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雑感記録(137)

【文学を読むということ】


先日、齢27を迎えた。僕は毎年決まって自身の誕生日は神保町に居る。昨年も一昨年も、そのまた前の年も…。今年もご多聞に洩れず神保町でのんびり時間を過ごしたが例年と違い、今年は1人で過ごした。いつもは大学の友人に無理をお願いして一緒に過ごしてもらうのだが、僕の引越しの忙しさも重なったこともあって今年は1人で過ごすことにした。

神保町へ行って片っ端から古本屋に入っていったのだが、正直ピンとくる作品があまりなかった。読みたい作品もそこまで見当たらず、ただふらふらっと見て回っていた。その中で僕の眼に『稲垣足穂作品集』が目に留まったので購入することにした。特段読みたくてということでもなかったのだが、装丁が綺麗だったので思わず購入してしまった。所謂、本のジャケ買いみたいなものだ。

東京の自宅に戻り読んでみたのだが、これがどうも面白くてのめり込んでしまい、気が付いたら遅い時間になっていた。「そうか、これが読書の面白さだ」なんて実感もしたが、やはり読みごたえがある作品を前にするとちょっとした疲労もある。これも心地がいい。何度も言うようだが、読書好きな人間は一種のマゾヒストなのかもしれない。


それで、僕は過去に「最近の小説が読めない」という記録を残した訳だ。

僕は小説というものが今、現代に於いて読まれる必要性があるのかということについて真剣に考えるようになった。そもそも小説というものの役割であったりとか、小説が何故生まれたのかというような根本的なところまで考えなければならないのではないかと僕は思うようになった。と言っても、あくまで「思うようになった」というだけで実践出来ていないところがよくないと我ながら痛感しているのだが…。

いや、小説というのではない。そもそも芸術としての文章、詰まるところ「文学」ということなのだが、それが果たして必要とされるのかどうかということも僕には気になって仕方がない。実は現代に於いて「文学」というのは死んでいるのではないのか?と僕は最近では考えている。と言うよりも厳密には「「文学」というものをやっている人がいない」ということなのかもしれない。

僕が最近の小説を読めなくなった理由はいつだったかの記録に残したが、何と言うか重厚感がないことにある。それは能動的に読んでいる側からの積極的な介入により、そこにあるテクストとの相互連関の中でアウフヘーベンしていくところの何かを掴むことこそが読書、ひいては「文学」の持つ魔法みたいなものだと思う。つまりは、お互いに何か(この何かと言うのは何でもいい)を生み出すことこそが「文学」を読む、小説を読む、詩を読むということなのかもしれないのではないかと思う。

少し肩の力を入れすぎた感があるので、もっとラフな形で書こう。小説に描き出される事象というのはある意味でその作中人物による物の見方、考え方などが順序だてられて整理され僕らの眼前に現れる。その思考の変遷を辿ることも小説の愉しみである。僕は「行間を読む」と言う言葉は嫌いだが、しかしそこに書かれている言葉が表面上持つ意味以上にその言葉と言葉の連なりの中で更に大きな意味を生み出しているということを純粋に愉しむことも重要であると思われて仕方がない。

僕は哲学書を読むときに常々感じていることだが、その作品で作者が何を言っているかというのを受け取ることも重要ではあるが、それだけでは退屈だ。まず以て哲学書は作者の思考過程が延々と語られる訳だから、その流れを愉しむことが大切だ。例えば僕等は一般的に「脱構築」という言葉を聞くとその言葉の持つ意味や考え方は言うことが出来るけれども、そもそもどういう理由でデリダが「脱構築」などという思考を考えうるに至ったかは容易に説明できないだろう。

僕等は単語単体で意味を覚えてしまうから、そこに至るプロセスと言うのは関係なくなってしまう。それがどういう意図のもとで、あるいはどういった経験の元に導き出されたのかということを辿る方が言葉単体の意味を学ぶより重要だと僕には思われて仕方がない。そのプロセスにこそ何か考えるヒントが落ちているのかもしれない。

小説についても同様のことが言える。哲学が直接的にプロセスを提示するものであれば、小説は作中人物に代弁させることで間接的にプロセスを提示するものだと思われる。とある人物の一事件あるいは何もない日常を通して、その人物は何を考えどう行動したのかと示すことによって読者はそれを平板化してその思考性を辿るのである。

哲学書は畢竟するに作者自身の為に書かれたものであり、恐らくだけれども究極的には「自分が理解できれば十分だ」というような形で書かれていることが多い気がする。しかし、一般の読者にはそれを読めるほどの素養がない訳だ。だって作者本人じゃない訳だからそれを完璧に理解することは困難を極めるはずだ。それでも、その人の思考を辿りたい。僕もそうだ。

