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畔柳二美と1955年の映画劇『姉妹(きょうだい)』

王子製紙苫小牧工場、畔柳二美

1872年(明治5年)2月12日、31歳の澁澤榮一(1840年3月16日~1931年11月11日)が大蔵省大蔵少輔(おおくらのしょうゆう)(大蔵大輔おおくらのたいふの次席だが、大輔と同等の地位・権限をもった)事務取扱紙幣寮(現在の財務省印刷局の前身)の紙幣頭(しへいのかみ)(現在の印刷局理事長に当たる)に任命された。

1872年(明治5年)、石川県能登のと出身の柴田與次右衛門(しばた・よじえもん)が北海道札幌市の石狩川水系の創成川そうせいがわの近くの中央区南1条西2丁目付近において柴田酒造店を創業、数年後には清酒を造り始めた。

1873年(明治6年)2月、輸入に頼っていた大量定期出版物用の洋紙の国産化を企図して、32歳の澁澤榮一が中心となり「抄紙(しょうし)會社」(後の王子製紙)が設立された。

1874年(明治7年)1月、33歳の澁澤榮一抄紙會社の事務担当(頭取)となった。

1875年(明治8年)4月、大蔵省紙幣寮抄紙局が設置された。

1875年(明治8年)6月、抄紙會社の東京の王子工場が竣工し、8月に本社を王子工場に置いた。

1875年(明治8年)12月16日、抄紙會社の開業式がおこなわれ、新聞用紙の抄造を始めた。

1876年(明治9年)4月14日、23歳の天皇が抄紙局の視察の帰途、抄紙會社を視察した。

1876年(明治9年)5月1日、 紙幣寮の命を受け、抄紙會社が社名を「製紙會社」と改称した。

1877年(明治10年)12月、東京霞ヶ関一丁目の有栖川親王邸でおこなわれた49歳の西村茂樹(1828年4月26日~1902年8月18日)の演説「富國强兵説」を引用する。

方今ほうこん西洋諸國ノ有樣ヲ言フ者、或ハ國富くにと兵强へいつよシト云ヒ、或ハ開化文明ト云フ、いづレモ相應そうおう其實そのじつかなヒタル名ナリ、世ノ西洋ノ事ヲ談スル者ハ、ややモスレハ富國强兵ヲもつテ一樣ノ物トナシ、同シ方法ヲ以テこの二者ヲ併セベシト思フ者多シ、余ガ如キモ若年ノころハヤハリ同樣ノけんニテ、西洋ノ事ヲ學ブト云ヘバ、富國强兵モ文明開化モ一途いっとノ方法ヲ以テシ得ベシト思ヘリ、近年西國ノ歷史ヲ讀ミ、又哲學者ノ論絶等ヲ考ヘ、始メテ富國强兵ト文明開化トハ全ク別種ノ物ニシテ、同シ手段ヲ用ヒ同シ時代ニ於て、兩ナガラ之ヲ得ントスルハ極メテ難キ事ナルヲ知レリ、

1878年(明治11年) 12月10日、大蔵省紙幣局印刷局と改称し、銀行業務を分離した。

1882年(明治15年)7月、印刷局の命により、製紙會社が郵便葉書原紙の抄造を開始した。

1882年(明治15年)11月1日、東京銀座に初めて電燈(アーク燈)が点火した。日本の夜間電気照明時代が訪れた。

1885年(明治18年)10月9日、日本が国際的な度量衡どりょうこうを統一するメートゥル法協約(Convention du Mètre)に加入、調印した。

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝國憲法が発布され、日本領土全国を単一の公共統治体(common political corps)とみなすことが明文化された。日本人と言う概念が日本国の公共民を指すことも増え始め、同時代日本語の適度な読み書きができる中間教養人のあいだで、軍事経済強国を仮想敵とみなす集団国防意識も高まり始めた。

1890年(明治23年)9月、日本に初めて輪転印刷機が輸入された(政府2台、朝日新聞社1台)。

1891年(明治24年)3月24日、度量衡法が公布され、1893年1月1日に施行された。基本単位はしゃくかんだった。

1893年(明治26年)11月8日、製紙會社王子製紙株式會社と改称した。

1894年(明治27年)10月1日、東京商品取引所が開業し、11月、王子製紙の株式の売買が始まった。

1897年(明治30年)、柴田酒造店を中心に7酒造店が合併し、南3条東5丁目付近に札幌酒造合名會社が設立された。当時の主要銘柄は「富久天狗ふくてんぐ」だった。

1898年(明治31年)、フランス人司祭のアンリ・ラフォン(Henri Lafond)が北海道札幌市中央区北1条東6丁目に聖堂と司祭館を兼ねたカトリック北一条教會を建立した。1階が司祭住宅、2階が会堂となっていた。

1908年(明治41年)8月12日、北海道苫小牧とまこまい王子町おうじまちから支笏湖しこつこまでを結ぶ王子製紙苫小牧工場専用鉄道(山線・王子軽便鉄道)が運航開始した。

1909年(明治42年)12月2日、苫小牧市王子町の王子製紙苫小牧工場が仕上室屋上で上棟じょうとう式をおこなった。

1910年(明治43年)5月28日、支笏湖を水源とする北海道千歳ちとせ郡千歳村(現・千歳市水明郷すいめいきょう)の千歳ちとせ川に苫小牧の製紙工場の電力供給を目的として王子製紙千歳第一発電所が完成した。

1910年(明治43年)6月、千歳川第一発電所が完成、7月12日に送電開始した。

1910年(明治43年)9月1日、王子製紙苫小牧工場が操業を始めた。工員数は男612人、女28人だった。
紙質においても価格においても外国産に劣らない廉価の新聞用紙の生産に成功した。

