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雑感記録(136)

【Nightfever-夜の熱狂-】


『沈黙』

沈黙が名づけ
しかし心がすべてを迎えてなおも満たぬ時
私は知られぬことを畏れ—
ふとおびえた

失われた声の後ろにどんな言葉があるだろう
かなしみの先にどんな心が
生きることと死ぬことの間にどんな健康が
私は神—と呟きかけてそれをやめた

常に私が喋らねばならぬ
私について世界について
無智なるものと知りながら

もはや声もなくもはや言葉なく
呟きも歌もしわぶきもなく しかし
私が—すべてを喋らねばならぬ

谷川俊太郎「沈黙」『空の青さをみつめていると』
(角川文庫 1985年)P.50,51

これまで様々なことを書き連ねてきた。文章を書くということが如何に難しいか身に染みて感じる。何を書こうかとある程度考えてから書くようにしているのだが、時たま自身の激情に任せて書いてしまうことがある。自分自身でもよくないなと反省するのだが、しかし「まあ、これもこれでありだな」と思っている自分自身も存在する。

何で書いているのかということを考えてみる。ただ自身が単純に「書きたい」という欲望があるのは勿論だが、その根本にあるものは果たして何だろうか。僕はこのnoteを「自身の思考の整理の場」として体裁のいいことをプロフィール欄に書いている訳だが、果たしてそれだけなのだろうか。

僕は正直「いいね」されることはどうでもいいと考えているが、実際自分が書いた文章に「いいね」が付くと嬉しくなってしまう。どうでもいいとは思いつつも、心のどこかで「ああ、多くの人に見られているんだ」「一定の評価をそれなりに得られているんだ」というように感じてしまう。僕の何かが満たされる感覚になる。自己肯定感?いや……うん、そうなのだろうと思う。

ただ1つ勘違いしてはならないのは、僕自身は「いいね」欲しさに文章を書いている訳では決してないということだ。これは大切なことだ。僕はただ好きなものを純粋に「好き」という感情で書いている。加えて、僕の思考を自分自身で辿る愉しさというものもある。畢竟するに僕が文章を書くのは、僕が書く文章を僕が好きなだけである。


SNSだと自分の存在を発信することが主眼に置かれてしまう。現にこのnoteという媒体もそうである。僕は先程から綺麗ごとを並べているが、実際この場でこうして書いてしまうこと自体がそもそも「いいね」欲しさに書いていることの証左かもしれない。

「何を書くか」ということも難しいが、「どこで書くか」ということも僕にとっては悩ましいことでもある。ただ、それでも書きたいという衝動は抑えることが出来ない。心に溜まった何か、それがどういう感情なのかは分からない。怒り?愉しさ?哀しさ?色々とあるのだろうけれども、それを開放する場が僕は欲しかった。

しかし、「いいね」が別にいらないのであればぶっちゃけ日記付ければいいだけの話だ。それをわざわざこのようなSNSの媒体に書くのは何故だろうか。パーソナルの部分を全面的に押し出して、下手したら自分のプライベートが曝け出されてしまう。現に僕がこれまで書いてきた記録では前面的に僕のプライベートがガンガン書かれている。

つまり、僕は自己承認欲求が強いのかもしれない。…いや、"かもしれない"ではなくそうなのだ。「誰かにこの気持ちが分かってほしい」「こういう人間も居るんだぞ」ということを伝えたいという気持ちがどうしても抑えきれないのだ。だからこうしてSNSという媒体を通してしか「書く」という行為が出来ないでいる。僕には「1人で書く勇気」がない。

それでも僕は「書く」ということを求める。今まで散々「言葉で表現することが全てではない」と書いているが、それでも言語化したいという欲望が僕を襲ってくる。でも不思議だなと思う。本来的にはこういうように「書く」ことはしなくていいはずだ。プライベートの貴重な時間を使って、早く休めば良いものをこうして書き続けている。何でだろう。


行き先もなく出口もなく答えもなく
ただ張られたロープの上で
誰かに出会い別れ泣き笑い
今ただ君に会いたいって思ったよ
行き先もなく出口も答えも理由もなく
張られたロープの上で
僕らは出会い別れ泣き笑い
今ただ君に会いたいって思ったよ

10年前もそんなこと言っていた気がする
20年前もそんなこと言っていた気がする
それなりに何か手に入れたつもりだったけど
それだってただの勘違いかもしれない
CPUは誰も愛さない
確率は今を知らない
時間は待ってはくれない
他人は変わってはくれない
センターラインはどこにある
そしてそのどちら側をどう歩く

行き先もなく出口もなく答えもなく
ただ張られたロープの上で
誰かに出会い別れ泣き笑い
今ただ君に会いたいって思ったよ
行き先もなく出口も答えも理由もなく
張られたロープの上で
僕らは出会い別れ泣き笑い
今ただ君に会いたいって思ったよ

Nightfeverが覚める頃街は朝の中
Nightfeverが覚める頃君は夢の中

アナログフィッシュ「Nightfever」
(2014年)

そう。「書くこと」は僕にとって熱狂だ。「行き先もなく出口も答えも理由もなく」ただ僕は書きたい。僕はああだこうだと先に散々書いてきたが、端的に言うならば「書くこと」は僕にとっての熱狂だ。書いている最中は「書くこと」に熱中できる。1つの言葉を書き始めると、それに誘発されて言葉が僕の頭を渦巻いて手が勝手に動く。

しかし、熱狂から覚めると「夢の中」ではなく現実にいる。本当ならばまだその熱狂に留まり、「夢の中」に居たい。ということを10年後も20年後も言っているような気がしてならない。僕は「センターライン」のどちら側を歩くことになるのだろうか。

僕はこれからも書き続けるだろう。こういった悶々とした気持ちと闘いながら書き続けるはずだ。どうすることもできないこの「書く」という欲望に僕は打ち勝つ術を知らない。というよりも、打ち勝つ必要も無いのだろうが。

とにかく「書く」という行為にはあらゆる背後関係が絡んでくる。僕が「書く」ことで感じたこと、感じていること以上にあらゆるものが錯綜していることは間違いない。先程から色々あーだこーだ書いている訳だが、最終的に僕にとって「書く」ことは熱狂だ。それ以上でも以下でもない。


今、まさに僕はNightfeverの中に居る。

よしなに。



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