そこで小説というものがあると僕は考えている。その困難さを他の誰かが書いた作品で実感すること。たとえその哲学書が分からなくても、それと通底した何かを僕らの実生活に沿った形で提示されている小説を読むということが手っ取り早いというと語弊があるが、そちらの方が身近に感じることが出来るのではないかと僕には思えて仕方がない。

しかし、こういう書き方をしてしまうと「じゃあ何か、小説は小難しいことを書いて哲学がベースになってなきゃならんのか?」となるだろう。何も僕はそういうことを言いたい訳ではない。人は誰しも人それぞれの考え方というものがある。この世には数多くの人が存在する訳で、考え方も千差万別である訳だ。少なくとも文章を書くということは、それがどんな形であれその人の思考性が滲み出るものなのだ。それを感じる取ること。その作者の哲学のプロセスを辿ることが小説の醍醐味だと思う。


 文学というもの(さらに一般的に"芸術")は、言葉と読書という二重の次元において、人間というものを識別する数少ない行動の一つなのだ。いろいろな高等哺乳類があらわれてくるのは文学によってであり、ある特殊な容貌がそこに描き出されてくるのも文学を通してなのである。

野村英夫訳 リカルドゥー「文学という名の問題」
『言葉と小説』(紀伊國屋書店1969年)P.19

 また、"現実の木に対して、書物のなかの木に何ができるか?"ということも、そこから推測されてこよう。ある樹木に対してわたしの視覚をはっきりさせてくれるのは、あるいは誤解というもの(つまりそれをほかの木ととり違えた場合)であり、あるいは、そのお蔭でわたしにも幾つかの特徴に注意することのできたような、専門家の言葉(植物学や樵夫などの)なのである。つまり、わたしの知識によるいささか息の短い確信を混乱させることによって"他人の目で、ものを見る"ようにさせてくれるすべてのもの、である。ところで、描写なるものは、本来的に言語的なその傾向によって、知覚の総体のなかからさまざまな要素を切り抜いてきて、それらを必然的に異質な構成でもって秩序づけ、こうしてどこの森にもその根のみつからぬような樹木に到達する。いわば視覚撹乱装置なのである。"書物のなかの木"は、木とは異なるが故に、その最深層部に問いかけるのである。文学が世界に問いかけ、われわれにいわばそれを明かすのは、その本質的なずれにによってなのである。そこにこそ、言葉についてよりも、むしろ独創的な視覚や想像力について語りたがる人々が、すりかえてごまかそうと躍起になる現象があるのだ。

野村英夫訳 リカルドゥー「文学という名の問題」
『言葉と小説』(紀伊國屋書店1969年)P.22

これはリカルドゥーの『言葉と小説』からの引用である。リカルドゥーを知っている人がどれほどおられるか僕には知ったことではないが、この引用箇所については例え知らなくても「読書すること」を考える上では非常に重要なことが書かれているような気がしてならない。1つずつ順を追って見ていこう。

1つ目の引用で僕が重要だと感じた点は最終部の「ある特殊な容貌がそこに描き出されてくるのも文学を通してなのである」というところだ。「文学」というものをどう定義するかという細かい作業は置いておくが、あくまでここでは言語芸術の総体を「文学」と考えてみようと思う。このリカルドゥーが言うところの「特殊な容貌」と言うのが僕が考えるところの作者の思考性である。

これをフィクションの話の独自性と捉えてしまうのは些か短絡的である。その作品の特異性が内容に依拠しているのだとしたらそれは違うと僕は思う。この「特殊な容貌」というのは恐らくだけれども、作者の思考性を表現する上でその作者にしか出来ない表現、つまりその言葉、表現でなければ思考性を表現することが出来ないという形式上の特異性であるのではないかと。例え同じ言語でも、その人の書く文脈などによっては容貌を変えるだろう。そこにこそ「文学」の持つ可能性がある。どこか構造主義じみている気がしなくもないが…。

形式と内容という観点であると詩が真っ先に僕の中では思い出されるのだが、しかしそれは詩が分かりやすいからというだけの話であってそれは「文学」全体に言える話ではないだろうか。どちらがアプリオリに存在するかという話は萩原朔太郎にでも譲るとしよう。

2つ目の引用だが、これについては何と言うか言わずもがな…。これも重要な部分を挙げるとすれば「わたしの知識によるいささか息の短い確信を混乱させることによって"他人の目で、ものを見る"ようにさせてくれるすべてのもの」というところだ。