1911年(明治44年)9月12日、32歳の皇太子(1879年8月31日~1926年12月25日)が王子製紙苫小牧工場を視察した。この日をもって苫小牧工場開業記念日とした。

1912年(明治45年)1月14日、王子製紙千歳第一発電所の社宅で、発電所技師・遠藤彌次郎の二女として二美(ふみ)(畔柳くろやなぎ二美、~1965年1月13日)が生まれた。

1912年(明治45年)、岡山県出身の片岡唯一郎(1873年5月~1956年11月19日)が札幌の中央区南4条東1丁目において酒造会社7社を合同して片岡合名會社を設立した。

1915年(大正4年)12月から2か月間、小学5年生の途中で学校を辞めた11歳の佐田イネ(佐多稲子、1904年6月1日~1998年10月12日)は、東京の神田かんだ和泉橋いずみばしにあった堀越嘉太郎商店の「ホーカースヰート」キャラメル(10個入りの小箱が5銭で20個入りが10銭)工場で日給17銭、向島むこうじまから和泉橋までの往復の市電の電車賃が朝5銭、夜7銭で働いた。

1916年(大正6年)3月、王子製紙千歳川第二発電所が竣工、発電開始した。

1918年(大正7年)、片岡合名が札幌市の大通東一丁目角へ酒蔵を移し、清酒の銘柄を「千歳鶴ちとせづる」「百寶正宗ひゃくほうまさむね」と称した。

1918年(大正7年)5月10日、王子製紙千歳川第三発電所が竣工、発電開始した。
千歳第三発電所の取水口である堤高23.6mの千歳第三ダムは北海道で初めて建設されたコンクリートダムだった。

1919年(大正8年)11月、王子製紙千歳川第四発電所が竣工、発電開始した。

1921年(大正9年)7月8日、北海道虻田あぶた郡ニセコ町曽我にある尻別川しりべつがわの王子製紙の尻別川第一発電所が竣工、発電開始した。

1922年(大正10年)4月、王子軽便鉄道が一般乗客を受け入れた。

1924年(大正13年)4月、19歳の佐田イネが資産家の跡取りの26歳の慶応大生・小堀槐三えんぞうと結婚し、蒲田に住んだ。

1926年(大正15年)7月、22歳の小堀イネが23歳の窪川鶴次郎(1903年2月25日~ 1974年6月15日)と事実婚の関係になり、9月に小堀槐三と離婚した。

1926年(大正15年)11月、王子製紙尻別川第二発電所が竣工、発電開始した。

プロレタリア藝術聯盟の機関誌『プロレタリア藝術』(マルクス書房)1928年(昭和3年)2月号に、25歳の中野重治(1902年1月25日~1979年8月24日)から随筆を書くように言われた23歳の窪川稲子(佐多稲子)の処女作「キャラメル工場から」が掲載された。
主要読者層は若い社会主義者、共産主義者だったと思われる。

北海道札幌市の4年制の北海高等女學校卒業直前の16歳の遠藤二美が、窪川稲子にファンレターを送り、文通を始めた。
1928年(昭和3年)3月、遠藤二美が女学校を卒業した。

1928年(昭和3年)3月、王子製紙の北海道恵庭えにわ盤尻ばんじりの千歳川支流の漁川いざりがわにある恵庭発電所が竣工、12月に発電開始した。

1928年(昭和3年)4月、政府の業界企業合同の要請に応えて、札幌の札幌酒造片岡合名、旭川の笠原合名、小樽の岡田合名、帯広の坂井酒造店など合わせて8社が合同し、日本清酒株式會社を設立した。
本社を札幌市に置き、札幌酒造工場を清酒工場とし、統一銘柄を「千歳鶴」とした。「壽みそ」の醸造を開始した。

1930年(昭和5年)4月3日、「日本プロレタリア作家叢書」第八篇、25歳の窪川いね子著『キャラメル工場から』(戰旗社、60銭)が刊行された。
裝幀は27歳の松山文雄(1902年5月18日~1982年3月3日)だ。

1932年(昭和7年)1月、27歳の窪川いね子の28歳の夫・窪川鶴次郎が非合法の日本共産黨に入党した。窪川鶴次郎は3月24日に検挙され、5月4日に起訴された。いね子もこの年、日本共産黨に入党した。

1933年(昭和8年)11月、獄中の30歳の窪川鶴次郎の結核が再発し、政治活動をしないという条件で保釈となった。

1936年(昭和11年)、24歳の遠藤二美が東京帝國大学在学中だった畔柳くろやなぎ貞造と結婚した。

1940年(昭和15年)4月13日(2回)、14日、20日、東京市世田谷区のNHK放送技術研究所のスタジオから、31歳の伊馬鵜平(1908年5月30日~1984年3月17日)原作、川口劉二、23歳の坂本朝一(さかもと・ともかず、1917年3月28日~2003年12月31日)演出、日本初のテレビドラマ『夕餉前(ゆうげまえ)』(約12分)がNHK東京放送會館の受像機、愛宕山の「常設テレビ觀覧所」の受像機、百貨店・日本橋三越で開催され中の「電波展」の受像機に送信された。
20日には、東京日日新聞主催で開催中の「輝く技術博覧会」の会場である上野の産業會館の受像機にも送られ、一般に公開された。
父をすでに亡くし、母と息子と娘の3人で暮らしている母子家庭で、娘が縁談を経て嫁ぐこととなった日、家族3人が食卓を囲んで、夕食の前にこれまでの生活を振り返る。
母を新協劇団員の35歳の原泉子(はら・せんこ、1905年2月11日 ~1989年5月21日)、兄を26歳の野々村潔(1914年9月23日 ~2003年1月22日)、妹を関志保子が演じた。
原泉子は38歳の中野重治の妻だった。関志保子は26歳の宇野重吉(1914年9月27日~1988年1月9日)の妻だった。

