「万物の黎明」第2章を読んでいたらティール組織が想起される箇所がありました。
はじめに
先月から読み始めている大著「万物の黎明」ですが、少しず〜つ読み進めています。
今読んでいる「第2章 よこしまなる自由」で興味深い箇所があったので今回はそちらから引用しながら書いていきます。
以降の引用はすべて2章からとなります。
17世紀頃のアメリカ先住民によるフランス社会への批判が興味深い
ここでは、当時アメリカを訪問した宣教師や入植者の残した書物などから現地の先住民による批判が紹介されていました。それはこのようなものでした。
→上記の「われわれ」とは、フランス人のことを指しています。
また、先住民は『彼らの社会では富を他人に対する権力に変えるはっきりした方法がなかったため、富の格差は個人の自由にほとんど影響しなかった一方で、フランスでは財産をわがものにする権力を、他の人間に対する権力に直接に転換させることができる』といった違いがあると洞察していたそうです。
当時のフランスの状況についての記述
該当箇所を引用します。
先住民たちについての記述
ここでは、当時先住民と交流していたフランス人が残した記録を紹介します。
先住民たちの自己評価
思ったこと
私にとってこの箇所が印象的だったのは、先住民によるフランス社会に対する批判をみていくと、一部を除いた多くが、ティール組織を含む参加型的な新しい組織論に共鳴する人々がトップダウンが強いヒエラルキー組織に対して投げかける疑問・批評にそのまま主語と対象だけ置き換えても分からないくらい似ているかも?と思ったからです。
さすがにそれは言い過ぎかもですが、問題を生み出している根っこは当時から先住アメリカ人にはなく、フランスにはあった「財産をわがものにする権力を、他の人間に対する権力に直接に転換させることができる」方法で、これが現代に続いている、ということなのかなぁ。
あれ?これってティール組織に似ている!?
文章の中で、「個人の自由」についての認識が当時のフランス人と先住アメリカ人で大きく違っていることについて書かれている箇所がありました。
先住アメリカ人の認識
フランス人の認識
フランスにおける個人の自由の観念は、私的所有の観念と不可避にむすびついていたそうです。(法的には古代ローマの男性家長の権力にまで遡れるそう)
また、真の自由とは、根本的な意味での自律、すなわち、意志の自律のみならず、他の人間(自身の直接の支配下にあるものをのぞく)になんら依存しないことを意味していたとのこと。
思ったこと
上記の対比を読み、浮かんだのはティール組織です。
先のフランス社会への批判のパートで紹介した先住アメリカ人の特徴と今回の内容を合わせると、ティール組織の特徴として紹介されている3つのうちの「自主経営(セルフマネジメント)」と「全体性(ホールネス)」に似た要素があると思えました。
あえてティール組織のレンズに当てはめてみるならば残るは、「存在目的(エボリューショナリーパーパス)」ですが、こちらに関係しそうな記述はこの章では見つけられていません。
関係しそうな首長の役目は、住民を喜ばすことという記述がありますが、それが具体的にはどういうことなのか、他に役目はあるのか?といったことはこの先に書いてあるのかな?ぜひ知りたいと思いました。
さいごに
今回の記事のような切り取り方は、この章で著者が伝えたいこととは異なるため、「すみません」という気持ちがありますが、なに分大著なもので、どうにかしてアウトプットしながらやらないと挫折してしまいそうになるためお許しください(誰に言ってます?w)
ちなみにこの章では、ルソーやテュルゴーによって提唱された社会の段階説によって当時、聡明で成熟していると受け止められた先住アメリカ人たちが「未開の野蛮人」といった地位に貶められてしまったと書かれており、他の章と合わせて、先住アメリカ人はじめ世界中の同様の立場に追いやられている人々へ適切に光を当てていくことを、意図の1つとしているようです。
そういったテーマをよく知らずに強く紹介していただいたので読み始めましたが、このあたりの「在ったのに無かったことになっていること」に光を当てて、「ちゃんと在ることにする」のは私としても大事にしているテーマなので、その面での重なりも出てきて、どんどん面白くなってきました。
また、他にも重要なテーマについてたくさん書かれているのですがまだまだ理解が及ばずアウトプットできていません・・・
引き続き、読み進めていく中で頑張ってアウトプットしたいと思います。
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