感情と社会 31

遊戯と暴力性——ホモ・ルーデンス

「23 スポーツの感情」ですでに、文化を遊戯という視点から考察したホイジンガに触れました。名著の呼び声は今でも高いのですが、その指摘の重要性が必ずしも十分には理解されていない、ヨハン・ホイジンガのこの『ホモ・ルーデンス』を、感情という観点から、しっかりと考えてみたいと思います。
スポーツの節ですでに、ホイジンガが「勝つ」という動機と、その達成から得られる充足感という情動を指摘していたことには触れました。彼もまた、文化、あるいはより大きなイメージの括りでは、社会形成のためにある時期から欠くことができないものになった「文明」に、情動が深く関わっていることを感じ取っていました。

ホイジンガは、文化現象は遊戯という活動から抽出できる定義で説明できるとして、競技、スポーツ、法律、戦争、知識、詩、哲学、芸術などの文化現象を、この定義に沿って解き明かしました。その考察は、教育、政治などを通して、文明全体への射程も持ち合わせています。
ホイジンガは、遊戯の定義をじつに簡潔に、こう述べています。
「遊戯とはあるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為、もしくは活動である。それは自発的に受け入れられた規則に従っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的拘束力を持っている。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは、緊張と喜びの感情を伴い、またこれは<日常生活>とは<別のものだ>という意識に裏づけられている。」(中央公論社版 p.58)

この定義に従えば、遊戯は自足的な自己再生産システムです。その自律性は、システムを動かしている間だけ保証されています。このシステムの目的は、システム外には、つまり超越的な存在による確約( harmonie préétablie)としても、<投企 Entwurf / projet> としても、存在しておらず、目的はひたすらシステムの作動それ自体でしかありません。
これはハイデガー流の(じつに危険な)未来への可能性を目指すいう政治的な自我とはまったく無縁な文明観です。むしろこのイメージは、マトゥラーナとヴァレーラが提唱した生物の基本的な生存様態である、自己再生産 autopoiesis と重なるものです。生物の生存という現象は、ぼくたちの科学が現在精一杯推測できるかぎり、自己のあるいは種の生存以外の目的に<導かれた>ものであるとは、とても考えにくい。ですから、遊戯は、そのシステムの外部に何の参照も保証も持つことのない、自己言及的な自己再生産システムだということになります。(のちにルーマンは自己準拠的な開放システムとして、ホイジンガが考察していた社会を極めて精緻に定義していくことになります。)
このイメージは、以前ご紹介した、ジョドゥレとモスコヴィシによる社会の考え方とぴったり重なり合います。社会というのは、ぼくたちの心の中でのその表象、つまりはイメージにすぎず、それは心理的な出来事の、外部への投影にすぎない、という捉え方です。

この自己再生産システムを支えている動機(欲求)が何であるかについては、ずっと、支配機構に関わる少数の人々の強迫が、civilité として被支配層に共有される感情(道徳)になっていくという文脈でお話ししてきましたが、ホイジンガによる指摘をここに加えると、共有される感情の中でも重大な影響力があると思われる、暴力性という感情がはっきりと姿を現してきます。遊戯の定義でホイジンガが明記しているのは、暴力行使につきものの「緊張と喜びの感情」なのです。
緊張と、それの緩和、あるいはそれに動かされた行動の結果としての喜び、ある種の快感、充足は、まさに競技やスポーツという社会行動の核心をなす感情です。それが競技やスポーツにとどまらず、あらゆる社会的な行為の基本的な動機づけになっているという視点は、非常に重要です。簡略に言えば、ぼくたちの社会的な行為(=遊戯)を動機づけているのは感情であり、それはとりわけ「緊張」と「快の充足」、つまりは暴力行使に典型的に現れる情動であるということになります。

残念ながら、この簡略なまとめは、じつに妥当なものに思えます。
緊張がある種の美徳、あるいは当然の情動である社会的場面は、枚挙にいとまがありません。スポーツにおける厳粛な儀式、競技中の真剣さ、高い難易度の体技に伴う激しい緊迫、選手に要求される奇妙な道徳的人格性、学校教育に見受けられる形式重視や執り行われる儀式の数々、法律の厳粛さ、知識の崇拝、芸術への畏敬、超越的存在に対する帰依や崇拝、就業機関での規律遵守、身分間での行動規制、政治につきものの儀式や格式、それぞれの儀式に要求されるドレスコード、マナー、言葉の選択、どれをとっても、緊張、「身が引き締まる思い」が大きな情動的要素になっています。この緊張はそれ自体が心地よいものではないのかもしれませんが、ごく普通の遊戯ではっきりとしているように、この緊張感は、どこかで、達成感、あるいは緊張の緩和による安心感などの「喜び」とセットになるように仕組まれているようです。ですから、ぼくたちは遊戯と同様に、社会的行動の自己言及的なルールに従うことに、激しい嫌悪感を抱かないようになってきているのでしょう。(あくまでもこれは歴史的な考察であって、間違っても、生物に固有の生得的な、あるいは先天的な特質とか、進化生物学的に獲得されてきた器質などを提唱するものではありません。)
ところで、「喜び」はもうそれ自体で「ポジティブな」感情なのだ、という浅はかな見方が横行していますが、それは勘違いです。自己疎外された人格は、不安と恐怖から逃れるためのストレス解消を渇望します。そのために、ゲームやスポーツや音楽鑑賞や動画鑑賞といった<気晴らし>や、場合によっては他者への攻撃などで、刹那的な「喜び」を感じて不安や恐怖から逃れようとするのは、残念ながら、ぼくたちの社会ではごくありふれた行為になっています。「喜び」は、決してそれを感じる個人の心理的な充足、充実感、幸福感と等価ではありませんし、ましてそれが他者に対して心理的充足感をもたらすかどうかというと、それとはまったく関係がありません。「喜び」を感じること自体は、「ポジティブ」、促進的でも「ネガティブ」、阻害的でもないのです。(そもそも情動に、こうした奇妙な価値づけ—価値づけ自体がすでに感情の働きなのですが—をすることに、なんの意味もないことに、気がつく必要があります。)ですから、「喜び」という感情があることから、遊戯はポジティブな、つまり、なんでしょう、「人間性 humanity」にとって促進的な行為だ、などとは言えるはずがありません。ホイジンガもそのような主張はまったく行なっていません。

