感情と社会 16

Civilisation と Neurose

ハーバーマスやブルデューといった著名な学者に大きな影響を与え、またコルバンらの著作でも頻繁に言及されているエリアスの名著『文明化の過程』では、すでに1936年というとても早い時期に、以下のような鋭い指摘がなされています。近代以降、次第にその拘束力の範囲が宮廷の外にまで広がっていくcivilité、お行儀の良さ(つまりこれが civilisation「文明/文明化」の生まれ故郷なのですが)、礼節をわきまえるというという感情をめぐって、こんなことが書かれています。

「ラ・サルの新版〔1774、『キリスト教徒礼儀作法集』〕では[中略]鼻孔をほじくる子供達の悪癖が、旧版以上に力を入れて指摘されるようになる。子供の他の習癖に対する場合同様、この悪癖に対しても社会的警告に取って替わって、あるいは社会的警告に加えて、健康上の警告、すなわち、そのような行為を繰り返しているとわが身に害を招くことになるという指摘が、しつけの手段として用いられるようになる。このことは、しつけの方法に視点上の変化が生じたことの表われである。この時代までは、習癖はほとんどつねにはっきりと他の人間との関係において批判されており、少なくとも世俗の上流階級においては、それが他人に嫌悪感・不快感を呼び起こす可能性があるという理由から、あるいはそれが敬意の欠如を意味するという理由から禁じられていた。この時代には次第に習癖は習癖として非難されるようになり、原則的には他人に対する配慮からではなくなっている。」(上 pp.306)

18世紀初頭あたりまでのヨーロッパ(とはいえ主に宮廷に限られますが)での礼節は、他人の不快感を避けるのが主な目的になっていましたが、それが徐々に変化していきます。
「このようにして、社会的に好ましくない衝動表出ないしは傾向が、いっそう徹底的に排除されるようになる。たとえほかに誰もいないような場合でさえも、それらは人間にとって不快感・不安・羞恥心ないし罪悪感と結びつくようになる。われわれが「道徳」ないし「道徳的理由」と呼んでいるものの多くが、子供たちを一定の社会的基準に合わせてしつけるための手段として、「衛生」や「衛生的理由」と同一の機能を帯びてくる。そのような手段を通じての教育の狙いは、社会的に望ましい態度を一種の自発現象、自己制御的なものにすること、また、そうした態度を個人の意識の中で、本人自身によって自己の健康や人間的尊厳のために望ましい態度と思わせることである。」(上 pp.306)

他人が不快に感じる行為は、他人と同席しているところでは避けるべきだ。こうしたsocialな、つまり社交上の配慮から生じたルールが、ラ・サル新版のこの時期になると、他者の目という規制枠には触れられなくなって、個人の心の中へと、社交のルールが内面化していく様が分かります。ぼくたちには馴染み深い、というか馴染みすぎてほぼ意識することすらめったにない、共同体を貫く道徳という感情が生まれていくプロセスです。
個人の「衝動的」な、つまり身体的な快不快に基づいた行動が、社会 société(これは本来「社交界」という意味で、日本語の「社会」が呼び出すイメージとは、現在でも全くの別物なのですが、この日本人の根深い誤解のことはまた機会を改めて。) の中にいること自体ですでに抑制、抑圧されます。鼻をほじるという行為は、人目がないところであっても、「衛生上の」理由から害悪であると思い込まされて、そのルールは個人の心の中に内面化されます。そして、人目がないところで鼻をほじっていても、やがて人はぼんやりと、自分がルールを破っているという感情を抱くようになります。ぼくも、鼻をほじるときには、人目を避けます。それがなんだか「はしたない」「お行儀が悪い」、そして「不衛生な」行為に思えるからです。ぼくたちはこの感情を共有するある種の文明世界に、いまだに住んでいるわけですね。

しつけは、このようにして、長い歴史的な行動変容の中で、徐々に「文明化 civilisation」を進めるための手段として、もっともらしい理由を身につけて、教育の現場にも、家庭での子育てにも、現れてきます。それは、さしたる根拠もないルールを、徹底的に刷り込ませるために、ありとあらゆる「合理的な」理由をでっち上げて、あたかもそのルールが<あなた自身のためのもの>、<あなたの健康や社会的な境遇を守るためのもの>であるかのように思い込ませて、こうやってまんまとルールを個人の内面に植えつけるというプロセスです。
子供の頃に、こうした「文明化」された人間の嗜みの刷り込みが、しつけと教育によって行われる結果、ぼくたちは、他人が見ていようがいまいが、鼻をほじったり、歯に詰まった食べ物を指でほじったり、げっぷをしたり、おならをしたりという行為が、なんとなく<憚られる>、<恥ずかしい>ものと感じるようになっているわけです。それが「自然」な気持ちなんだ、自発的なものなんだと。