1941年(昭和16年)1月3日、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)銀座で、26歳の野々村潔と女優の山岸美代子の長女・岩下志麻が生まれた。

2001年(平成13年)7月、86歳の野々村潔著『新劇運動回想』(日本芸能実演家団体協議会、本体1,800円)が刊行された。
帯表紙に60歳の岩下志麻の言葉「父の愛し闘った新劇運動の一つの足跡は、娘としてではなく一人の俳優としても、歴史として後世に残して欲しいと思います。」と岩下志麻の顔写真が掲載された。

1941年(昭和16年)2月6日、王子製紙千歳川第五発電所が竣工、発電開始した。千歳川水力発電所群が完成した。

畔柳二美『姉妹(きょうだい)』

1945年(昭和20年)1月、レイテ島(Leyte)で、33歳の畔柳二美の夫・貞造が戦死したが、その公報が二美に届いたのは3年後の1948年(昭和23年)3月だった。

1945年(昭和20年)5月、40歳の窪川稲子が42歳の窪川鶴次郎と離婚した。

1946年(昭和21年)秋頃、兵庫県武庫郡瓦木村(現・西宮市甲子園口)に住んでいた戦争未亡人の34歳の畔柳二美が42歳の佐多稲子との文通を再開し、小説の習作を送り指導を仰ぐようになった。

1947年(昭和22年)5月18日、神奈川県横浜市保土ケ谷区で、宇野重吉関志保子の長男・寺尾聰(てらお・あきら)が生まれた。

1947年(昭和22年)6月8日、奈良県高市郡(現在の橿原市)橿原神宮外苑で、日本最大の教職員団体、日本教職員組合日教組にっきょうそ)が結成された。

日本共産党の機関紙『新しい世界』(日本共産黨出版局事業部)第3号(1947年8月)は、占領軍の検閲を受けた。
全文が発禁(suppress)となった55歳の野坂参三(1892年3月30日~1993年11月14日)の「共産黨の戰略戰術」には、「日本における支配階級は資本家だけではない。地主もいる。それから天皇制的な軍閥官僚、この三つが今まで日本の支配勢力であつた。そこで、われわれは、まず封建的なもの、すなわち天皇制的勢力と地主とを倒さなければならない。これがすなわちブルジョア民主主義革命である。」とあった。
アジアの共産主義」、野坂参三なぜ理論は學ばなければならぬか」、59歳の川上寛一(1888年1月28日~1968年9月12日)「共産主義とは何か(一)」が削除され、これらに替え、野坂参三ある國境の町」、立野三郎映畫の面白さ」などが掲載された。

1948年(昭和23年)11月、36歳の畔柳二美が44歳の佐多稲子の熱心な勧めにより、東京都武蔵野市吉祥寺に移った。

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女流文學者會の機関誌として1号だけ出た季刊『女人(にょにん)芸術』(鎌倉文庫)第一集(1949年(昭和24年)1月)に、佐田稲子の推薦により、畔柳二美の初の短篇小説「夫婦とは」が掲載された。

1951年(昭和26年)1月24日、25日に開かれた日教組第18回中央委員会で43歳の千葉千代世(ちば・ちよせ、1907年4月6日~1991年3月10日)の提案による言葉「再び教える子を戦場へ送らない決意のもとに」を盛り込んだ、「全面講和(共産主義国家の評議会同盟(ソビエト連盟)を含む講和)、中立維持、軍事基地反対、再軍備反対」の「講和に関する決議」が採択された。

2020年(令和2年)2月発行、60歳の広田照幸(1959年8月2日~)編『歴史としての日教組結成と模索』(名古屋大学出版会、本体3,800円)によると、1951年(昭和26年)5月29日から開催された日教組第8回定期大会で、6月1日、「平和憲法を守り教え子を再び戦場に送るな」のスローガンが正式に決定された。

近代文学1953年7月

近代文學』(近代文學社)1953年(昭和28年)7月號の巻頭に、北海道千歳郡千歳村(現・千歳市字水明郷)出身の41歳の畔柳二美の小説「姉妹(きょうだい)」が掲載された。
続いて、『近代文學』1953年(昭和28年)10月號、12月號、1954年2月號に、畔柳二美姉妹」が掲載された。
1924年(大正13年)の春、北海道、札幌の伯母の家に預けられ、六年制の尋常小学校を出て12歳で四年制(尋常小学校卒の場合)の女学校に入る、四尺八寸(145㎝)と、甘いものが大好物でチビの近藤俊子(1月14日生まれ)と、二年制の高等小学校を出て15歳で二年制の裁縫女学校に入る、カトリックの五尺二寸(158㎝)と大柄で面長で太った姉・圭子を描く。
姉妹には丸顔で小柄な33歳の母、発電所勤務の父、10歳、6歳、1歳半の弟がいる。
二美の生まれ育った遠藤家は姉八重、弟彌弘の五人姉弟だった。
物語は札幌市と50km以上離れた山の中の千歳第一発電所を舞台に、圭子が卒業後、札幌の百貨店・五番舘で1か月働いたのち、1929年(昭和4年)頃、20歳で嫁ぐ日までの5年間の姉妹の思春期の5年間の日常の出来事を描く。

親類の18歳の兄と15歳の妹の近親相姦と妊娠、近所の16歳の娘の鉄道自殺、父親が店の金を横領して失踪した同級生の退学、5年間寝ていた夫が中気で死んだ女性が生活に困って売りに来る美人娘、2年生の俊子の同級生の栗島さんの突然の病死、千歳の隣村の農家の若妻の鉄道自殺、父は盲人、母は足が立たず、親孝行だが脊椎カリエスで4年入院し、大小便にまみれて死ぬ20代末の知り合い「はっちゃん」、発電所の夜勤の水槽係の田村さんの水槽転落死、知り合いに嫁として紹介した25歳の娘と駆け落ちした47歳の夫を苦にして病気になり、自殺する札幌の伯母さんなどの主に貧しい女性の不幸の数々が、俊子の身近な出来事として、笑いを交えつつ、風物誌と並行して淡々と描かれている。