例えばだが、コップの描写をするとしよう。今僕は「コップ」と書いた訳だが、小説ではそのコップについて延々と模様がどうだの、取っ手がどうだの、結露がどうだの…と書こうと思えば書けてしまう。ところが、正直なことを言えばそこでわざわざそういった描写をせずとも「コップ」と表現した方が読者には分かりやすいことこの上ないし、書く側も楽である。では、なぜ作者は敢えて描写を選択するのだろうかという風に考えざるを得ない。

さらに言えば、現実のコップは「コップ」であってそれ以上でも以下でもない。そこには確固とした物体が存在しておりビジュアルを認識することが出来ている。現実のコップに描写のコップが敵うことは出来ないことは言うまでもない事実だ。「そのコップを何でもいいからどういうコップか説明しろ」と言われたら僕は写真をすぐさま相手に見せるだろう。あるいはそのコップが無くても類似したコップの画像を探して相手に示す。現実に描写が敵う訳もない。

しかし、この引用で言いたいことはその描写された物が唯一現実に敵う部分があるということだ。つまりは「文学」にしか出来ない提示の仕方がある。それは現実の物をその人の眼で見て、現実を崩壊させてより現実らしさを表現するということだ。ややこしいので少しばかし説明しよう。

僕等は当たり前のようにそこにある物を見て「これは何ですか?」と聞かれた時に「コップです」と答えることが出来る。しかし、それは「コップ」ではあるもののその人によってはもしかしたらそれは「コップ」ではないかもしれない。あるいは同じ「コップ」と認識していてもそこに書かれている柄や周囲の風景や置かれている状況が異なる訳だから皆が皆一概に同じ「コップ」を眺めている訳ではない。つまり、概念としての「コップ」は共通しているが、そこにある「コップ」は共通しておらずこれこそ千差万別なのだ。

「文学」はそれを仔細に描写することによって、概念のもの、概念のコップを崩壊させることで現実のもの、現実のコップを目の前に提示する。そしてそれを読む我々は「他人の目で、ものを見る"ようにさせてくれる」のである。それが「文学」の持つ力だとリカルドゥーはいう訳だ。これは結局のところ究極のリアリズムの話に近づく訳だが、これについては以前に中平卓馬の記録で書いているので説明は差し控えておくことにしよう。



それで話は周り回って、小説の話に戻って来る訳なのだが、今の小説にこれらの力があるのかどうかというのを考えた時に僕は感じなかったということだ。昨今の小説はいかにもといった説明的な文章が多く、それを読めば分かってしまうという感じだ。何だろうな…。1本の細いロープの上をグラグラ不安定に歩き続けることが小説を読むことだとしたら、現代はありとあらゆる補助が張り巡らされている。

何も僕は説明的な文章が悪いということを言いたい訳ではない。それがなければ話の構造として成り立たないということも十分に考えられるからだ。小説は特に。詩とかはこの説明的な文章を一切排除して、概念を破壊していく作業に一点集中しているというような感じだ。小説はもっと僕らの実生活に近いものであるからこそそういった説明的文章も時には必要だ。

僕は個人的に描写を捨てた小説は小説でないと思っている。

古いタイプの人間なのかもしれないが僕にはそれが小説の醍醐味だと思っている。昨今の小説に僕はバシっと、ドカッと喰らうような描写がないような気がしてならない。そういうものよりも内容としての突拍子のなさが実際には受けるのだろう。受動的に読んで楽しめればそれで十分とでもいったような形で存在しているような気がしてならない。

別に今の小説がだからと言って悪いと思っている訳では決してない。それで小説というものとして成り立っているのだからそれはそれで結構だと思う。ただ、僕の中で疑問に感じているということに過ぎない。今の小説というものが幅を利かせて「私「文学」やってますから」みたいな顔をされるのがちょっと「??」と感じるぐらいの程度だ。

以前まで僕は小説家になりたいなと思っていた。しかし、本当に最近「僕には無理だな」と感じるようになった。それは単純に僕には技術がないということもあるのだが、僕にはリカルドゥーのように「判読」する技術もない。要は書くには未熟すぎるということだ。現に僕は読んだ本に刺激を受けながらあっちいったりこっちいったりと思考が乱反射の如く飛んで行っている。それを1個1個丁寧に追えるほどの気力はない。

それでも詩は書き続けたいと思い、実はちょこちょこ書き溜めている。詩単位であればその乱反射に対応できるのではないかというところもあったりする。だが、「書きたい」という感情以外に書くことに理由など必要なのだろうか。

「書くことは熱狂だ」

そう、それ以外に必要はないのだ。

何の話を書いていたかよく分からなくなってしまった。それもそれでまた一興。よしなに。

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