「あそび」の創出についてを見ていく。キラ・ヤマトはガンダムに乗り込み、そのコーディネーター特有の頭脳を発揮し、地球人では扱うことに時間が掛かる代物を一瞬にして使えるようにしてしまった。その時一緒にいた、後のアーク・エンジェルの艦長であるマリュー・ラミアス(以下、マリュー)は疑問に思う。つまり、ヘリオポリスという中立国とは名ばかりの地球軍の場所に居て、地球人なのにモビルスーツを一瞬で操れるの?と。

戦闘が終了後、ミリアリアやカズイなどによってキラ・ヤマトがコーディネーターであることが暴露される。だが、マリューにとってはどうでもいい。ガンダムさえ扱えればそれで良いのだ。半ば強引に巻き込まれたキラ・ヤマト。しかし、彼は一貫して「なんで僕は闘わなければならないの」という一種のアイデンティティクライシスみたいな状態に落ち込むのである。先程から何回も書いているがキラ・ヤマトは「コーディネーターでありながら地球軍」であるのだ。自分の同胞を次々と手に掛けるのは嫌だし、でも殺さないと自分が生きていけない。どうしたらいいのか。

1番最悪なのは親友のアスラン・ザラに遭遇したことだ。もしも彼と合わなければ、葛藤はするもののこれ程までに苦しむ必要は無かったはずだ。ここにも実は二項対立が生じており、「アスラン・ザラ/地球の友達(ミリアリア、カズイ、トールetc)」という友人の中での構図が出来ている。キラ・ヤマトは常に2択を迫られるのである。しかも、どちらを選んでも幸せなどない。何故ならばどちらかの立場に入れ込めば、対立し戦争が始まるからである。これは鈴木大拙も指摘している二項対立の性である。

そんな中、ある1つの大きなインパクトが来る。そう、ラクス・クラインの登場である。彼女は漂流していたところをキラ・ヤマトに助けられる訳だが、ラクス・クラインは偶然にも、いや必然にも、アスラン・ザラの婚約者である。お互いの共通項としてアスラン・ザラが存在している。彼女は「アスラン・ザラ/キラ・ヤマト」という二項対立の中間に居る。ある意味で「あそび」の起源はここにある。ポイントはラクス・クラインはアスランの婚約者でありながらも、キラ・ヤマトに対して「貴方は優しい人ですね」と言ったところである。「婚約者がいるけど好き。」という2人の「/」という狭間で彼女は行き来している存在であるのだ。

彼女が2人の間を取り持ってくれるかと思いきや、この段階ではまだ上手くは行かない。それはその場に於いては「地球軍/ザフト軍」という対立構造の中での話であるからだ。これが「アスラン・ザラ/キラ・ヤマト」というレヴェルの間で済む問題ではなく、大勢を巻き込む形での、偶然の出会いだったのだから。1つの予感として彼女は与えられたに過ぎない。あくまでもこの段階ではという話である。


ここから今度は、先から少し触れているように「アスラン・ザラ/キラ・ヤマト」を中心とした二項対立が描かれることになる。とりわけ、それは地球に降り立ってからのことになる。ある意味で宇宙に居るまでの間というのはどこか宙吊りにされたキラ・ヤマトが描かれる。しかし、彼だけである。後に彼を発端とし、アーク・エンジェルを巻き込んでいくことになるのだが、これも後に書くことにしたい。

地球編でのキーパーソンは何と言ってもカガリ・ユラ・アスハ(以下、カガリ)である。彼女の存在を考えることなしには語ることは出来まい。まず以て、ここで注目すべきはカガリのポジションである。カガリはポジションで言うとオーブ首長国連邦の王女であり、最初の部分であれば地域の戦闘員として登場する訳である。これもまた面白い点である。浅田彰の『構造と力』で示されたような、クラインの壺構造的な様相を持っている訳だが、ここではそれはさほど重要ではない。