『姉妹』の俊子は年齢的に大人になりきれていないという口実の下、社会道徳、作法からはずれた言動をおこない、それが笑いを誘いもするのだが、無邪気という口実の下、性差別、身分差別に基づく競争社会の残酷さを突き付ける。

例外的な富裕層の登場人物は、札幌の新聞の長者番附の大関だった豊平川の側の酒屋の近藤さんだが、女子校の2年生の近藤さんの東京の目白の女子大に通う姉の顔半分は片目を潰して火傷の跡があり、近藤さんの11歳の弟は骨軟化症、巨頭症だ。

孝行娘「はっちゃん」の不幸について「はつちやんの家」より引用する。

 はつちやんは伯母さんの昔からの知りあいだ。伯母さんがまだ若くて札幌へきた当時、はつちやんは毎朝、ほつぺたを真つ赤にして納豆を売り歩いたのだ。ある日、新聞をみると「孝行娘」と書いて、はつちやんの写真が載つていた。はつちやんのおとうさんはめくらで、おかあさんは足がたたないのだ。そのご、はつちやんは髪結いさんになつて、ながいあいだ親孝行をしたが、とうとうゼキズイ[ママ]カリエスになつて入院してしまつた。
 その、はつちやんが、四年ぶりで退院したので、早速、伯母さんの家へ挨拶にきた。
「いい娘さんたちね。気にいつたわ」
 姉妹をみるなり、色白で細い身体のはつちやんは、真白な歯をみせて、につと笑う。年は、二十七八だ。
「おとつつあんや、おつかあんはお達者かい」
 すると、ギブスをはめてるはつちやんは、両手をぎゆつと組みあわせて、ひざの上に伸ばした。
「ええ、おかげさまで。でもねえ、大掃除を四年もしないので、玄関には衛生検査落第の赤紙が十五六枚もベタベタ、はつてあるの」

雪下駄」より、はっちゃんの家でのはっちゃんの両親と、秋に続いて二度目の掃除に行った俊子の会話を引用する。

 お父うさんも、お母あさんも、口をモグモグ動かしながら、何度も礼をいう。
「私たちは、なんにも悪いことをしないのに、こんな不具者になつた上、貧乏なので悲しいですよ」
「せめて、お金もちであつたら、いいと思いますね。お金もちはいいですよ。なんの、苦労も、ないですものね」
 お母あさんは、姉妹を見つめて目を細める。俊子はそこで、目を丸く見開いてしやべりだした。
「あのね、おじさん、おばさん。お金もちに苦労がないとばかりはいえないわよ。私のともだちでね、お金もちなのに、とつても不幸なひとがいるの」
「へえ、そうですかね」
「俊子さん、どんなふうに、不幸なんですか話して下さいよ」
「豊平の近藤さんつて酒屋さん知つている?」
「あゝ、あの大関の金持ですな」
「近藤ですね。あの大金持ちの」
「そうなの、あそこの娘私と同級なの。でもかわいそうよ。姉さんが顔に半分火傷をしていてひきつつているし、弟は、もう十二ぐらいなのに、三つぐらいの身体で、頭ばかり大きい福助さんなの」
「ほう、それは、それは、かわいそうに」
「その上ねえ、おじいさんは酒樽へおちて死んだんだつて。皆がいつているわよ。あんなにかたわばかり……」
 圭子の手が、そつとのびて俊子のお尻をつつく。だが、俊子は話に夢中なのだ。
「あんなに、かたわばかり揃つているのは、きつとなにか悪いことをしてお金……をいたいね姉さん。悪いことをしてお金をもうけた……。姉さん、いたいね」
 すると、目のみえないはつちやんのお父うさんが、にこにこ笑いながらいつた。
「お姉さん。俊子さんのお尻をつねつてはいけませんよ。俊子さんは純真なんですよ。心に汚れがないのですよ」
「そうだよ、そうだよ」
 そして、今度は、お母あさんが続けた。
「私たちがかたわになつてから、家へきて、かたわの話をしてくれたのは、俊子さんがはじめてですよ。貧乏な私たちを慰めようと、いつしよけんめいになつてくれたんですものね」
 とたんに、俊子は、真つ赤になつてしまつた。

寄宿舎の近くの角山商店の借金を二か月で返した、3年生の14歳の俊子の秋を描く「さまざまな不幸」より「はっちゃん」の死への言及、俊子と下宿屋を始めた不幸な伯母さんの会話を引用する。

 盲目のおとうさんと、足のたたないおかあさんを養うために、小さいときから納豆うりをしたり髪結いさんになつたりして働いたはつちやんが、昨夜息をひきとつたのだつた。病院費はもちろん、その日にたべるものさえないほどだつたので、はつちやんは、大便と小便にうずまつて、死んでいた。おとうさんも、おかあさんも、寝床の汚れていることを知つてはいたが、着がえのぼろきれさえなかつたのだ。
「近所のひとが、みてあげればいいのに……」
「近所つたつて、あのへんは、みな困つているよ。そりや、二日や三日ならほつてもおきあしないがね。半年、一年となりや、知つていても、手がでないやね」

1928年(昭和2年)6月、高等女学校3年生の14歳の俊子の仮寄宿舎生活を描く「忘却の彼方」に、1927年(昭和2年)3月18日に新宿武蔵野館で封切られた、37歳のロナルドゥ・コルマン(Ronald Colman、1891年2月9日~1958年5月19日)主演のアメリカ映画『ボー・ジェスト』Beau Geste(101分。1926年8月25日ニュー・ヨーク公開)への言及がある。