育っていく過程で刷り込まれてしまうルールという感情は、もちろん自発的なものではありません。熱いヤカンに触って火傷をすれば、その後はヤカンに気をつけるようになります。不安定な走り方をして転んで怪我をすれば、転ぶと「痛い」「怖い」ので、その後はなるべく転ばないように気をつけ始めます。自発的な感情はこんな風にして育つものなのですが、一方で、civilisation、しつけ、社会的な調教によるルールという感情は、自分の外側から植えつけられたものであって、自分自身が納得して体得したものではありません。
ですから、自分が抱え込んでいる、このルールという感情には、常に異物感がつきまといます。自分の一部のようでもあり、自分ではないものだとも感じる。フロイトが生み出した、あの「超自我」という言葉が思い浮かばれます。自分を決めている自分ではないもの、自分をはるかに超え出ているもの。
ルールという感情の異物感が大きな不快感になると、人は<心を病む>可能性があります。

「慣習化のこうした方法、しつけのこうしたやり方が中流市民階層の台頭につれて支配的になった時点において初めて、社会的に潜在している衝動力や衝動傾向と個人の中に根を下ろしている社会的要求の規範との間の葛藤が、現代心理学、なかんずく精神分析学の研究の中心課題にされたような形で、先鋭化されてくる。以前の時代にも絶えず「ノイローゼ」と呼ばれる現象が存在していたかもしれないが、今日われわれが「ノイローゼ」とみなしているものは、時代の流れに制約されたひとつの特殊な精神的葛藤現象であり、精神発生史的・社会発生史的解明を必要とするものなのである。」(上 pp.306-7)

異物感がどうしようもなく膨れ上がったり、内面化されたルールとは違った行動に出たいという情動が自分自身にとてもはっきりと感じられるようになると、押しつけられて内面化されたルールが強いてくる感情と、自分の中にあるそれにそぐわない情動とが、調和しなくなってきます。自分の心の中での不一致、不協和がうまく処理できなくなると、人は神経症的な心の状態に陥りやすくなります。エリアスは(とりわけ日本人が誤って<近代化 modernisation>のことだと、つまり、次第次第に学術知識や衛生観念や工業技術や産業などが<進歩>していくことと勘違いしている)civilisation のプロセスが、個々人の相互依存の増大、それによる社会集団(これは近代以降だと、<利害がある程度一致している集団>と同義です)を律するルールの圧力の増大、それが引き起こす個の心に対する、集団を律する抑圧のより強力な介入、つまり極端な場合は個の喪失に至るプロセスとして、これを臨床的に呼ぶならば Neurose 神経症に至るプロセスとして、敏感に感じ取っていたのです。
自分は、また自分が属しているこの社会は、どんどん raffine 洗練された進化に向かっているのだ、という意味もなく自足しきった感情に身を託すには、個人はまず、civiliser 文明化されないと、つまり、しつけられないと、つまり、自分のものではないルールを心の中に自分自身だと思い込んで刷り込まないとなりません。そう、<人前で>鼻をほじってはいけないのです。もちろん独りの時でも。ぼくを見つめている<超ぼく>がいますから。

エリアスが概念化した「文明化 civilisation」のプロセスは、ぼくがずっとテーマにしてきた、進んで自分を捨て去りながらも、それにぼんやりと不快感を抱いているという、ぼくたちに共通する今日の感情の出身地を、見事に描き出しています。この不快感には、すでにフロイトが気がついていました。やがて彼の理論を学んだホーナイやフロムに、この気づきは引き継がれていき、彼らを始め、様々な人たちが、20世紀に至って社会全体が神経症的になり、つまりは自我を喪失していくプロセスが進行していく様子を、繰り返し繰り返し、指摘することになります。第2次世界大戦後、闇に閉ざされていたドイツ語圏の気づきが、やがてフランスでも知られるようになると、「疎外 aliénation 自分が他人としか感じられなくなってしまうこと」という標語とともに、エリアスが指摘していた社会感情はヨーロッパで大きな注目を集めることとなりました。
1970年代に至ると、Neuroseやaliénationは過去に押し流されていきます。残念なことにそれは、人間がそうした感情の病態を乗り越えたことを、ではなく、すでに大多数の人々がこうした感情に罹患しつくしてしまい、もはや意識化できない段階に至り始めたことを、示しているように思えてなりません。


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