重要なのはカガリの2人に対する態度と、彼女が背負っているオーブ首長国連邦である。先程も簡単に書いたが、オーブ首長国連邦は中立国である。街を歩けば基本的には地球人だが、「来るもの拒まず」と言った感じで地球軍もザフト軍も両方とも受け入れている。しかも、オーブ首長国連邦はお互いに侵攻しないという決まりがあり、地球軍とザフト軍がその地に居ても手を出すことは原則ない。つまり、オーブ首長国連邦という国は「あそび」の場として存在しており、その女王であるところのカガリが「アズラン・ザラ/キラ・ヤマト」の二項対立に「あそび」を見い出そうとする人物である。

だからオーブの地で「アスラン・ザラ/キラ・ヤマト」という二項対立が随所で「あそび」の方向へ傾きかけることがある。例えば、トリ―というロボットをアスラン・ザラがキラ・ヤマトに対して返す場面がそれである。あの場面は中々のものである。柵越しの会話。あの柵が正しく二項対立の「/」そのものを象徴しているのである。

その後、2人は激しい死闘を繰り広げる。

アスラン・ザラは友人を殺され、同じくしてキラ・ヤマトも友人を殺される。これを機に二項対立は更に色濃くなる。中間など入る余地もなく死闘が繰り広げられる。二項対立の行きつく先は「どちらかの死」である。そこには「引き分け」などというものは存在しない。どちらかが死ぬまで戦う。結局、この戦闘ではお互いに大けがを負うこととなる。そしてここも肝心な部分である。

キラ・ヤマトはラクス・クラインの元へ、そしてアスラン・ザラはカガリ・ユラ・アスハの元へ行くのである。僕はこの物語の「あそび」を考える上での重要な場面であると僕には思われて仕方がない。双方共に別の場所で二項対立の限界をそこで突き付けられる。「アスラン・ザラ/キラ・ヤマト」ひいては「地球軍/ザフト軍」「ナチュラル/コーディネーター」という彼らの環境を取り巻く二項対立に限界があることを突き付けられる。

だが注意を促しておきたいのは、ここではキラ・ヤマトだけがここではそれを自覚的かつ積極的に受け入れる訳だが、アスラン・ザラは後に自覚的になるのである。あくまでアスラン・ザラの場合は先のラクス・クラインの漂流でのキラ・ヤマトとの邂逅を通していない。つまりは本格的な邂逅である。だが、このような書き方をしてしまうと、「アスラン・ザラは1度カガリと遭難しているじゃないか」という問題があるだろう。これについては至ってシンプルな回答を与えたいと思う。

それは、キラ・ヤマトとアスラン・ザラの関係性を遭難時には把握していないということ。それだけの話である。二項対立があるというよりも、ただの「ザフト軍」というものでしかカガリはアスラン・ザラを見ていないのだから、何も起こる訳もない。キラ・ヤマトとの関係性はこの時点では知りようもない。所謂、この場面も先のラクス・クラインとキラ・ヤマトとの邂逅と同じく、ただの予感でしかないのである。

キラ・ヤマトの場合にはザフト軍内での二項対立を眼にする。そしてアスラン・ザラは後の地球軍内での二項対立(「オーブ軍/ブルーコスモス」)を眼にする。そして各々は自覚的になるのである。自覚した場合に与えられるモビルスーツがフリーダムガンダムであり、ジャスティスであるのだと僕は思うのである。


どうでもよい話だが、僕は『ガンダムSEED』の第35話(デジタルリマスター版では第34話である)が大好きである。これはキラ・ヤマトがフリーダムガンダムを手に入れ「地球軍/ザフト軍」の「/」に突っ込む場面である。あの登場シーンは圧巻だった。あそこの場面の格好良さを超えるシーンに未だかつて出会ったことがない。