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 だが、俊子はぷんぷん。後向きになつてしまう。二人はぬけだして、夜の映画見物にいつていたのだ。
 やがて布団に入つた山本さんが、ふだんの無口もどこへやら、静かな声で話しだす。
「主演は、ロナルド・コールマン。外人部隊の兵士なのよ。……そこは、広い砂漠なの。ずーと見渡すかぎり、えんえんと続く砂、砂、砂なのよ……」
 皆は、溜め息をつき、涙を浮かべ、ふくいくとした鈴蘭の香りにひたりつつ熱心に耳傾ける。俊子も、いつかしら暗がりに目を据えたまま、じつと耳をすます。彼女の目前には広漠とした南国の砂漠が、そこを歩く疲れきつた兵士の姿が、ちらちらちらちら映る。
 語り手も、聴き手も、深夜まですすり泣きが続く。俊子は、明朝の伯母さん訪問などもう忘却の彼方に置き去りだ。

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札幌の中島公園菖蒲池で1925年(大正14年)2月21日の紀元節に始まった「氷上カーニバル」に1928年(昭和3年)2月21日、25歳の秩父宮ちちぶのみや雍仁やすひと親王、1902年6月25日~1953年1月4日)が参加した時のことが、4年生の卒業間際の俊子が仮装大会に参加する「カーニバル」に出てくる。

 二月になつた。札幌の中島公園のスケートリンクの氷の質は上々だ。今日はカーニバル。午後五時からこのスケートリンクで仮装大会がひらかれる。その上、東京からは、天皇さまの弟宮さまがいらしているので、札幌じゆうは沸きかえるような大さわぎ。

 リンクのまわりの黒山の人波は、仮装のひとが姿をあらわすたびに、カン声をあげて拍手で迎える。サムライ、芸者、神主、坊さん。しかし、人気のあるのは女性群。前かけ姿のオランダ娘やロシヤ娘が、きれいな化粧顔であらわれる。
「うわあー」
 今度は、両頬に巻毛をつけた濃艶なカルメンだ。彼女がすべりだすや、胸のあたりにキラキラキラキラ宝石が輝く。次は、全身ピカピカ、キラキラまぶしいほどのサロメの姿。六人の木綿の天使が、手を組みあわせて滑りだしても、誰もふりむく人もいない。やがて宮さまもスケートでご出場、楽隊の音が、ひときわ高くなりひびく。一行は宮さまのうしろについて、リンクを一周二周三周四周。そのうち宮さまの侍従が次々にすつてんころりん。宮さまも二度ほど転んで、カルメンやサロメの手におすがりになる。

姉妹

1954年(昭和29年)6月30日、畔柳二美著『姉妹』(講談社、250円)が刊行された。
装幀は勝呂忠(1926年5月10日~2010年3月15日)だ。
帯表紙に「新進女流作家として嘱望される畔木氏の詩情長篇ついに完成。牧歌的風土に愛する姉妹の成長を描いたエスプリあふれる話題作。」とある。

1954年(昭和29年)6月22日、39歳の神谷量平(1914年9月14日~2014年1月26日)、42歳の家城巳代治(1911年9月10日~1976年2月22日)、寺田信義(1932年~)、43歳の井出俊郎(1910年4月11日~1988年7月3日)脚本、家城巳代治監督、27歳の内藤武敏(1926年6月16日~2012年8月21日)、22歳の香川京子(1931年12月5日~ )主演の日教組後援、キヌタプロの映画劇『ともしび』(97分)が公開された。

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ともしびパンフ

1954年(昭和29年)6月24日、1929年(昭和4年)12月4日発行、「プロレタリア作家叢書」4、德永直(とくなが・すなお、1899年1月20日~1958年2月15日)の小説『太陽のない街』(戰旗社、1円)原作、立野三郎脚色、43歳の山本薩夫(1910年7月15日~1983年8月11日)監督の新星映画の映画劇『太陽のない街』(140分)が公開された。

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「婦人倶楽部」1955年4月

婦人倶楽部』(大日本雄辯會講談社)1955年(昭和30年)4月号に、17歳の野添ひとみ(1937年2月11日~1995年5月4日)、18歳の中原ひとみ(1936年7月22日~)「二人のひとみ「姉妹」対談」が掲載された。

映画ファン』(映画世界社)1955年(昭和30年)4月号、「同名対談」第4回、17歳の野添ひとみ、18歳の中原ひとみ私たちはたべざかり」は立野三郎企画、42歳の新藤兼人(1912年4月22日~2012年5月29日)、43歳の家城巳代治脚本、家城巳代治監督の映画劇『姉妹』撮影中の山梨県の山中でおこなわれた。

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シナリオ姉妹

1955年(昭和30年)4月10日、 17歳の野添ひとみ、18歳の中原ひとみ主演の中央映画の映画劇『姉妹(きょうだい)』(95分)が公開された。
少女アイドル的なスター女優が主演だが、内容は同時代の社会経済問題を扱っているため、主要な観客層は中学生から30代くらいまでだったと思われる。
野添ひとみは高校3年生と卒業の1年後に結婚する、空気を読みすぎ、信心深く禁欲的な姉、中原ひとみは中学3年生と高校1年生の、空気を読まなすぎ、自由奔放で姉に叱られてばかりだが姉のことが大好きな子供っぽい少女を演じた。
設定を同時代の1954年(昭和29年)の秋から1955年(昭和30年)の秋までの長野県の城下町「松林」(ロケ地は松本市)と松本から130km以上離れた山梨県の山奥の発電所のある「延川」(ロケ地は早川町)に置き換え、15日間にわたって松本市内でロケ撮影がおこなわれた。
埼玉県立浦和第一女子高等学校でも松林市内の「松林学園中学校・女子高等学校」のロケ撮影がおこなわれた。

