アラン・チューリング氏と「白夜の調べ」に 改名した友人を想う
人工知能学を多少なりともかじった人間ならば、また、「イミテーション・ゲーム」という映画をご覧になった方であれば、アラン・チューリング氏の名前は耳にされたことがあるかと思われる。
アラン・チューリング氏は、現代計算機科学の父として有名であるが、第二次世界大戦中にドイツが使用したローター式暗号機であるエニグマを解読した英国の数学者としても有名である。
同氏は、天才数学者と称賛されながらも、当時の常識という大義名分により、自らのアイデンティティを曲げることを余儀なくされた。この点に関しては、大抵の参考資料においては説明されているためここでは敢えて触れないが、悲劇的な結末であった。
アラン・チューリング氏とは事情は異なるが、やはりアイデンティティを隠さなくてはいけなかった青年を知っている。
その青年は学生時代はピアニストを目指しており、数々のコンクールで賞を獲得していた。
彼が、ピアニストになるという人生航路からプログラマーへ転向した理由はわからぬが、天才プログラマーとして頭角を現すまでの年月も短かった。
私の近くに座っていた彼は、オフィスの机をピアノ代わりにし、左手で艶やかにショパンを奏でながら、右手でコード内のエラーを探していた。
青年は自身をカール(Carl)と紹介した。スウェーデン語では一般的にはカールは(Karl)と記される。
「KじゃなくてCのカールなんだ、珍しいね」、
と私が指摘すると、彼は、名前に関しては後日説明する、と答えた。
彼のスウェーデン語はほぼ完璧であったため、彼が外国人であると聞き分けられた人はほぼ皆無であった。彼は色白の瀟洒な顔立ちを持ち、長身であった。
ある程度親しくなってから、彼は本名を告げてくれた。彼の本名は、実はCarlでもKarlでもなく、非常にロシア的なものであった。
しかし、その名前はそれほど発音し難いものでもなかったため、私は、彼が何故改名をしたのかと訊いた。
「この国では、仕事が見つけられなかったんだよ、本名では」
仕事を見つけるために改名をせざるを得なかった天才プログラマー、スウェーデン語に改名する際に、CarlのCをKにしなかったのはささやかな抵抗であったのかもしれない。
例え名前がクリシュナでもムハンマドでもシリーンでも、就活に関しては、ひと昔ほどは影響を及ぼさない今の時勢において、「改名をせざるを得なかった」、という政治的背景は深刻である。
「栗原小巻さんって知ってる?彼女の出演した映画があるんだ」
ある日、彼がそう言ってその映画のリンクを送って来た。
栗原小巻さん、私は、彼女の出演される映画を鑑賞したことはあまり無いが、大女優であることは理解している。
その女優の名前が、20歳台後半のロシア人青年の口から発せられたことが新鮮であった。ペレストロイカにさえ馴染みのない世代に属する青年である。
この映画の邦名は「白夜の調べ」というものらしい。ロシア人青年作曲家と日本人ピアニストの切ない恋愛物語であった。(添付動画は映画の完全版)
この動画を鑑賞したあと、この若い青年はどのようなつもりで、私に恋愛映画を送って来たのであろうか、と判断に迷った。
戦争が勃発したその日、私は彼に携帯メッセージを送った。
「とうとう始まってしまったね。元気?」
「元気だけど、心配だよ。早く終わって欲しい」
「一番心配なのはどんなこと?」
私からの二番目の質問には返答が無かった。
私が知りたかったことは何であろうか。
彼は具体的に何が心配であったのか、故郷に残した両親のことが心配なのか、自分たちの将来か、あるいはこの国で何かしらの迫害を受けることか。
返答を得たところで、私に何が出来るわけでもない。
そのため、所詮は好奇心の域を超えない不毛な問いであると解釈されたのかもしれない。