緊張とその帰結、あるいは解消がもたらす喜び。通常の遊戯も含めて、遊戯として捉えられる社会的な行動場面で絶対的な拘束力を持っているのは、ひたすら、その行動のルールだけです。そのルールに自発的に同意している場面では、遊戯の参加者はそのルールが要求する役割に<成り>ます。鬼ごっこでは、鬼は鬼であり、鬼ではない人たちはそうではない。鬼が、あるいは鬼以外が固有名を持った誰々である、ということは、鬼ごっこを滞りなく行うためにはほとんど関係がありません。また、鬼ごっこなら、「<日常生活>とは<別のものだ>という意識」がある遊戯なので、夕闇が迫る帰宅時間になれば、あるいは下校の合図が鳴れば、この行動を止めることができ、日常生活の意識へと切り替えることができます。

ところが、文化全般が遊戯であるとすると、ぼくたちはいつ、どうやって、その遊戯の意識を、別の意識に、今はもう遊戯ではないという意識に切り替えることができるチャンスがあるのでしょうか。
ホイジンガに従って、ほぼすべての社会的な制度、文化などが遊戯と同様だとすると、鬼ごっこと同様、ある個人が固有名と個人の生活誌を持った人であるということは、ほとんど意味をなしていないことになります。そして、まさにその通りです。生存、あるいは生活の維持とは直接関係のない、ぼくたちがまさに遊戯と呼ぶような遊戯の場では、この、個体ではなくルール上の役割が肝心であること、つまり自己が疎外されていることが、重大な心理的問題、暴力的な自我の排除につながる感覚を生み出すようなことはほとんどありませんが、それがいわゆる遊びではなく、明らかに生存や生活の維持に関わる場面では、自己疎外は暴力として強烈に感じ取れます。役割意識が強烈な家庭運営、組織運営を重視する学校や企業、一定の労働者集団の現場、行政の運営、そして政治に至るまで、運営の核心を成しているのは、まさにそれが運営されるということであって、運営を保証しているのはそこでしか通用しないルールを、そこに所属していると思い込んでいる人々が、自発的に引き受けているということだけです。こうした場面では常に、個人ではないなにものか(まさにそれが、社会という捏造された共有イメージです)が、優先されます。自己疎外が常態化しています。
ホイジンガの着眼点がかなり妥当だとすると、自己疎外と、それに起因する暴力性という感情が、社会の常態だという様相が見えてきます。とても残念なことに、それはぼくたちが2022年に、メディアで目撃せざるを得なくなった、ヨーロッパにおける戦闘を見ると、否定することができそうにありません。

補遺:2022.3.5.「戦争犯罪」という奇怪な概念

ウクライナで起きていることは、それ自体がむき出しの暴力行使です。戦争の大義云々などではなく、ぼくたちがよく知っている支配装置(政治 politics / governing)が、集団規模での暴力行使を自明の権利としていることがあからさまになっています。
さらに政治という仕組みを支えている心性が馬鹿げている、あるいは少なくとも子供じみていることが露呈しています。
直接この暴力を指示している人々や、暴力行動をしている人々だけでなく、空調が行き届いた室内、コーヒーサーバーで喉を潤すことがいつでもできる場所で、「戦争犯罪」を訴える人々や、「人道的ではない」武器の使用などを告発する人々にも、それは隠しようがありません。

暴力行使のみがある行動場面のどこに、「人道的な」配慮がある、あるいはそれが有効だというのでしょう。「非戦闘員」には危害を加えないのであれば、都市の破壊、インフラの妨害などもまた、<危害>ではないというルールがあるかのように思えますが、それが「非戦闘員」にとっても深刻な危害であることは明白です。そもそも「人道的」あるいは「合法的」、お望みなら「道徳的」な行動など最初から意味をなしていないような状況を<対象>として(つまりフーコーに従えばただの discours に落とし込んで positionner)、その倫理的な是非を論議して、線引きをすることに、支配システムに関わる人々は、何か大きな意味を見出しているようです。主にメディアを通して支配システムから影響を受けている被支配層も同様です。これ以上空疎な茶番はありません。