26年以上前の原作の設定をある程度踏まえていることもあり、貧困、病苦、事故死、孤独死、人身売買などが女子高生にとって身近な出来事として描かれている。
岡青年と圭子のほのかな恋愛をほのめかす挿話は原作にはない。

ミリオン・ブックス姉妹

1955年(昭和30年)5月25日、「ミリオン・ブックス」、畔柳二美著『姉妹』(講談社、120円)が刊行された。
帯表紙に「1954年度 毎日出版文化賞受賞」「内気で古風な姉、チビだが勝気な妹、牧歌的な北海道の風土に成長する姉妹の女学生生活を描く名篇。全篇に溢れるユーモアと機智は、盛りあがる正義感と、ピチピチした躍動のリズムとともに、あなたに最も清潔な感銘と乙女の息吹を伝えるでしょう!!」とある。

42歳の中原淳一(1913年2月16日~1983年4月19日)編集の「十代のひとの美しい心と暮しを育てる」季刊少女雑誌『ジュニアそれいゆ』(ひまわり社)1956年(昭和31年)(第7号)「特集:新しい年に」(180円)の特集「新しい年のホープ」に、19歳の中原ひとみ、18歳の野添ひとみ、19歳の久保明(1936年12月1日~)、21歳の石浜朗(いしはま・あきら、1935年1月29日~)、16歳の浅丘ルリ子(1940年7月2日~)、19歳の中川弘子(1936年12月3日~)、18歳の山田真二(1937年3月25日~2007年10月15日)、20歳の芦川いづみ(1935年10月6日~)が取り上げられた。

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中原ひとみ
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少女ブック』(集英社)1956年(昭和31年)11月号(表紙は11歳の鰐淵晴子、1945年4月22日~)の付録に、別冊まんが、畔柳二美・原作、山内龍臣・え『姉妹』が付いた。

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「少女ブック」付録「姉妹」

テレビ劇『あねいもうと』、『姉妹』

1959年(昭和34年)9月10日、「角川文庫」、畔柳二美著『姉妹』(角川書店)が刊行された。

1960年(昭和35年)9月30日、22時から22時45分まで、KRテレビで、三洋電機提供「サンヨーテレビ劇場」、畔柳二美原作、49歳の田井洋子(1911年8月9日~2008年3月13日)脚本、29歳の中川晴之介(1931年1月2日~2018年11月25日)演出、22歳の北沢典子(1938年3月15日~)、15歳の松島トモ子(1945年7月10日~)主演のテレビ劇『姉妹』が放映された。

1962年(昭和37年)4月24日、フジテレビで、20時から21時までのシャープ提供「シャープ火曜劇場」第35回、畔柳二美原作、44歳の若尾徳平(1918年2月12日~1976年12月6日)脚色、丹羽茂久演出、18歳の村田貞枝(1944年1月7日~)、天野紗綾子主演のテレビ劇『姉妹』が放映された。

1964年(昭和39年)11月、日本共産党の思想・政治的方針を批判した62歳の中野重治と共に、60歳の佐多稲子が党を除名された。

1965年(昭和40年)1月13日、野方の自宅で畔柳二美が亡くなった。53歳の誕生日の前日だった。

中二時代』(旺文社)1966年(昭和41年)8月夏増刊号の第4付録は、「夏休み傑作小説」(C)、石坂洋次郎(1900年1月25日~1986年10月7日)(作)、山中冬児(1918年~)(さしえ)『霧の中の少女』、畔柳二美(作)『姉妹』だった。

1968年(昭和43年)4月1日から1969年(昭和44年)4月4日まで、NHK総合テレビで月曜日から金曜日まで18時30分から18時45分までの「銀河劇場」で、畔柳二美姉妹』原作、NHK(大阪放送局)制作、40歳の西島大(1927年11月24日~2010年3月3日)、小田和生脚本、 島田弘演出、西尾三枝子(1947年7月11日~)、岡崎友紀(1953年7月31日~)主演の連続テレビドラマ『あねいもうと』全248回が放映された。
14歳の岡崎友紀はドラマが始まると同時に、大阪女学院中学校に転校した。
放映時間が平日の夕方なので、この時間帯に自宅にいることが多い専業主婦、小中学生が主要な視聴者だったと思われる。

主題歌は、有馬三恵子(1935年または1936年~2019年4月18日)作詞、34歳の鈴木淳(1934年2月7日~)作曲、20歳の伊東ゆかり(1947年4月6日~)歌「あねいもうと」だ。

今日という日がさみしくても
きっと明日はすばらしいわ
かすかな春が雪を溶かし
かすかな風が秋を運ぶ
そしてわたしは待っているの
きっと明日はすばらしいわ
そうでしょう お姉さん

時代設定は原作通り昭和の初めだが、舞台は兵庫県の山村と城下町の姫路市に移された。

材木の仲買商の石田直吉(夏目俊二、1926年11月4日~2014年12月21日)と結婚したおばミツ(高森和子、1932年3月21日~)の姫路市の家に下宿しながら、姉のけい子(西尾三枝子)は姫路高等女子職業学校(現・姫路女学院高等学校)に通い裁縫を学んでいる。妹のとし子(岡崎友紀)は姫路市立高等女学校3年生だ。

姉妹が休みのたびに帰省する山の発電所の社宅には、発電所の主任技師の父・健吾(西山辰夫、1928年7月8日~2016年6月23日)、母スミ(荒木雅子、1924年1月2日~)、弟のが住んでいる。

