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雑感記録(270)

【「コスパ」「タイパ」、うるせぇ!】


ここ数日、久々にゆっくり読書出来ている。だが、体力の衰えとでも言うのか、長編の作品は以前にも増して読むペースが落ちた。というより、読みたい本が単純にありすぎて目移りしてしまうという所が正直な所である。日々様々な本を読んだり、それこそ毎日古本屋に居るとどうしても読みたい本が不可避的に増加する。僕は以前の記録で「つまみ食い的読書」みたいなことを書いた記憶がある。

「つまみ食い的読書」をしていく中で、自分にとって「面白い」とか「これは今の自分にとって必要だ」と思ったらそちらに比重を移していけばいいだけの話である。だから僕は個人的にだけれども、本を最後まで読む必要性というものを実はあまり感じていない。無論、作家からしたら「最後まで読んでくれよ」と思うだろうが、僕は嫌々最後まで読む方が失礼だと思うので、飽きたらすぐに辞める。もう1度、保坂和志を引用しておこう。大切なことなので。

読みはじめたらつまらなくても最後まで読まないと気が済まないと言う人がいるが、そのようなまじめさは小説に対する一種の甘やかしではないか。つまらないと思ったところで中断したり放棄したりするのが小説に対する愛というものではないか。小説が望んでいるのは読者の熱い気紛れ、関心が持続しなくなったらさっさと放り出してしまう冷たさ、それこそが小説に対する"熱"というものではないか。
 その"熱"はしかし小説が読者に一方的に与えるという受動的行為ではない。読者と小説の協働に委ねられる。

保坂和志「文庫版まえがき」『小説の自由』
(中公文庫 2010年)P.11,12

この引用の最後にもある通り、小説、いや小説だけでない。何かを「読む」という行為は「一方的に与える受動行為ではな」く、我々、それを読む者との「協働に委ねられる」のである。ということは作品の面白さも当然にある訳だが、我々読み手としてもそこに参画しなければならない。これは読書家と呼ばれる方々、あるいは自称している人々にとっては当たり前のことである。それ無しに作品は成立しないと僕は思っている。

だが、僕は、まあ、これも何度も記録で書いている訳だが、圧倒的に読み手側の力が衰えているような気がする。こうして書いている僕も当然に含めてだ。でも、考えて見て欲しい。最近の若者たちの方が恐らくだけれども文字に溢れている社会に存在している。例えばスマホを眺めればSNSで誰かの投稿を見る。そこに在るのは当然、文字でキャプチャーが書かれている。それを何個も見ていく。あるいは、写真や動画で情報にはすぐにアクセスできる。何なら僕等よりも情報収集能力は高い。

とこうして書いてみて、先の保坂和志の引用ではないが、今を生きる人々は常に「受動的行為」に身を置いているのかと思う。常に情報が溢れているから、それを並べるだけの作業は特化している。だが、その先、つまり立体的な思考、「協働」という部分が欠けている。そもそも、情報がこれだけ一方的に発信されていれば、否応なしに「受動的」にならざるを得ないのは確かだろう。だから今の子たちは情報を平面的に並べる、受けるのは物凄く上手だ。だがそれは結局並べてお終いで、それで満足する。そんな気がしている。これについてはかつて「平面的思考」と「立体的思考」という言葉で記録を残してある。参照されたい。

とにかく彼らは自分の頭の中のキャンバスに情報を広げたい。そういう欲望がある。平面上に並べて悦に浸りたい。その証左という訳ではないけれども、某テレビ緒局でも『東大王』とか何とか言って東大生とインテリ芸人という様な構図でクイズ茶番が繰り広げられる。それにYouTubeでもそういう系統、学力のオールラウンダー的な人々が人気である。そこで流されるのはあくまで表層である訳で、事実そこで考えなければならないのは読み手である我々である。

無論、そこで演じている演者たちはその知識があるうえで思考している訳だ。僕等には見えない。彼らの頭の中を推し量ることは出来ない。だが確実に言えることは、それをただ1つの情報として並べている受動的な読み手にとってはどうでもいい問題であり、そこに映し出されている表層としての情報を並べることで「成長した」と勘違いしている。だから僕はどうもああいう番組とかは、頭を使わない分、楽で良いのだが時々陰鬱な気分になる。