第35話『舞い降りる剣』

ここでキラ・ヤマトの取った選択は「双方ともに救う」というものであり、どちらか一方に立つものではない。二項対立は存在する。それはこの世界では不可避である。しかし、元々はどちらも同じ存在であることは変わりがない。それを自覚したキラ・ヤマトは2つに分割されている物を1つにしようとこれから試みる訳である。鈴木大拙が指摘するところの「渾然として一」を志向しているのである。

これを機にアーク・エンジェルを巻き込み、地球軍そのものの存在、この戦闘の意味、二項対立の限界と向き合わねばならなくなるのである。そして再び彼らはオーブへ戻るのである。このオーブへ戻ることも非常に重要である。これは「あそび」の場へ回帰すること。この国ではコーディネーターもナチュラルも関係なく生活できる場所である。ここで1度リセットを図る。

だが、思わぬところから敵はやって来る。

それはブルーコスモスという存在だ。これは言ってしまえば、そうだな…ナチュラル原理主義のようなものである。彼らの合言葉として頻繁に「碧き正常なる世界を」というものが散見される。要はコーディネーターは排除し、地球人だけの世界を目指すというものである。ある意味で、これが先程キラ・ヤマトが体験したザフト軍内部での対立(パトリック・ザラに賛成/反対)のものであり、アスラン・ザラが体験したものは地球軍内部での対立である訳だ。厳密に言えば先にも少し書いているがオーブ/ブルーコスモスという二項対立である。

確かにブルーコスモスにとっては、地球人だけの世界を目指す集団にとってはオーブは目の上のたんこぶでしかない。大きな枠組みで捉えれば、地球軍内部での二項対立となる訳だ。だが、オーブとしては中立国である。そしてそれを守るためにブルーコスモスと闘う。そしてそこにオーブ側としてアーク・エンジェルが共に戦うのである。

結果として言ってしまえば、オーブは壊滅(のちにカガリが再建を図る)。そしてここで実は二項対立のスライドが起きる。「地球軍/ザフト軍」という構図が「ブルーコスモス/パトリック・ザラ」へと移行していくこととなる。ある意味でアーク・エンジェルは弾き出された存在である。結局、「あそび」としてあったオーブが壊滅し、完璧な二項対立へと移行した。アーク・エンジェルはそこに「あそび」を創出すべく戦うことになるのである。

ここで着目すべきはそのメンバー構成にある。

ここでのアーク・エンジェルの乗組員は地球軍(アーク・エンジェル搭乗員)、ザフト軍(アスラン・ザラ、ディアッカ・エルスマン)、オーブ(カガリ)の種々雑多な人が集まる。地域も問わず、人種(コーディネーター/ナチュラル)も問わず、ただ志を同じにしたものが集結したのである。だが面白いのは彼ら自身、どうして良いのか分からないことにある。つまり、彼らは常に懐疑的な思考を持ち、戦闘を行なうのである。消極的な戦闘である。

さらに、お互いがお互いの気持ちを少なくとも分かっている組織であるということである。地球軍側の感情も、ザフト軍側の感情も、その中間にあるオーブとしての感情も。様々にある訳で、お互いが衝突してしまうこともある。だが、キラ・ヤマトはその度毎にいつもこう言うのだ。

「僕にもどうしていいか分からない。でも皆で探せばいいんだよ。」

答えが無くても探せばいいんだよと言い続けるその精神たるや!キラ・ヤマトはやはり主人公であるべき存在だったと物語後半にして判明してくる。ポイントは「どうしていいか分からない」と自覚的になるも、選択をしないという点にある。分からないから選択するのではなく、分からないから選択しない方を選択するのである。つまりは、積極的に手放しているのである。

さらに重要なのは、組織化されていないただの有象無象の集まりであるということである。これが大きなポイントである。彼らは何か1つの志の元に集まった、いわば同志でしかないのである。これが1つの組織として成立してしまうということが危険性を孕んでしまう。このアーク・エンジェルという「あそび」は常に危うい。どちらかに傾く危険性を常に孕んでいるのだ。あるキッカケでどちらかに行きかねない。

