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ナースの私が病棟にいない理由。個人事業主になりました。どうぞよろしくお願いします。

あけましたー。おめでとうございます。
けど、糸満は旧暦なので、なんか全然正月感がなくて、
ご挨拶おそくなりました。すみません。

2019年1月1日から
念願の個人事業主でございます。
2020年に法人化目指してがんばります。

なぜにナースが個人事業主!?ということですが
一番は私がナースを目指したところにあります。

私が看護師を目指したきっかけは母の死。
その時に「保険適応」以外の部分で必要なことが
たくさんあることに気がつきました。
病院、役所の足りない部分を経験として知ったのです。
それは自身が対象当事者であった
切迫早産での入院中、息子のNICU入院中、
その後のワンオペ育児の時からずーっと感じていたこと、
そのすべてが「看護学」につながっているように感じました。

そして、看護学校に入学して、看護学を学ぶと
それが確信に変わりました。

私が求めていたすべてが「看護」の道にありました。

私は入学当初から病院内で働くことは考えていませんでした。
病院実習は大変だったけど、対象と向き合ったり
看護業務自体はとても楽しかった。けど、やはり
私は病棟で働こうとは思えませんでした。

私にはやるべきことがある、と今日の今日まで
ずっと思ってきました。

病棟の看護師を私はとても尊敬しています。
看護師としての看護業務はとてもやりがいがあることも知っています。
だけど、私は気づいてしまってるんです。
社会と個人と病院と行政の隙間を知っているので
だれも気がついてはいないけど、必要なこと。
それに気がついているのは今のところ、私だけかもしれません。
いや、気がついている人はたくさんいるのかもしれませんが
それを行動に移せる人は私しかいないように思います。

私の勘違いかもしれない。
必要としている人なんて本当はいないかもしれない。
生活できないかもしれない。

だけど。

私は、あの頃の私を助けたい。



妊娠・出産は何事もなく進むのが当たり前だと思っていた。
23才で結婚。
私はひとりっ子だったので、たくさんこどもがほしかった。
だから、早く結婚した。
若くでの妊娠・出産は楽勝だと思っていた。
こどもはすぐできると思っていた。なかなかできなかった。
24才で第一子を妊娠。すごくうれしかった。
けれども育たなかった。初期流産だった。
大量出血を避けるため、手術をして赤ちゃんを出すことになった。
全身麻酔のアレルギー反応は出たけど
無事に手術は終わった。
はずだった。
数週間後に自宅で敷布団の全部が真っ赤になるほどの大量出血をした。
再度手術になった。
私ひとりで病院側と話しているとテキトーな対応だったが
弁護士の夫が名刺と共に登場すると
奥にあるキレイな部屋まで通されて
ちゃんと説明してくれた。

それから、舜明を妊娠。
彼の産まれてくる予定日はなんと
第一子の流産手術をした日だった。
それに気がついたのは私の母だった。
「うまれ変わりかねぇ。今度は無事にうまれてこれますように」

ヒドいつわりを乗り越え、なんとか安定期にはいった。
つわりもおさまり、安定期にもはいったので、
仕事も復帰した。
大事に大事に日々を過ごしていた。

いつものように仕事から帰ると、なんだかお腹の様子が違っていた。張っているような?陣痛は体験したことがなかったけど
なんか、陣痛のような???
病院に電話すると「すぐに来てください」と。
ひとりでタクシーに乗って、病院に行き検査をすると
陣痛がきていた。すぐさま点滴をし、
そのまま入院。24時間点滴の絶対安静の日々がはじまった。

大阪警察病院という大きな病院ではあったが
そこにはNICU(新生児集中治療室)がなかった。
いよいよやばそうだ。ということで
救急車に乗ってNICUのある遠くの病院へ移動した。

そこは自宅から遠かった。
もしここで産まれてしまったら
毎日通うのに電車を乗り継いで1時間近くかかってしまう。
けれども受け入れてくれる病院はここしかない。
家の近くのNICUがある病院の空きをまった。

