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帰国子女は何者か

2000年代の急激なグローバル化により海外に企業が進出し、家族も移動するようになった.今現在では毎年1万人程度が帰国子女として日本にいる.しかし彼ら(彼女ら)は日本人とは違う.戸籍上は日本人でも価値観も文化も全く違う.彼らは何者なのか.

先に定義を確認すると帰国子女とは文科省の資料を参考にすると「1年以上海外に在留し、その後日本に帰国してきた児童」という定義になっている.ここでの児童というのは小学校から中学校までの9年間の義務教育課程における子どもである.

その子どもたちが日本に毎年1万人が帰国しているのが現状である.そして海外に住む子どもの数は年々増加傾向にあり、平成27年度の調べによると7万6536人の子どもが海外で暮らしている.

文部科学省ー海外で学ぶ日本の子どもたち
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/002/001/001.pdf

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwji5fSb3PqEAxVqlq8BHchZD8QQFnoECBIQAw&url=https%3A%2F%2Ftoyokeizai.net%2Farticles%2F-%2F122169%23%3A~%3Atext%3D%25E6%25B5%25B7%25E5%25A4%2596%25E8%25B5%25B4%25E4%25BB%25BB%25E3%2581%2599%25E3%2582%258B%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E4%25BA%25BA%2C%25E3%2581%25AE%25E5%25A2%2597%25E5%258A%25A0%25E3%2581%25A8%25E3%2581%25AA%25E3%2581%25A3%25E3%2581%259F%25E3%2580%2582&usg=AOvVaw3ZNxvHCJl2RZ_aEUblMrFz&opi=89978449

東京経済オンラインより、海外での「子どもの学校選び」はココが肝心
どこにする!?日本人学校、インター、現地校

評価される帰国子女

やはり人数で比較すると帰国子女は少数派である.日本の子どもが約1400万人いる中、帰国子女の割合は毎年1万人程度しかいない.総合数で見ても義務教育課程の中に帰国子女がいる可能性は極めて低い.そのためか日本の教育現場でも社会からも帰国子女は特別扱いされる場合が多い.推薦入試で帰国子女が優遇されるケースが多かったり、入試に帰国子女専用が用意されるなどの特別待遇がある.

ミクロの視点でも優遇はあるそうで帰国子女というだけで代表に選ばれたり、学校の顔になるパンフレットに載ったという話がある.実際に僕も日本に帰国した時点で勉強はあまりできなかったのにも関わらず数学では上位クラスに入れられた.(今思えば勉強できないのが徐々に顕になった恥ずかしい話ですが)

たった1年海外に住んでいれば日本に帰って来れば特別な待遇が受けられる帰国子女は羨む存在かもしれない.今でも留学がブームになり短期留学という1、2ヶ月だけ海外に行く人だったり中には数週間だけ海外で暮らす人もいる.僕はこんなバカバカしい人はいないな、とは思うのですが読者の方々も腑に落ちる部分はあるかと思う.

僕は帰国子女を評価(特別待遇)するべきではないと思うし、むしろ可哀想だと思ってしまう.僕の境遇にも関わってしまうので途中に主観が混ぜってしまうのだがご容赦いただきたい.

価値観の相対性

ポストモダン化が21世紀を象徴すると言っても過言ではないが、その特徴とも言えるのが価値観の相対性である.

価値観というのは自己形成される内在的なもので外部からの影響を直接受けるものでもある.特に成長の過程である幼少期の影響が強く小学校高学年になると事柄の判断は価値観により判断される.

要は幼少期の環境変化というのはそのまま自己形成されていくということだ.ここでの価値観というのは君子豹変のような昨日の自分と今日の自分は違うというような表面上の変化ではなく、奥深くに存在する自己決定のベースになる部分の価値観である.

1番納得できるのが「なんとなく」と言ったような抽象化された表現は特に価値観の左右が大きい.例を挙げるならば人種が理解しやすい.日本人の多くが反韓、反中として考えているらしいが、その決定材料となるのは個々の抱える価値観であり抽象化された視点である.

人生で一度も中国人とは関わりを持ったことがない人は少なくないが、その中にも反中国思想の人はいる.関わりを持っていないのにも関わらず「中国人は嫌いだ」という文脈ができてしまう.なんともバカらしい話なのだが.

そのコンテクストには勿論「なんとなく」の抽象さが混じる.テレビで中国人が問題を起こした.日本人の書いた旅行記に中に中国人のぼったくられた話があった.そんな材料が集まり自分の中で勝手に形成されるのが深い価値観である.

少し話が脱線してしまったが、要は価値観の形成される義務教育過程の環境変化は大きいものであり、その後の人生を変えるほどの力を持っているということである.

ノーベル賞受賞者の作家のカズオ・イシグロ氏は生まれは長崎県だが育ちはイギリスであり、自身も英語が中心であり日本は話さないという.彼は帰国子女の枠組みではないが幼少期に海外で育ったことにより日本語が流暢に話せないほどの環境変化を受けたということだ.

他にもイギリスに住む家族がアメリカに移住し子どもがアメリカの学校に通うと短期間でイギリスの訛りが消え流暢なアメリカ英語を話すようになった話もある.

これが大人であれば数年、数十年住んでも日本語が軸のまま変わらないし英語が流暢であっても日本語も同時に流暢である.(日本に全く触れる機会がなく英語にしか触れない環境であれば結果は変わるかもしれないが)

そのため帰国子女が日本に帰ってきて優遇される理由の一つに価値観の相違があるのは確かである.簡単に言えば遣唐使がいたように外国の文化が日本で重要視されるのである.島国である日本が外国の文化が入ってこないというのは死活問題に近しい.白村江の戦いがあり日中間の関係が最悪の状態でも文化の交流は閉ざされず、江戸時代の鎖国でも一部の国は交流が行われ外国の文化を取り入れた.