今起きているそのような「深刻な」「関心事 interests / concerns」を、ホイジンガの遊戯概念にならって、もっとわかりやすくしてみましょう。ぼくたちが時事刻々メディアを通して目にしているヨーロッパでの事件が、じつは根源的な深刻さをむき出しにしていることが、感じ取れるのではないかと思います。

遊びの場面。ホイジンガが見抜いていたとおりで、遊びが成立するためにはルールが必要です。ルールを逸脱すれば、遊びの楽しみも、緊張感も、参加している人たちの場の共有感も失われます。ルールはもちろん、ひたすら遊びを運営するためのもので、遊びの外に出ると意味をなしません。つまり、遊びのルールはそのルールが適用される場で、しかもそのルールが運用されている間だけ、存在しています。しかも遊びには、これといった実用的な目的はありません(ありませんと言い切ると進化生物学者などの反論を受けそうですね、目的を自覚的には設定していない、と言い直しておきましょうか)。つまり遊びは、遊びを存続させるためのルールを守って、楽しみと緊張感を感じ取るために行われる集団行動です。
たとえばサバイバルゲーム。模擬的ではあれ、相手を「殺害する」ことが目的のこの遊びであっても、もちろん様々なルールがあります。それに違反すること、たとえば本当に殴る、蹴る、模擬弾よりも威力が強い弾丸を使う、実弾を使う、催涙ガスを撒く、などは当然禁止されていますし、違反すれば、違反者はなんらかの制裁を受けるでしょう。違反が出れば、遊びの「楽しさ」も消滅するでしょう。
では、サバイバルゲームがモデルにしている「戦争」はどうでしょう。現状、戦時国際法というルールがあり、そのルールに従うことがその批准国には義務づけられています。文意を変えないまま言い換えれば、そのルールに従ってさえいれば、どんな暴力行使もすべて「正しい」と承認されているということです。
ルールさえ守っていればゲーム/遊戯は成立。そこでは、殺人、傷害、破壊、生活環境の剥奪などは、すべて「OK」です。馬鹿馬鹿しい限り。またこのルールは、「戦時」ではない日常では許されないどころか、異常と感じられる行為、殺人、傷害、迫害、破壊、脅迫などがすべて別の意味を持つ場面と時間、つまり人々が「戦争」というイメージでまとめたがる社会行動が起きている場所と時間の間に、そしてその場とその時間にだけ、適用されるルールです。まさにホイジンガが言う、遊戯に内在してただひたすらに自己準拠的でしかないルール、つまりその根拠を外部に求めることができず、ひたすらそれを適用することだけが自己証明になっているだけのルールです。
この馬鹿馬鹿しさ、というのが言いすぎならば、この空虚さが、戦争そのものが「ルール」に従った、これといった合理的な根拠もない儀式、遊戯であることを露見させています。当然それは、戦争を執り行う根拠となっている組織である「国家」なり「民族」なりがまた、空疎な茶番であることにつながり、それを支えているという約束でかろうじて成り立っている「政治」もまた、自己言及的な定義にすぎない「ルール」でかろうじて存続している、実体のない習俗、遊戯であることが明瞭になります。このルールに熱中して遊戯を続けている当事者にとってだけ、「戦争犯罪」はそれを切り取って断罪するに値する、由々しき「道徳侵犯」と感じられます。彼らが熱中している当の遊戯、つまり「戦争」(これは「政治」のひとつの姿です)という社会行動と、それを根拠もなく支える結果になっている感情は、その両方ともに、個人の生存権を著しく損なう元凶なのです。しかしこうした感情が日常になっている人は、そのことについに気がつきません。気がつかないまま、馬鹿げた、それどころか、最も非人道的な「道徳的線引き」に熱中するのです。

ぼくたちの日常的な無邪気な遊戯と、ぼくたちが在ると信じきっている社会的な行動とは、ある1点で大きく異なっています。日常的な遊びの場面では、安易なルール侵犯や変更は、すぐさまその集団からの非難を浴びるのですが、社会的な行動全般、なんでしょう、真面目くさった「大人の」行動全般、という遊戯のルールは、いとも簡単に侵犯されますし、いとも簡単に変更されるのです。
現在も、戦地では、戦時国際法に<違反する>武器が使用されているとの報道がたくさんあります。しかしこの法律というルールに対する違反は、道徳的な非難を浴びせるための excuse(語源に従えば、原因から逃れる、本質から逸れる)にはなるものの、肝心の遊戯自体を止めることができません。これが、悲劇をどれだけ救いようのないものにしているかは、たった今も、飛び込んでくるニュースを見ながら確認せざるを得ません。

暴力は、自分の中にある暴力に傾く感情を、それとして認め、見つめることがなければ、おそらく永遠に止めることができません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?