さて、どうしてこんな話をするのか。

今日も今日とて、僕は朝から部屋掃除をして1日中映画を見ていた。本当なら散歩に行きたかったのだが、洗濯槽を掃除を始めてしまった。塩素系の洗剤を使用したため洗濯機を放置して出掛けるのが怖かった。換気は重要である。それで映画を見て、合間に本をちょこちょこ読み、マッチングアプリを開いて馬鹿の1つ覚えでまたまた左右にスワイプして遊んでいた。

その中で、たまたまこんなことを書いている人が居た。

「読書はコスパが良くて好きです」

なるほど、その真意を聞いてみたいと思った。それで僕は「いいね」を押した。現在未だ何も音沙汰はない訳だが、まあそんなのはどうでもいい。とにかく僕はこの文言を見た時に、少し「?」だった。読書に対してどう思うがそれは人の勝手だし、こうして書いてしまうことそれ自体が「読書家が読書しない人を見下す態度」そのものになる訳だが、それよりも疑問の方が勝ってしまった。「この人はどういう気持ちで読書をしているのだろう」と。

僕は過去の記録で散々書いているが、そもそも本を読むという行為自体が「コスパ」「タイパ」が悪いものだ。前提として読書にそういう概念を持ち込むこと自体がお門違いだと。だから必要だと思えば読めばいい。だが、この1文から推測するにだが、この人はもし「コスパ」が悪い読書だったらしないということなのではないかと単純に考えてしまった。

僕は以前、こんな記録も残した。

目下、僕の敵は自己啓発本である。正しく読書に「コスパ」や「タイパ」を求めるそれ自体が、これらによって僕等から読書の愉しみを奪っている。作品との「協働」を作品そのものが拒む。そんな感じがする。とこう書いている訳だが、実際読書に時間を掛ける必要も僕はないと思っている。そもそも気が付けば時間など経っているのである。そう考えると、単純に僕等の読む力がないだけの問題なのではないかと自分自身の中で堂々巡りを繰り返しているのである。

自己啓発本の悪い所はここにもあるのではないかと思う。つまりは、読み易いが故に、何なく読めてしまうから他の作品で読みにくいものがあるとそれを放棄する。ある意味で自己啓発本が僕等の読書力を下降させているのではないか。最近はそれを凄く感じる様になった。難しい作品はそれが難しいから良くないのであって、分かりやすくすることが重要であると。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

しばしば、「頭の良い人はそれを分からない人に説明することが出来る。それが本当に頭が良いことである。」と言われる。確かに僕もそう思う。だが、これはあまりにも身勝手過ぎる物言いではないか。これも「協働」作業である。相手が話してくれることについてお互いに寄り添う優しさが無ければ成立しないことである。お互いがお互いに分かる努力をしろよと僕はいつもこの物言いに感じている。そして思う。大抵、こういうことを言っている奴は馬鹿だ。


僕は以前、「文学や哲学は僕等に対する「優しさ」なのである」ということを書いた。正しく僕はこれが重要であると思うのである。何度も書くようだが「読む」という行為は「協働」作業である訳だ。一方的に作品がある訳ではない。それを僕等が能動的に「読む」という行為が求められる。それはただ文字面を読む、そこに描かれていることを見るということだけではない。自分の思考とミックスさせること、それこそが「読む」ということなのだろう。

「愉しい」とか「嬉しい」とかそういう感情だってある意味で自分の思考のうちの1つであると僕は思っている。感情にも経験はある。ただそれを僕等が知覚していないだけで刷り込まれている。僕はそう考えている。だから作品を読んで感情が発露することだって思考の一環である訳だ。だが、その先へ跳躍することが大切だ。簡単だ。「何で」「どうして」と思えばいい。たったそれだけだ。だが自己啓発本はそれすら奪ってしまう。

