感情と社会 22

暴力性と自己疎外

暴力性、残虐さ、これが、他者を支配したい、操作したい、滅ぼしたいという心であることを、ずっとお話ししてきました。
そして、この心が、周囲に対する際限のない不安と恐怖から発しているらしいことも、お話ししてきました。
この心がどういう経緯で形成されて、どんなふうに暴力と(つまり政治的な行動と)結びつくのかを、いったん箇条書きにしてまとめておきたいと思います。

・想像上の他者からの攻撃、それに対する防御、被害を受けたと感じての報復、排除
・これを常に包み込んでいるのは、恐怖心

・恐怖心、つまり、常に他者を脅威としか感じない心は、人生のかなり早い時期に安心感を奪われている心

・安心感はどうやって奪われていくのか
・それは自分に関わる他者が安心感よりも脅威を多く与えた結果
・それは絶え間ない叱責と賞賛による生育環境
・あれをしてはいけない、これをすると褒められる、という経験の積み重ね

・この経験は、自分を判断する基準は常に自分の外にある、という体験を身につけさせる
・自分の行動が「正しいか否か」は、判定者の顔色を伺って決めざるを得なくなる
・自分自身であることの剥奪は「しつけ」「子育て」「教育」などと呼ばれる
・自分自身であることの剥奪、自分の外からやってくる行動原理とのチューニング(同調)が、家庭、保育施設、幼稚園、学校で推し進められる
・そこでは常に、他者による行動原理の評価を受ける自己が形成される
・その結果自己は、評価を受けることのない空間に安住して、自分自身でいることが、できなくなる
・こうして自己は外部からの評価がある時にだけ、まがいものの安心感を得るようになる
・これは本来の安心感、自分自身であることに安らぐこととはまるで違う
・自己は自己と向き合うことを奪い去られ、常に評価する他者とだけ向き合い続ける
・こうして自己は本来の安心感を失う
(アリス・ミラーの、痛々しささえ感じる、教育こそが暴力なのだということを執拗に訴え続ける『魂の殺人』(原題は Am Anfang war Erziehung 始めに教育ありき)をご一読ください)

・評価と監視を受けていない状態での自己充足感(何をやってもいいんだ)は、教育が終わってからも奪われ続ける
・疎外された自己は、自身の価値や意味を保証するのは他者、つまり常に自分以外であると思う(行動原理は常に自分の外側にあるし、物事の価値を定めるのは常に自分以外の誰かだ)
・自己の存在を保証するものは、もうすでに自分の中に見つかることがない
・<文明化>によるルールの内面化とは、こうした状況を社会全体から眺めた時の心の状態のこと

・人生は続く
・安心感(まがいものであっても)のない日々、恐怖と脅威だけの日々に耐えられるものではない

・ではどうやって疎外された空虚な自己を支えればいいのか
 (そうしなければ生きる意味を見失ってしまう)

・外部基準に沿って自己の高低を測定する習慣は続く
・それは到底安心感、充足感には到達しないので、より高くより高くという欲望に取り憑かれ続ける結果となる(自分がより高いかより低いかを決めるのは常に他者であり、それが<道徳的>と呼ばれる感情の姿)
・より高く登る際、目の前にいるより高い他者は、あるいは敵になる
・その敵は排除の対象となり、文字通り、暴力が行使される
・自分よりも高い他者は、あるいは崇拝の対象となる
・その他者に帰依し、その他者を模倣し、その他者に追随して、失った自己を埋め合わせようとする
・崇拝の対象にはなり得ないと感じられる他者は嫌悪、排除の対象になる
・この、「自分より低い他者」は、意識の対象外になって無視されるか、価値の低いものとして扱われる(圧する、乱暴に扱う、無視をする、放置する、取り除く、憐れむ、指導する、自分の高さにかりそめの安堵感を覚えるための道具として使う、など)

・他者とのこうした関係性は常に、自己の評価をより高くするための闘争であり続けるし、それでしかない
・つまり他者は、「しつけ」が始まった頃からずっと、比較の対象であり、自己の評価を左右する脅威であり、自己の評価を高めるための滅ぼすべき敵である
・<文明化>された、つまり内面化されたルールを共有した、つまりまさに今の社会がそうである<道徳的>な社会の実相が、ここにある
・この<道徳的>社会は暴力をその本質としている
・つまり、ぼくたちが信奉している<道徳>の本質は、暴力性(つまり政治的な動機)

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