とし子には小学校時代からの藤岡五郎(杉山光宏)という友達がいた。五郎は姫路に出て働きながら勉強している。
けい子は隣に下宿している姫路高等学校3年生の麻生仁(近藤正臣、1942年2月15日~)に淡い想いを寄せていた。

その年の秋、とし子の担任の伊坂先生(三上真一郎、1940年9月16日~2018年7月14日)が急に結婚する。とし子は伊坂の妻・百合子と意気投合する。

けい子は卒業後、学校の先生になるかどうか悩んでいたが、突然スミに見合いさせられる。

年が明け、春も近いある日、けい子は小学校時代の親友・徳永春子から手紙を受け取る。母が長い間入院し、父が急死した春子は、とし子と同級だった妹の秋子と学校を辞め、働きに出ているという。

1968年(昭和43年)4月、畔柳二美著『姉妹』(講談社、290円)が刊行された。

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角川文庫・姉妹
「グラフNHK」あねいもうと
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ジュニア版日本文学名作選
ジュニア版姉妹

1971年(昭和46年)6月20日、当用漢字・新かなづかい使用、注・解説つき、原文を全文収載の小・中学生向き「ジュニア版日本文学名作選」55、畔柳二美著、岩本唯宏(1936年~) 絵『姉妹(きょうだい)』(偕成社、580円)が刊行された。
66歳の佐多稲子この本について」、「作者と作品について(解説)」が収められた。
この時点で、畔柳二美『姉妹』は大人向けの小説としての魅力を失ったとしても、小中学生向けの小説として需要があると考えられていたのだと思われる。

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1976年(昭和51年)12月13日から16日まで、NHK総合テレビの月曜から木曜日の18時05分から18時25分までの帯番組「少年ドラマ」シリーズ、畔柳二美原作、44歳の服部佳(1932年7月7日~)脚色、 吉田治夫演出、18歳の三浦リカ(1958年11月15日~)、和田麻里主演のテレビ劇『姉妹(きょうだい)』全4話が放映された。
昭和初期の北海道が舞台だ。家族と離れて札幌のおば夫婦の家に下宿する姉の17歳の圭子(三浦リカ)は裁縫学校、妹の13歳の俊子(和田麻里)は女学校に通う。
設定は原作に近いとしても、小中学生を対象と想定していたと考えられる。日本が豊かになったと広く信じられたこの時代には、もはや原作の設定を同時代に置き換えることはあまりに不自然になり、あえて子供にとって身近な現実と切り離された遠い昔のどこかという設定のままにされたのだろう。
それでもなお、贅沢消費の日常習慣が小学生にまで普及したこの時代の中間層の多くの子供たちには、物語の背景にある、中間層と極貧層の社会的格差の大きさという前提そのものが時代遅れと感じられたにちがいない。

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映画劇『姉妹(きょうだい)』あらすじ(ネタバレ)

きょうだいパンフ

松林学園中学校・女子高等学校(ロケ地は埼玉県立浦和第一女子高校)の放課後の生徒たちが掃き掃除をする校庭に、女学生の合唱が流れる。ジャック・オフェンバック(Jacques Offenbach、1819年6月20日~1880年10月5日)の歌劇『ホフマン物語』Les contes d’Hoffmann、1880年、未完)のソプラノとメゾソプラノの二重唱「ホフマンの舟歌(バルカローレ)」Belle nuit, ô nuit d'amourに緒園涼子(1905年~1947年)が訳詩を付けたものだ。

うるわし今宵 星も月も
あやかに映ゆる

高校3年生の近藤圭子(野添ひとみ)と、中学3年生で、近藤のチビなので通称「コンチ」と呼ばれている女子中学生の俊子(中原ひとみ)の長袖の制服の姉妹が仲よく下校する。背後のお濠と城壁の向こうに松本城の天守閣が見える。二人はお汁粉屋「城屋」の前を通る。お汁粉は一杯40円だ。おカネのない俊子はお汁粉を食べたいのを我慢する。

二人の住むおばの石田家の門の表札の下に「松林建築業組合員証」の木札が見える。二人のおば・石田民(望月優子、1917年1月28日~1977年12月1日)が和服に白い前掛けで庭の物干しざおから洗濯物を取り込んでいる。大工の棟梁のおじ・石田銀三郎は出稼ぎに出ているので今は3人暮らしだ。

私服に着替えた圭子は、大食いの俊子の小遣い帖を点検し、無駄遣いを叱ったあと、自分の机の引き出しにしまってあるがま口から10円玉4枚を取り出し、俊子にあげる。俊子は喜んで鯛焼きを買いに行く。お民は取り込んだシャツにアイロンをかけている。

俊子と入れ違いに、背広に眼鏡の借金取りの男(野々村潔)が来る。お民はこっそり圭子にささやき、圭子に「おばは留守でございます」と言わせる。だが、鯛焼きを買ってきた俊子は馬鹿正直に「あら、おばさんいるわ」と言ってしまう。

何とか借金取りを追い返せたが、俊子は小言を言われる。その後、別の背広の男・ 石田三成(田村保、1931年2月6日~)が来ると、俊子は借金取りと思い込み、おばは留守だと言うが、三成は銀三郎の甥で、この町に転任してきた巡査だった。三成の兄は秀吉、弟は家康、長男は信長という名だ。

ある朝、パジャマで庭に出て歯を磨いた俊子は、知り合いの学生帽にとっくりセーターの(まこと)(池田博)が自転車で通り過ぎるのを見て、追いかけ、「誠さん」と呼びとめる。誠はスッポンの生き血の瓶を病院に配達する途中だ。俊子が誠と笑いながら立ち話していると、朝食の支度をした圭子が呼びにくる。俊子は「姉ちゃんは38歳の未亡人みたいだね」と言う。

