感情と社会 30

情緒の操作

「コカコーラをたくさん飲んでも、若くも健康的にもアスリート的にもならない。むしろ肥満や糖尿病にかかる可能性が高まるだけだ。それでも何十年もの間、コカコーラは若さ、健康、そしてスポーツと結びつけるために何十億ドルもの投資をしてきた。そして何十億もの人が無意識にこの結びつきを信じている。」(Twitter ユヴァル・ノア・ハラリbot 2020.10.20)

コカコーラは健康を増進しない。当たり前のことですが、コカコーラの販売促進のために、この会社は自社製品を身体的な健やかさや爽やかさに結びつけるという戦略を取り続けてきました。その結果はぼくたちがよく知っているとおりです。コカコーラが身体や食生活に及ぼすであろう影響は意識から遠のいて、宣伝が仕掛けたイメージと感情がコカコーラと直結しています。
大量消費社会になってからというもの、販売のための戦略が、商品とは結びつきようがないイメージを使うことを採用して、今やすっかりそれは定着しました。ぼくたちは、広告を見て、しっかりと商品を吟味しているようでいながら、すでにそれよりもずっと前に、ある特定のイメージ(感情)をその商品に投影しています。

対面している個人をその都度尊重して交流をする代わりに、個人たちの集団としての任意の社会を一括りにして操作しようとする場合は、必ずと言っていいほど、感情が操作されます。そしてそれに成功すればあとはすべて「うまく」いきます。すでにぼくはこの連載で、政治は感情の操作に他ならないことをずっとお話ししてきました。感情の操作は、政治に限らず、他者の心を利用しようとするところでは、必ず行われます。大量消費社会、つまり大量に生産される商品が、不特定多数の個々人に向けて販売され、購買者は商品の生産者と生身で対面して話をすることがまずないという社会における、広告という戦略は、まさにその典型です。
営利活動は利益を上げるという欲望を充足させるのが目的ですから、そのために感情を操作する、つまり他者を利用の対象とだけ見做すという動機づけが露骨なことには、まだ納得がいきます。
残念ながら、他者を利用の対象としか思わないという動機づけが、政治という欲求を持つ人々にも備わっていることはすでに考え続けてきました。久々に人類を襲っているパンデミックに対して、日本の政権が連呼していた「安心安全」が具体策を伴わず、そう連呼することでただ市民の情緒を一定状態に保とうという行為にすぎなかったことを思えば、お分かりかと思います。

メディアはどうでしょう。政治や経済活動などに対して、ある程度の意見形成をすること、意見表明をすること、そうやって世論(社会に流通する信頼できる情報)の形成を促すことが期待される活動ではないかと、ぼくは思うのですが、メディアは感情の操作を(まさか)主要な活動目的にはしていないのでしょうか。

ある日の新聞の一面にはこんな大見出しが出ていました。
 「迫る72時間 懸命の救助」「久々の晴れ間「全力尽くす」」(2021.7.5.毎日夕刊)
災害に見舞われた地域の報道です。
同じ記事の中には、「ひでえな……。何だ、これは。」という近くに住む住民のことばが紹介されています。
見出しになっているのは、救助活動の実際ではなく、それに関わる人に対する(リポーターの?)心情と、救援活動に関わる人の決意です。現場の様子を事実に即して伝えるための、救援隊の人数、装備、救助方法、進捗の状況などではなく、感情が用いられています。いわゆる<つかみ>を、きっと編集者は意図したのでしょうね。そして本文では、現地の状況(被害の現状、規模、被災者の消息、救援活動の全容、自治体や政府の対応など)によりも、現場でのインタビューに大きな紙面が割かれていました。

災害や事件や事故の現場に駆けつけた日本のリポーターは、住民にすぐにインタビューをとります。テレビで流される映像では、「親族が見つかってないんです」と涙ぐむ人の長撮り。ここで焦点となっているのは、被害者や事故の状況ではなく、被害者や目撃者や親族の心情です。「もうどうしようもないな、これからどうやって生きてくか、わからん。」被災した人が絶望的な心情になるのは当然すぎるほどに当然なのですが、メディアはそれをしっかりと記憶に留めさせるかのように、執拗に伝えます。そして、それしか伝えません。死亡事故や殺害事件が起きれば、「あいさつもきちんとして、とっても明るい子だったんですよ」「なんでまた、あんないい人がねえ、死ななくちゃならなかったか。」など、顔出しNGのインタビューが延々と続きます。
それを視聴するぼくたちは、意味がないなと聞き流すか、お決まりの当たり障りのないお悔やみを言ってるなと思うか、あるいは、同情が働いて被害者やその遺族の立場になってしまうか、いずれにせよ事実に近い状況の把握ではないところに、心の動きを持っていかれてしまいます。これがメディアの制作者側の意図なのかどうか、それは判然としません。メディアが<生の声>に報道価値を見出しているのか、取材内容が乏しすぎて、単に「尺を埋める」ために使っているのか、それとも他の意図があるのか、よくわからない。おそらくいろんなものがごちゃごちゃに混ざり込んでいるんでしょう。制作者にも、自分が一体何をしているのか、明確ではないのでしょう。ただ、結果として、こうした報道は明瞭に、被災者、被害者、関係者たちの心情を、これでもかというほど執拗に伝えます。あたかもそれに、それだけに、大変な価値があるかのように。