家から30分ほどの場所にあるNICUがある病院の空きが出た。
すぐさままた救急車に乗って移動。
その際も点滴はしたまま、横になったまま。
私の腕は、点滴の張り替えでボロボロになっていた。

そこの病院はとても設備が整っていた。
「30週、1500gをこえると助かる率が高くなる」
と言われていたので、私はその数字を目標にしていた。
30週にはいった。胎児の体重も推定1500gとなった。
転院が決まった時に沖縄から来てくれていた母が
「なんか、ここの病院だと安心だね。なんか大丈夫そうだから、私1回帰るね」と言って沖縄に帰っていった。

その翌日の朝、陣痛がきて、夜には息子がうまれた。
30週と2日、1500gだった。
ちいさなちいさないのちだった。
息子はすぐさま保育器の中に入れられ、
新生児担当のドクターの処置を受けていた。
私はそれをチラっとみることができただけだった。

私が息子に逢いにいくことができたのは翌日。
でないおっぱいを無理矢理しぼり
ようやくにじみでた0.2mlのお乳をシリンジでとり
息子に届けるため歩いてNICUに行った。

たくさんのチューブ、呼吸器、モニターに繋がれた息子。
他の子と比べても毛深くて、すぐに私の子だとわかった。

無事に産まれてきてくれて、感謝しかなかった。

私は一足先に退院した。
入院してから2ヶ月弱、歩くことも制限されていたので
筋肉は弱っていた。出産後すぐというのもあるが
退院してすぐ、お乳を冷凍して届けるためのパックを
買いにでかけた。地下鉄を乗り継いで。
とてもキツかったが、舜明はこの瞬間も頑張っていると
言い聞かせた。私は母になったのだと。

退院後は2時間に1回、機械で搾乳して、冷凍して毎日届ける。
頼る人が全くいない大阪。
毎日もくもくと続けた。
NICUで友だちもできた。

舜明も私とおなじくらい入院して、退院することができた。
退院したときでも2300gぐらいだったと思う。

退院後も感染に気をつけなければならず、電車を乗り継いで
月に一回の予防接種。健診。
2ヶ月早く産まれたこどもの成長にドキマギしながら
話す相手もおらず、夫の帰りは21時をすぎてから。
「食事の用意は?」「もう寝る。明日も早いねん」
息子との生活について話す相手は、
Skypeで繋いだ沖縄の母だけだった。

そうしてやっと1年がすぎ、
息子がごはんを食べれるようになって
歩けるようになってきたころに
沖縄の母からの電話。
「なんか、もう肝移植しかないから、家族呼んでって」
「ん?何言ってるの?よくわからんけど、1回帰るね」
急いで沖縄に戻った。けど、病院は説明をしてくれなかった。
母が通っている病院へは担当のドクターは1週間に1回しか来ず、
予約の患者しか診ない、と言われた。
その曜日を待った。再び電話した。
「予約の人しか診ない」
「でも、家族を呼べと言われたので大阪から来た。会うことはできないか。」
「できない。」
「じゃあ次の予約日になったら会えるのか。1ヶ月ほど先になっているが」
「来年度から先生がかわるので、もうその担当医は来ない」

わけがわからなかった。電話の先に母に
「もう肝移植しかない。家族呼んで話して」と言った
医者がいるのに、会ってもらえなかった。

その日、急いで沖縄の肝臓医の情報を集めた。
一番の名医はハートライフ病院にいた。
私の実家の糸満からはだいぶ距離があったが
電話で事情を話すと「午後の診察時間に来てください」と
診てもらえることになった。

私の母は難病だった。
薬代も毎月2〜3万かかっていた。
だが、難病認定がおりていなかった。
ハートライフ病院で先生が診察し、
すぐに難病認定がおりるように指示してくださり
保健所で手続きを済ませ、
その月から薬代がタダになった。
母は自分の病気がどんなものかも知らずに
1ヶ月に1度、病院に行き、高い薬を5年以上飲み続けていた。

