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私的『枕草子』と郷愁

月に一度、実家に帰っている。
犬をシャンプーし、風呂とトイレを掃除して、家中の廊下を拭き、玄関を掃き、余裕があれば庭の草むしり、犬の散歩をして、夕方にはアパートに戻る。

もともと掃除は私の仕事だった。
大学時代に一人暮らしをしていたときも、長期休暇の時には数週間帰省して、その間の家事を担っていた。家族にちょっとでも楽をして欲しかった。
だから、「実家に帰りたい」という話をした時に「わかります〜何もしなくていいですもんね!」と言ってくる人間が嫌いだ。彼らの中では親が(それもおそらく母親が)家事をするのが当たり前なのだろう。申し訳ないとか思わないのだろうか。最低な奴らだと思う。

さて6月に帰省した際、犬の散歩コースがいつもと違っていた。
本人(犬)の行きたい方向に進めば、そこは、私が小学生の頃によく遊んだ神社だった。

何を祀っているのかは知らない

仕事を辞めるのに、もう神頼みしか手段が無くて、GWから縁切りスポットに出かけていることは前にも少し書いた。先週はついに、あの京都の安井金比羅宮のお守りを郵送でいただいてしまった。
けれども。
どんなに有名な寺社よりも、お宮参りに始まり、小学生の頃毎日のように遊び、毎年祭りで手伝いをしていたこの神社の方が、「地元に戻れますように」という願いを叶えてくれそうな気がした。
とはいえ、神仏の加護はあまり信じていないのだけど。

近頃しきりに、子供の頃のことを思い出す。

「夏は夜」と清少納言が書いたのはあまりにも有名だ。
学生時代、古典の時間に『枕草子』を学んだ時、感動したことを覚えている。わかりみしかない。1000年経っても共感できるのはすごい。

夜。
玄関からは蚊取り線香の、台所からはキュウリの匂いがする。それが私の夏だ。
17時から18時頃、まだ暗くなりきらない時間、お風呂に入るのも好きだ。
お盆の時期は20時近くになってお墓参りに行く。生者でひしめき合う夜の境内。灯篭の蝋燭に照らされた墓地は美しかった。

秋、家の裏の空き地で遊んでいた時に見た夕暮れの景色、温かいような冷たいような風。すくもを燃す煙で洗濯物が燻されるのは嫌だけど、あれこそ秋のにおいだ。落ち葉が風に飛ばされる音。

冬の明け方の澄んだ空気。あるいは夜、どこかの家でストーブを焚くにおいがする、駅からの帰り道。星が綺麗に見える。寒さが鼻の奥をツンと刺す。

春は甘い香りと土の匂いがする。庭先や小学校の校庭のチューリップほど新年度のワクワクを感じさせるものはない。
田んぼに水が張られる時期になると、山と空が映って綺麗だと思った。

それなのに。

子供の頃から、都会に憧れていた。
テレビで見る東京の女子高生が羨ましかった。
早く実家を出て一人暮らししたかった。

ずっとずっと不思議だった。何か事情があるわけでも、家業を継ぐわけでもないのに、地元を離れない人たちが。若くして残っている人たちは高卒が多い。いつかTwitterで「そもそも地元を離れる、という考えに至らないらしい。後輩が『俺、この町を出ていいんすね』と気づいたように言ってきた」みたいなツイートを見て、驚いたおぼえがある。
私自身、公務員になるわけでもないのに地元に戻ったら、大学まで出してもらった意味がない、と思っていた。

離れてみてようやくわかった。
ふるさとは、愛おしい。

実際、残っている人々はそこまで深く考えてないかもしれない。惰性で、ただなんとなくだとか、とくに都会に行く理由がないからだとか、そんなかんじかもしれない。それでもやはりある程度の愛着はあると思う。
自分で言うのもなんだが、感受性豊かな私は、ふるさとの美しさだとか郷愁の念だとかに、異常なほど打ちのめされている気がする。

野焼きの臭いも、豚舎の臭いも、けしていいにおいではなかった。けれども、好きだった。

帰りたい。
『耳をすませば』で有名な「カントリーロード」を脳内再生することが増えた。けれども、自分を奮い立たせたり強さをもらったりはできそうにない。

そういえば、詩人・室生犀星の作品に、こんなものがある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて 異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

私は作者について大した知識はない。
ただ複雑な家庭環境に生まれ育ち、故郷を愛しながらも東京で生涯を終えたことは知っている。
この詩も「ふるさとに居場所はない、帰るところではない」という解釈らしく、「ふるさと」を懐かしむときにこの詩を呟くのは正しくない、らしい。

私は最近まで、よくこの詩を思い出していた。
最初は「逃げちゃだめだ」という気持ちからだった。自分を鼓舞するためだった。カントリーロードの正しい用法だ。
けれども私は、彼のように決意(それが彼にとって、そうせざるをえなかったものだとしても)を固めることはできなかった。
置かれている状況が違うから当たり前だけど。

私には帰る場所がある。

さて、私がこの詩人・室生犀星を知ったのは、ゲーム『文豪とアルケミスト』がきっかけだ。
登場するキャラクターは、実在した文豪がモデルになっている。
そして作中の「室生犀星」には、「どんな状況にあっても、死という決断は、まだなんだ」というセリフがある。

私はこのセリフも、一日数回、心の中で唱えている。
冗談抜きで選択肢の一つとしての死に手を伸ばしそうになる毎日だけど、絶対に地元へ帰るんだ!という気持ちが強いからだ。
すべて投げ出したい。けれども、死ぬわけにはいかない。

そう思って、もうしばらく地獄を生きる。


ホームから駅舎にかかる陸橋は田舎あるあるだろう。
毎日見る景色でも、そこから見える朝焼けや夕焼け、月、遠くの工業地帯夜景が好きだった。


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