帰国子女が特別な存在として評価されるのは島国特有の内側文化に先鋭が出現する典型例であることも考えられるのではないだろうか.

しかし価値観の変化というのは先ほども言ったように一朝一夕で変化するものでもなければ知ることによって次の日には別の人間と言える君子豹変とは全く違う.

少なくとも小学校低学年から中学校までを生活してきた人間が違う価値観を持っているのではないかと思う.それは留学でも一時滞在で成り立たない現地の深い価値観が幼少期の環境変化によって染まるものだからである.

客観性の帰国子女

僕を含め帰国子女には良くも悪しくも客観性がある.この客観性というのは物事を俯瞰的に見る力という使われ方をするが、僕の場合はそれしかできない.国籍は日本人だが日本に住んだことがないので日本よりは住んでいた土地の人間に近い部分が多い.

僕の1番の思い出に中学生の頃、中学の仲の良い友達と一時帰国した時に遊ぶ約束をして東京観光をしたことがあった.その時の感動というか驚きというか言葉に表せない感情が常にセレンディピティとなって記憶に定着されていったのが記憶に残ってる.

日本のコンビニで一人で買えたアイスだったり電車に乗る時に自分で切符を買ったり.人混みの中で斜めがけのカバンが盗まれないように前に持ってきたり.何だが不思議な気分だった.

その後も一人で買い物をすることが楽しく、別に用もないのに文房具屋さんにいって新しいペンを買ったりお菓子を買ったりすることがあった.正に未知の体験だ.

少し思い出話に浸ってしまったのだが、客観性というのは論理的回路で生み出されるものではなく、結局は状況や経験でしか客観性は生まれないということである.例えば日本の高齢者をどうするか?という問いがあったとしよう.実際に一部の経済学者が問題発言を言い放ったりしているみたいだが、経済的、数理学的に言えば主張は間違っていない.今の社会を後期の若者に託すという面は矛盾しない.しかし日本という国は老人を大切に扱うし、困っていたら手を差し伸べる国だろう.(最近はその風潮も薄れてきているが)

その問題を客観的に述べよと言われデータを出しても結局は日本の中にあるエートス的価値観や空気によって主張は日本人的になる.データを並べてもそれはデータの紹介にしかすぎず、客観的主張となった場合、先ほどのような過激な発言に陥ってしまう.清純なキリシタンに「神はいると思いますか?」と聞いても「いるに決まっているだろう」と返されるのと同じである.客観的に言えと言おうが「いるものはいる」のである.

その点僕は故郷が無ければ日本の文化も根付いていない.未だに初詣をする意味はわかっていないし、学校の制服制度だったり髪色に対する異様な神経質さには疑問が残る.(別に批評ではなく、それが日本としてのあるべき姿なのかもしれない.)

道徳のような愛国心教育は僕のような故郷がない人間にとっては無意味な時間とも言える.日本のために死ねるというかいう人間の心情が全くわからない.自分は自分で何故国に命を捨てられるのか.もし日本で戦争が起こるというのなら僕は迷わず海外に逃げる選択肢を取る.これに関しては僕の主張なので他の人は知らない.

日本人だが日本は外国という認識で母国という理解はなかった.

帰国子女の定義をどう捉えるのか

帰国子女として帰国すると現地との相対性というか齟齬が生まれることがある.実際に僕が日本に帰って来た時はその土地の価値観についていくのに必至だった.というのも幼稚園から中学校の途中まで海外だった僕にとって日本という環境は正に別世界への転生にも思えていた.

帰国した人の話を聞くと「日本人は非情で助けてくれない」「境遇が違うために友達ができ
ない」なんて言葉を言われたのも相乗して不安は増していった.残念ながら不安は現実になり中学校の中で長年出来上がっていたコミュニティに入ることができず苦労した.

そんな苦労話はどうでもいいとして、帰国子女というレッテルには疑問が残る.定義を確認してみると

保護者の海外勤務など子供の意思以外の止むを得ない理由により、1年以上の海外滞在を経て帰国した小学校から高校までの年齢にある子供のこと

となっている.これにより日本に帰ってくると帰国子女として帰国子女枠として受験することができるようになる.別に反対派の意見ではないが、実際に海外で1年住んでみてほしい.と思う.1年程度であればただ少し英語が得意になった生徒程度であろう.海外留学で日本に帰ってくると人が変わったように性格が変わった人を「海外かぶれ」なんて揶揄されるが正にそうである.

1年程度で今まで培ってきた価値観が大きく変化することはない.そこは理解しておくべき部分である.小学校6年間というアイデンティティの形成に重要な時期を海外で過ごせば価値観は日本的ではなくなるに違いない、その部分の線引きは個々による評価になるため批評はできないが1年程度で帰国子女として外部の人間として扱われることには個人的に疑問だと思う.



ここまで読んでいただき本当にありがとうございます.今回のテーマは「帰国子女は何者か」でしたが僕も問いに上手な回答ができた自信はありません.(むしろ個人的な思想が混ざっていたようにも感じられる)

僕は日本人ですし、日本の文化を尊重します.しかし価値観で言えば差異があるし、日本人的ではないと批判されるかもしれません.それは相対的であり民主主義を尊重する日本に任せたいと思います.改めてここまで読んでいただいた読者の皆様ありがとうございました.

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