あそこで書かれているのは「ああしろ」「こうしろ」みたいなことばかりだ。だがよくよく読んでみると至極当たり前のことばかり書いている。僕はこの間、kindleで誰だっけ…デール・カーネギーとかいう奴の名言集的な本を読んだが、あれはまあ酷かった。正直に言えば、「それ、他の誰かが言ってたし、そこそこ本読んで考えれば別に普通のことだけどな」と感じた。そこで僕は「そうか、そう言うことか!」と気が付いた。

つまり、僕はこれを読んで「他の本にもそれっぽいこと書いてあったし、自分で考えれば分かる」と思ったのは僕がそれなりに読書してきたからだと。時間はかなり掛ったけれども「協働」してきたから「何を当たり前なことを、こんな仰々しく…」と。だだ、この本にはそれが直接書かれている。その言葉に至るプロセスなどはどうでもいい。そう、正しく「コスパ」「タイパ」そのものであるではないか!と。そこに至るまでのプロセスが面白いんじゃないか、この馬鹿!と思いながらデール・カーネギーの本を嫌々最後まで読んだ。

昨今、過程よりも結果が重視される社会である。事実、僕もそう思っている部分はある。しかし、自分の自信になったりする部分は「どういうプロセスで以てその結果を出せたか」ということが肝心な訳だ。結果だけを求めるというのはそれこそ資本主義の奴隷そのものである。社会の歯車的思考である訳だ。ある意味で僕はそういう風に仕向けているものの1つの最良のツールとして自己啓発本があるように考えている。だから僕にとって自己啓発本は目下、敵なのである。

僕はずっと思っているのだが、自己啓発本やSNSや何かで「こういう考え方がある」という様なことが紹介されている。だが、それが例え「自分が考えていたことと同じだ」となってもそこに至るまでのプロセスが異なれば結果は同じでもその言葉の重厚さというのは異なる。自分自身という存在をその言葉や考え方に至るまでに没入させることが出来ているかということが肝心なのである。

だから、僕は自己啓発本ばかり読んでいる人や、そればかりを紹介している人々は内心「ヤバイ」と思っている。特にSNSでそれを紹介している人を見ると、何だか資本主義に踊らされている感じがして堪らないのである。別にそれはそれで、何を発信するかなんて言うのは個人の自由だから僕が言う権利は1ミリもないのだが、こういう状況が続くのは危険だと思っている。だから僕は細々と文学や哲学作品をこれからも読み続けるだろうし、こういうnoteで書き続ける。

さらに意味がわからないのは、こういう「自己啓発本アンチ」として喧嘩を売るような、挑発的な文章を僕が書いているのにも関わらず、「いいね」を送って来る人の殆どが自己啓発本の良さについて熱弁を振るう人たちなのだが…。本当に意味が分からない…。何がしたいのか意味が分からず片腹痛し。

一応、断っておきたい訳だが、最終的に周りに周って自己啓発本に戻って来るパターンもある訳だが…僕にはそれは出来ないな。新書が僕にとってはそれだったんだけれども。周りに周って「新書めっちゃ良いな」ってなってきている訳で…。まあ、これはまたの機会にでも書くことにしよう。


「コスパ」「タイパ」とうるさい。特に読書にそれを持ち出している奴は好きじゃない。多分、そう言うことをさらりと言えてしまうということは「読む」という行為にまで至っていない。僕はそう思っている。

ある意味で、読書は結果を求められない行為だからこそ、そのプロセスに比重が掛かる。何ならそこが1番重要であると考えている。「コスパ」「タイパ」と声高に叫ぶ連中には分からん話だろうが。まあ別にどうでもいい。僕はそう考えているという話だから、ここまで書いたことを強要するつもりは微塵もないし、「今すぐそういうことを辞めろ」なんて言うつもりは全く以てない。それは各々の自由である。こうして僕がここまで厭味ったらしく書いていることでさえもそうなのだから。

だが、これだけは断っておきたい。

読書に「コスパ」「タイパ」を求めるんじゃねえ。

そして、僕が大口叩いて言えたことでは決してないが

読書を舐めるなよ。

よしなに。


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