パンデミック勃発の直後には、ある地方都市で中国人の学生が往来の若者から暴力を受けた。私自身も、交換したばかりの自転車のタイヤがパンクしていた時は、アジア人を警戒し始めた人々からの嫌がらせ行為を疑った。
彼が会社を去っても、私達は何度か昼食を一緒にして、近況報告等をし合っていた。
私達が最後に会ったのは、一時パンデミックが治まったかのように感じられたある夏の午後。私達は、運河を臨むベンチに座り、テイクアウトをしたラーメンを啜っていた。
同僚という関係が無効になった時、彼は一人の友人になった。再会した時は、彼とはつねに挨拶の抱擁を交わしていた。
抱擁を伴う挨拶に関しては、スウェーデンは南欧ほど普遍的ではない。初対面でも頬を寄せ合って接吻をする、というような習慣は、この国においてはほぼ皆無である。
ごく自然に挨拶の抱擁を行う彼の長い腕を背中に感じる時、彼もまた欧州の人間であることを再認識する。同時に欧州人同士が争い、憎み合い、差別し合う不条理を嘆かざるを得ない。
仮に彼が、まだ故郷に残っていたとしたら、ピアノとPCのキーボードを弾く彼の手に、代わりに握られていたのは、果して武器であろうか。あるいは、チューリング氏のように、その明晰な頭脳を評価され、頭脳を活かせる役割を課せられていたのか。
「パンデミックが終わるのを待ってても埒があかないし、そろそろまた一緒に食事をしようか」
と、青年が提案して来た。
私は同意し、日付を定めるように促した。
不毛な好奇心であるとは認識していても、私も会って彼の近況を知りたかった。
彼は職場で差別されていないであろうか、彼の妻は定職にありつけたのであろうか、彼の子供は学校でイジメに遭ってはいないであろうか、彼の両親は本国でどのように暮らしているのか…。
そして、
彼自身は、出身国が実行している一連の出来事に関して、どのような立ち位置を採ろうとしているのであろうか。
その返答に依っては、二人で会って食事をするのは今回で最後になるかもしれない。
アラン・チューリング氏同様、天才と讃えられていた青年。ペレストロイカでさえ知らなかった、政治には皆目関心を示さない青年。
おそらく今回の一連の有事に関しても、私を失望させる返答をするとは想像し難い。少なくともそう信じていたい。
文化的人間からはほど遠い私ではあるが、彼の出身国からバレエ団が来瑞した際には必ず観劇していた。
華麗かつダイナミックなテクニックを駆使して、観客を魅了するロシアバレエ。私の崇拝するバレエ演目「くるみ割り人形」はロシア名では「ショークンチック」と言うんだよ、と彼から教わった。
(注 コサックダンスはウクライナの民族舞踊)
そして、「白夜の調べ」は、70年代のレニングラード、と京都を舞台とし、この映画の背景に流れる調べの如く、どこまでも美しくせつない。
このような文化を生んだ国。これが、私がいつまでも留めて置きたいこの国の記憶である。
青年が食事をする日付の提案をして来た。
「僕は2月14日が都合が良いのだけど、出来る?」
「いいよ」、と確認をして数時間経った後に気が付いた。
この日は、バレンタインズデーであった。
このことに彼は気が付いていたのであろうか。
彼と彼の妻はお互いぞっこんである。最適な日とは思えない。
あるいは、バレンタインデーというイベントは、彼らにとっては何の意味もなさないものなのかもしれない。
私もチョコレートを持ってゆくつもりもない。
ただ一つだけ、彼に教えてあげたいことがあった。
彼の紹介してくれた映画は邦名で、「ビャクヤノシラベ」と呼ばれることを。
ご訪問有難う御座いました。
短期間に投稿が続いてしまいましたが、明日のバレンタインデーの流れに依っては、この投稿を上げる意欲を失くす可能性もありますので、本日中に投稿させて頂くことに致しました。この後はいつものペースに戻ります。
皆様におかれましてはどうぞ平和な一日を送ることが出来ますように。
写真はサムネイル(piano-Pexels)を含め、三枚Pixabayからお借りしました。