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「万物の黎明」第2章を読んでいたらティール組織が想起される箇所がありました。


はじめに

先月から読み始めている大著「万物の黎明」ですが、少しず〜つ読み進めています。

今読んでいる「第2章 よこしまなる自由」で興味深い箇所があったので今回はそちらから引用しながら書いていきます。

以降の引用はすべて2章からとなります。

17世紀頃のアメリカ先住民によるフランス社会への批判が興味深い

ここでは、当時アメリカを訪問した宣教師や入植者の残した書物などから現地の先住民による批判が紹介されていました。それはこのようなものでした。

・フランス人がおたがいに寛大ではない
貧しい乞食がたくさんいる状態を、悪辣きわまりないわれわれの慈愛の欠如とみなした

→上記の「われわれ」とは、フランス人のことを指しています。

・フランス人が集まっているところをみると、会話のなかでいつもすれちがったり割り込みあったりしているし、議論は弱々しい

・フランス人は、つねに目上の人間を恐怖しているという点で奴隷と変わるところがない。

・わたしたちの都会にみられる欠点や障害を、お金が原因であるといって、いつもからかっていた。

・人びとに悪しきおこないを唆している仕組みーすなわち、お金、財産権、そしてその結果としての物質的自己利益の追求からなる仕組みーのすべてを放棄するならば、フランスとて、人に善きおこないを強制せんとする仕組みもすべて不要になる、

・毎朝二時間かけてシャツを着ては身だしなみを整え、たまたま遺産つきで生まれ育った不愉快な阿呆どもに道ででくわせばぺこぺこと頭を下げる。

お金で膨らんだ財布をもっていても、ただちに飢えている人にあげようともしない。

ならずものどもが貧しき者をかき集め海軍の下働きに放り込む、そこに居合わせ、なおかつ剣を携えていても、ただちに剣を抜かない。

また、先住民は『彼らの社会では富を他人に対する権力に変えるはっきりした方法がなかったため、富の格差は個人の自由にほとんど影響しなかった一方で、フランスでは財産をわがものにする権力を、他の人間に対する権力に直接に転換させることができる』といった違いがあると洞察していたそうです。

ちなみに、当時の宣教師はイエズス会によるものであるため、イエズス会の人間、ほぼ男性たちを通して見えた社会に対する批判と言った方が適切かもしれません。ただ、実際にフランスを訪問した人の記述も含まれているとのことなので、フランスのどの部分を捉えてこのように評価したのかはもっと丁寧に見ないとなと個人的には思いました。

当時のフランスの状況についての記述

該当箇所を引用します。

・ルイ十五世の絶対王政のもと

対等な人間関係をそれなりに経験したことのある人間すらいなかった

・食べること、飲むこと、働くこと、社交することなど、人間関係のほとんどすべての局面に、手の込んだ序列と社会的敬意を表現する儀礼があふれていた

・当時のだれもが、この状況にはどこか不自然なところがあって、むかしからそうだったわけではないと考えてもいた

先住民たちについての記述

ここでは、当時先住民と交流していたフランス人が残した記録を紹介します。

かれらは、生まれながらの権利として、野生の驢馬の仔のように自由を享受すべきだと考えており、好きなとき以外はだれにも敬意を払わない。

じぶんたちのリーダーを笑いのめしたりからかったりしている。

かれらの首長の権威のすべては、その舌先にある。首長は雄弁であるかぎりにおいて強力であり、たとえ首長が死ぬほど語ったり説教したりしても、未開人どもを喜ばすことがないかぎり、だれも従いはしないのである。

未開人たちは、どんなに軽い罰則であっても、みずからになにごとかを厳格に禁じるものを知らなかった。かれらは自由な人びとであり、各人がほかのだれもと同等の重要性をもっていると考えており、首長がかれらをよろこばせてくれるかぎりかれに服従する。

知性にかけて、かれらがヨーロッパ人や住民たちにひけをとることはない。

当意即妙で生き生きとした感嘆すべき弁舌や、公共の場での明晰な洞察力、あるいはみずから慣れ親しんできたものごとに示す慎重な管理方法など、教育なしに自然が授けたとはわたしにはおもえない。