じつは、こうした例に限らず、メディアによる報道は、少なくとも日本の場合、とても感情に重点を置きます。そればかりか、感情的でしかないと言い切ってもいいほどです。
テレビニュースは、感情を熱心に伝えます。あたかも、ニュースの役目は、ぼくたち視聴者の情緒を調律することであるかのようです。
殺人事件や交通事故などの、現在の社会を反映している象徴とも特には思えない、とても個別的、散発的でローカルな事件は、全国ネットで長時間の取り扱いを受けます。交通事故、火災、殺人、窃盗、詐欺などは、しばしばトップニュースにすらなります。殺人は「凄惨」、「理解不能」「残忍」、交通事故は「悲惨」であったりと、必ずと言っていいほど、道徳的な判断の、つまりは感情のコメントがキャスターなりリポーターの口から出てきます。(それがキャスターの「本音」でもなさそうなことは、後ほどお話しします。)
事故を起こした者は「どうしてそんなことを」とキャスターに責められ、もちろん<容疑者>として敬称なしの実名も告げられ、事故の犠牲になった人たちはというと、彼らがいかに善人で、いたいけな子供で、近所で評判だったかが、写真や動画が紹介されて感情移入をしやすいように促されながら、長々と紹介されます。被害者は「おとなしい」「きちんとしている」「挨拶もちゃんとできる」「可愛らしい」「健気な」「まじめな」「いい」人たちばかり。
加害する人と被害を受けた人、善と悪、許すまじき行いと避けがたい悲劇という、道徳以外の何ものでもない価値感情が、徹底的に単純化されて、それが<報道>の核心的な内容になっていきます。事件や事故は、この社会に共有されている(べき)感情の実例へと、加工されていきます。

つまり日本の報道は、事件や事故よりも、それを通じて、共同体の道徳をわかりやすく図式化して伝えているようなのです。
制作者にそういう意図があるのかどうかは、まったくもって、判然としません。ただ、手に取るようにわかるのは、ニュースを伝えているキャスターが、あたかも「善人」であるかのような印象をまとっていること、あるいは、社会に公認されている「善意」や「道徳的判断」といった感情を代表している、あるいは代弁しているように振る舞っていることでしょう。結果的にニュースは、おそらくその全編を通して、視聴者の感情を操作することに大いに貢献することになっています。
これがぼくの大変な勘違いでもなさそうなことは、大抵の場合キャスターは<主観>を交える、つまり自分自身の心にうごめいていることを言葉にすることを回避するところ、またキャスターが公共の倫理に反する行為(不倫、賭博などでしょうか)を行うと、非難されたり、降板させられたりということがしばしば起きるところに、かなり明瞭に表れています。

メディアがこれ以上にあからさまに感情を操作しているのを示すのが、ほとんど定型化しているニュースの流れです。
「残忍な事件」や「卑劣な犯罪」、「悲惨な大災害」を、それに<ふさわしい>口調で伝えたかと思えば、突如としてキャスターは笑顔になり、「またまた特大ホームランです!」「明日は晴れるみたいですね、屋上にいる〇〇さーん!」と、一瞬にして感情を切り替えます。この切り替えは、時としてゾッとするほどに唐突です。スタジオのカメラが切り替わった瞬間に、さっきまで暗鬱そうにしていたキャスターが、満面の笑顔に変わっています。この変わり身の速さ、まるで悪夢でも見ているかのよう。その、日常的にはほぼあり得ない感情の流れに沿って、ぼくたちの感情もまた、あっという間に別のものになり、「残忍」も「悲惨」も「可哀想」も「禁じ得ない怒り」も押し流されて、感じ取れなくなっていきます。そしてお決まりの、笑顔の「ではまた明日」。
報道でよく問題になるのは、情報の操作ですが、少なくとも日本の報道を見る限り、操作されているのはむしろ情緒です。どのニュースも感情の伝達と伝播に腐心している状況で、情報の名に値するような報道内容はほとんどないという現状があるだけになおのこと、それが中心に躍り出ています。