「あと、移植をしなければあと2〜3年の命です」
母は涙目になった。
私は私の肝臓を母に移植すれば母は助かるのだと思って
「大丈夫よ〜移植すれば助かるってことさ〜」と笑っていた。
何も不安はなかった。


母はその2ヶ月後に死んだ。
移植の検査のための入院ということで
大学病院に入院していた。

当時の沖縄では肝移植の実績?は
県立中部病院の1件しかなく、
九大病院か、京大病院かで移植手術をするしかなかった。
私は当時大阪に住んでいたので京大病院での手術を希望した。

手術の流れ、方法、術後の経過、回復過程など
めっちゃこまかく調べていた。
手術を乗り越え、母は生き続けるものだと本気で思っていた。
私は完全に愚かだった。


母が死んで、母の遺体を洗う時に
「私が母に対してしておくべきことは、看護だったんだ」
と気がついた。
難病は、医師や研究者も治せないから難病なのであって
その専門職の人たちが全力で取り組んで病気を治してくれる。
だけど、母に寄り添い、話を聴き、身体をさすり、共に笑い、泣き、そうゆうことをするのが家族であり、看護だったんだ。
それをしてあげられるのは私しかいなかったんだ。と
気がついた。


母は、舜明の2才の誕生日に亡くなった。

当時、私は必死だった。
保育園に預けたことのない息子を連れて沖縄に戻っていた。
大学病院は感染予防のため、乳幼児の面会を制限していた。
息子を保育園に預けて病院に行かなければならなかったが
息子の住民票は大阪にあったため、保育園にあずけられなかった。
(急だったのもあるし保育園のシステムをわかってなかった)
やっとみつかった一時保育をしてくれる保育園も慣らし保育をしなければならず、最初は2時間からの預けだった。
私はNICU出身の感染に弱いであろう子を預けることに不安があったし、
なにより離れたことがなかった。
息子も私も不安だった。
当時ペーパードライバーだった私を運転させることにも母は不安に思っていた。
レンタカーを借りて、糸満から小禄の保育園に息子を預け
330から琉大病院へ向かう。着いたと思ったら、洗濯物を預かり、混んでる330を通って小禄に行き、糸満へ戻る。
そして家事をして、、、の繰り返しの日々だった。
母はペーパードライバーの私と舜明を気にして
「暗くなる前に戻りなさい」と言っていた。
実際、当時は夜の運転をしたことがなかった。

いつもこのことを私は言い訳にしている。
私は母にきちんと向き合えなかった。
母の病気に向き合えなかった。
母自身に向き合うことができなかった。

だけど、私は、この頃の私を救いたくて
看護学校に通い、看護師になった。

私は病棟にいれない理由がある。
病棟の外で、こうして困っている人がいることを知っているから。

看護師のすごいところは他職種と繋がっていること。
社会福祉の知識も持っているところ。
地域看護も知っているし、グリーフケアも知っている。
小児看護も知っているし、母性看護も知っている。

そして、今の私なら、あの頃の私を救える自信がある。
だから、病棟の外で、誰もやってないかもしれないけど
私なりの看護を展開したいと思う。

私は、あの頃の私を救いたい。
ただその一心で、個人事業主になりました。

できれば、みなさんに応援されたいです。
私、強くないから。

周りに私を必要としてくれる人がいれば
私をご紹介ください。
チカラになれると思います。

失う前に、大切なモノに気がつき
大切にできる人を増やしたいです。

それは自身の健康かもしれないし、
家族の健康かもしれないし、関係かもしれないし。

私が母にしてあげられなかったこと
私があの頃の私にしてあげられなかったこと
今できる範囲のすべてのことを社会に還元していけたらと
思っています。

いただいたサポートは、とにかく、おいしいの食べます。ありがとうございます🙇‍♀️