自国で慣れ親しんできた人びとよりも、むしろ概して賢いようにみえる。

先住民たちの自己評価

じぶんたちはフランス人よりも「豊か」である、物質的にはより多くを所持していることは認めたが、それ以外の資産(安楽、快適、時間)をより多く持っている。

思ったこと

私にとってこの箇所が印象的だったのは、先住民によるフランス社会に対する批判をみていくと、一部を除いた多くが、ティール組織を含む参加型的な新しい組織論に共鳴する人々がトップダウンが強いヒエラルキー組織に対して投げかける疑問・批評にそのまま主語と対象だけ置き換えても分からないくらい似ているかも?と思ったからです。

さすがにそれは言い過ぎかもですが、問題を生み出している根っこは当時から先住アメリカ人にはなく、フランスにはあった「財産をわがものにする権力を、他の人間に対する権力に直接に転換させることができる」方法で、これが現代に続いている、ということなのかなぁ。

あれ?これってティール組織に似ている!?

文章の中で、「個人の自由」についての認識が当時のフランス人と先住アメリカ人で大きく違っていることについて書かれている箇所がありました。

先住アメリカ人の認識

先住アメリカ人のほとんどが、個人の自律性と行動の自由を至上の価値として捉えていた。他者の意志に服従する可能性を最小化するよう生活を組織していた。

(先住アメリカ人にとって)個人の自由とコミュニズム(※1)のあいだにはなんの矛盾もなかった

※1ここでのコミュニズムとは、敵として交戦中ではない人びとがたがいのニーズに応じるであろうことを想定できる、そのような共有に関わる前提。個人の自由は、あるレベルの「基盤的コミュニズム」を前提としていた。

※2 コミュニズムについて理解を深めるために他の箇所での記述
「共同所有、とくに生産資源の共同所有を意味していた」
「所有の制度としての意味ではなく、各人は能力に応じて[働き]、各人は必要に応じて[受け取る]という本来の意味」
「基盤的コミュニズム:他人のニーズが十分に大きく(たとえば、溺れそうになっているとか)、そのニーズを満たすためのコストがさして大きなものではない(たとえば、ロープを投げてほしいと頼まれたとか)、そのようなばあい、常識ある人間ならば、[その要請に]従うはずだ、という感覚
「ここでいうコミュニズムとは、個人の自由と対立するものではなく、むしろ個人の自由を支えるもの

フランス人の認識

フランスにおける個人の自由の観念は、私的所有の観念と不可避にむすびついていたそうです。(法的には古代ローマの男性家長の権力にまで遡れるそう)

また、真の自由とは、根本的な意味での自律、すなわち、意志の自律のみならず、他の人間(自身の直接の支配下にあるものをのぞく)になんら依存しないことを意味していたとのこと。

思ったこと

上記の対比を読み、浮かんだのはティール組織です。

先のフランス社会への批判のパートで紹介した先住アメリカ人の特徴と今回の内容を合わせると、ティール組織の特徴として紹介されている3つのうちの「自主経営(セルフマネジメント)」と「全体性(ホールネス)」に似た要素があると思えました。

あえてティール組織のレンズに当てはめてみるならば残るは、「存在目的(エボリューショナリーパーパス)」ですが、こちらに関係しそうな記述はこの章では見つけられていません。

関係しそうな首長の役目は、住民を喜ばすことという記述がありますが、それが具体的にはどういうことなのか、他に役目はあるのか?といったことはこの先に書いてあるのかな?ぜひ知りたいと思いました。

さいごに

今回の記事のような切り取り方は、この章で著者が伝えたいこととは異なるため、「すみません」という気持ちがありますが、なに分大著なもので、どうにかしてアウトプットしながらやらないと挫折してしまいそうになるためお許しください(誰に言ってます?w)

ちなみにこの章では、ルソーやテュルゴーによって提唱された社会の段階説によって当時、聡明で成熟していると受け止められた先住アメリカ人たちが「未開の野蛮人」といった地位に貶められてしまったと書かれており、他の章と合わせて、先住アメリカ人はじめ世界中の同様の立場に追いやられている人々へ適切に光を当てていくことを、意図の1つとしているようです。

そういったテーマをよく知らずに強く紹介していただいたので読み始めましたが、このあたりの「在ったのに無かったことになっていること」に光を当てて、「ちゃんと在ることにする」のは私としても大事にしているテーマなので、その面での重なりも出てきて、どんどん面白くなってきました。

また、他にも重要なテーマについてたくさん書かれているのですがまだまだ理解が及ばずアウトプットできていません・・・

引き続き、読み進めていく中で頑張ってアウトプットしたいと思います。

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