視聴者である他者の情緒を操作するという欲求は、それ自体が極めて政治的です。そして政治的な心は、他者の支配という欲求を中核としています。この欲求を満足させるために、他者を支配しようとする者は、自分自身の価値感情、それに基づいた行動様式を、あたかも社会全体がそれに従うルールであるかのように偽装します。こうして偽装されたものを、ぼくたちは道徳(あるいは倫理)と名づけて内面化してしまっています。
道徳という、ぼくたちの心にしっかりと根を張っている、広く共有された感情にとっては、恋愛や結婚という「ネタ」もまた、格好のテーマになります。それがよく知られた芸能人や、まして皇室の人々のこととなると、共有された感情をよすがにして生きている人たちが一斉に反応し始めます。メディアがこうした「ネタ」を頻繁に取り上げるのは、他の報道をしないという政治的な戦略であると同時に、おそらくはメディアの制作をしている人々もまた、自分に内面化されて、自己と一体化しているような錯覚を覚えている共有ルール(道徳)を、そうとは感じないままに振り回しているせいでもあるのでしょう。
同じようにまた、スポーツ界での華々しい出来事も、ほかの重要な社会的報道を押しのけて、トップニュースに躍り出ます。等身大の切り抜きが現れたり、キャスターが応援グッズを手にしていたりと、視聴者の情緒は見事にお祭りムードに調律されます。こうやってしっかりと調律がほどこされた後に、あまり花のない政治家の不祥事の報道が、やはりあまり花のない演出で行われれば、このニュースに対する相当数の視聴者の関心は薄れてしまいます。社会的な重要性に照らせば、どちらが報道としての重要性があるかはおそらく明らかで、つまり政治報道がトップニュースになって当然なのでしょうが、そうはなりません。スポーツが暴力の擬態であること、また共同体が共有するルールという情緒をうまく投影できる幻影(イメージ、その語源はラテン語のimago、「見せかけ、幻影、幽霊」)であることは、すでにお話ししたとおりです。メディアは、こうしたスポーツの機能を、やはり意図的になのか、それとも意図も自覚できないままなのかは判然としないまま、実に効果的に利用しています。
天変地異、事件、事故、火災。こうしたわかりやすい事象もまた、感情が<共有されている>という気分を味わうツールとして最適です。ニュースは好んでこうした事象をトップニュースに使い、易々と感情を調律します。

日本の報道のこうした実情から、日本では一般的に、というかほぼ常に、物事を極めて情緒的に判断していることが窺い知れます。メディアはこうした社会の特性を、距離をもって眺めたり、批判的に検討したりということをほとんどしません。ある報道や政治的な事件に対する批判が行われるにしても、それはそれでまた、何か別の<共有されている>と思い込んでいる感情的ルールを述べ立てているだけ、といった状態です。いつ果てるともない、感情の共有確認、感情が共有できない集団同士の衝突。
報道に如実に現れているように、日本の社会をそれなりに束ねているのは、情緒です。もう少しましな言い方をすれば、道徳という感情です。それを超え出ようとする心の動き、かつてのヨーロッパであれば<理性>と呼ばれていた、不自然ながらも苦心して考案された、単に共有されている感情ではない何物か、は、おそらくまったく存在していません。ヨーロッパのような、苛烈と言ってもいいくらいの<知的合理主義>のプロセス(すでにこれも歴史となりつつありますが)は、日本の<文明>がいまだに体験していないことなのです。

ジョドゥレとモスコヴィシの言葉を、もう一度思い出してください。
「社会の表象は、合意だけで成り立つ現実の明白さを捏造する。社会の表象は、現実が心理学的、社会的に練り上げられる時の生産物でありプロセスである。表象の中身や過程に社会的な印をつけるのは、それらの表象が出現する条件や背景を指示するためであり、表象が広まる伝達方法を指示するため、ひとつの世界と別の世界との相互作用の中で表象が持つ機能を指示するためである。」(『感情の歴史』Ⅰ、p.393)

今日もニュース番組では、お決まりのように街頭インタビューが流されます。あたかも街の声が、この社会を束ねている「世論」であるかのように。ぼくたちはそこに、まだ根づいてもいない public 公共性を、勘違いして感じ取っているのでしょう。

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