実際、後半の劇中ではアーク・エンジェルが強い意志の元で戦闘をしていると見えてしまいがちだが実は違う。それは先程のキラ・ヤマトのセリフが示すように、「どうしていいか分からない」という状況に置かれている。しかも、積極的にその態度を肯定する。一歩でも踏み外せばどちらかに傾きかねない。それがもたらした結果が次の記録で示すことにする『ガンダムSEED DESTINY』となる訳だが、これは後日の記録に譲ることにしよう。

いずれにしろ、ある種の弱い繋がりであるからこそ、自由かつ大胆な行動が可能となる。しかし、暴力にもなりかねない。言ってしまえば「上から目線」になりかねないものである。何かを批評するということは「上から目線」でなければ語れないということもある訳で…。それを極力回避するためにキラ・ヤマトは攻撃する際には必ず人は殺さない。コックピット以外をい狙って攻撃する。これも非常に重要な点である。

他のモビルスーツに乗る人間は皆、バンバン殺している。キラ・ヤマトのようにはいかない。何ならマリューだってバジルール中尉を殺しているのだし。そう考えると、本気で「あそび」を目指して戦っていたのはキラ・ヤマトだけである。後の『ガンダムSEED DESTINY』『ガンダムSEED FREEDOM』でキラ・ヤマトがそれを1人で受け止めるのだが、これも後の記録に譲ることとしよう。


この作品の僕が好きだなと思う所は、物語の収拾のつけ方にある。

双方の敵を殺し終えた後、アーク・エンジェルが「よし、この場を纏めるぞ!」とは決してならず、ザフト軍から調停の申し入れが入り、地球軍とザフト軍による和平交渉により物語の終結を見るのである。これには思わず感動したものだ。つまり、アーク・エンジェルはそこで組織化することを望むのではなく、ある意味で野郎集団であることを選択したのだ。ここにこそ「あそび」の本質があるように思われて仕方がないのである。

さて、三度の繰り返しになるが『ガンダムSEED』は「あそび」という場を如何にして創っていくのかというマニュアル的な作品である。では、この作品から得られる「あそび」というものはどういったものなのか。

二項対立、ここでは地球軍/ザフト軍、ナチュラル/コーディネーターというものが存在している中で自分の定点を確認すること。だが、これは現実には難しい訳で、キラ・ヤマトの場合には既に矛盾をはらむ存在(「地球軍なのにコーディネーター」)であるから危うい位置に居る。言ってしまえばどちらも捨てられる位置に存在している。

だが、我々にはそんなことは出来ない。はい、お終い。では意味がない。ここで重要なのは「矛盾を孕む」ということにある。自己矛盾を抱えるということ、それに自覚的であるということ。これがまず「あそび」を創出するための第1歩。その中で動き続けること。二項対立の中で藻掻くこと。

そして、手放すこと。自分が固執していたものを手放すこと。何も手にしない状態で再び二項対立を「上から目線」で眺めること。そして最後に孤独であること。この孤独であるということは1人で居るということでは決してない。アーク・エンジェルのように同志を見付けることは重要だ。しかし、それで徒党を組んではいけない。常に流動的な孤独であること。これが「あそび」の創出ではないだろうかと思う。

・二項対立の中で自己矛盾を抱える。
・固執していたものを手放す。
・「上から目線」で二項対立を捉える。
・弱いつながり的集団の形成もよし。
・だが、徒党を組んで組織化してはいけない。
・そして、孤独であること。

これらが「あぞび」を創る、「/」の隙間を創るということではないだろうかということを僕は漠然と考えているのである。


さて、ここまで『ガンダムSEED』から「あそび」について考えてみた訳だが、次回『ガンダムSEED DESTINY』では「あそび」の困難とその限界について書いてみようと思う。

以上。

よしなに。




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