制服の圭子と俊子がカトリック松本教会に向かう。
俊子「姉ちゃんはどうして神様を信じる気になったの?」「ときどき、なんだかとっても寂しくなることがあるのよ」「どんな時?」「この世の中には不幸や悲惨なことや、汚いことが一杯あるわね」「うん」「そういう時、神様にお祈りするの。あたしがいつも清く正しい人であるようにって」「淋しかったらお友達を沢山つくればいいじゃないの」「単純ね、俊ちゃんは」「そうかなあ、単純かなあ」

教会の前で、圭子にバス代を貰った俊子は大きな作り酒屋の落合家の学友のとしみに会いに行く。落合家に着いた俊子は丁稚(渡辺鉄彌)に大きな屋敷内を案内される。お下げの落合としみ(野口綾子)はオルガンを弾いていた。

としみの和服の母(忍節子、1914年7月22日~?)が紅茶をもって現われ、俊子に、俊子の父が山の発電所で働いていることを確かめる。としみと表に出た俊子は、シェパードの「ドン」を呼ぶ、片足の不自由なとしみの和服の姉(田中稲子)を見かけ、会釈するが、としみの姉は無言で立ち去る。としみには、もう一人、11歳なのに5歳にしか見えない可哀そうな弟がいるという。

ブドウ園を歩いていた俊子はとしみにキスを迫られ、キスをする。

お民は郵便屋から、夫が送ってきた現金書留の封筒を受け取り、封を破いて札を取り出し、これで借金が返せると大喜びする。圭子と俊子はコートを着て、チェックのマフラーを巻く。お民と外出した圭子と俊子は夜、お民と一緒に屋台のおでん屋にいる。酔っぱらったお民は、帰りの夜道で、圭子と俊子と一緒に「ホフマンの舟歌」を歌う。

うるわし今宵 星も月も
あやかに映ゆる 楽し今宵

12月26日、コートにマフラーの圭子と俊子は、汽車で帰郷し、「おざわ」駅(ロケ地は標高518mに位置する穴山駅)から出てくると、駅前で山梨交通のバスに乗り、山奥に向かい、発電所前の停留所で降りる。
俊子は「ふるさとの山に向かひて言ふことなし」と1910年(明治43年) 12月1日発行、24歳の石川啄木(1886年2月20日~1912年4月13日)の第一歌集『一握の砂』(東雲堂書店、60銭)を引用し、「ふるさとの山はありがたきかな」と圭子も唱和する。

途中の児童公園で、圭子と俊子の3人の弟たち、末っ子の幼いター坊こと近藤正(西沢ナポリ)、小学生の長男・近藤弘(松山英太郎、1942年7月9日 ~1991年1月11日)、二男・近藤満(中村直太郎、1944年10月25日~2016年3月27日)が迎える。近藤家では、お民の妹で圭子と俊子の母・近藤りえ(川崎弘子、1912年4月5日~1976年6月3日)がもんぺで迎える。弘は「大きい姉ちゃん」こと圭子からお土産に『少年クラブ』(講談社)ほかの少年向け雑誌と本を貰う。

夜、お民からの土産のケーキを食べる家族に混じって、父の近藤健作(河野秋武、1911年10月8日~1978年3月17日)も和服でちゃぶ台の前に座っている。翌朝、俊子は、庭で薪割りをする洋服の父を手伝う。

12月27日、朝食のあと、父に命じられた圭子と俊子は延川発電所(ロケ地は水路式水力発電所の早川第一発電所)の所長に挨拶に行く。作業着で計器の点検中の岡青年(内藤武敏)がロシア民謡「トロイカ」を歌う。

雪の白樺並木 夕日が映える
走れトロイカほがらかに 鈴の音高く

圭子と俊子は騒音の激しい屋内で作業中の田村さん(三田國夫、1913年1月25日~?)に所長が上層区にいると聞き、送水管の上の貯水池に行き、作業着の所長(織田政雄、1908年1月6日 ~1973年8月30日)と会う。

圭子と俊子が「トロイカ」を歌いながら山を下りると、俵を積んだ荷馬車を引く、洋服の上にちゃんちゃんこを着た三造(殿山泰司、1915年10月17日~ 1989年4月30日)が赤子をおぶった若い和服の妻(倉田マユミ、1932年1月11日~)を殴るのを見る。

12月31日、金曜日。10月、11月、12月の3か月無事故だと所員に1000円の手当が出るが、最後のこの日、停電が起こり、おかみさんたちはがっかりする。

1月初めの日、晴れ着の圭子は近所の娘達と羽根つきをする。晴れ着の俊子は3人の弟を率いて、凧あげをしている。夜、近藤家で、健作と3人の子供と、近所の子供たちが、ちゃぶ台を囲み、スゴ六をする。隣の部屋では大人たちが百人一首のかるたとりをしている。読手は岡の友人の青年(北原繁)だ。りえがお汁粉をもってくる。

ある日、近藤家の庭でりえがたらいで洗濯し、圭子が洗濯ものを物干し竿に干しているが、俊子はチャンバラごっこをする弟たちに交じって拳銃ギャングごっこをして遊んでいる。俊子が洗濯を手伝いにくると、三造の妻が「人殺し、助けてくれ」と叫ぶ声がする。三造の妻は追いかける三造から必死で逃げようとしている。

村人たちが駆けつける。三造は、仕事から帰ると妻が若い男を連れ込んでいたと説明する。延川青年寮の前で若い男が様子をうかがっている。

おばの家に戻る日、圭子と俊子は駅のホームの待合室の軒下で雨宿りしている。三造の妻と浮気した青年寮の男も汽車で逃げようとしている。

圭子と俊子が石田家に戻ると、お民は外出中で、病気で入院していたが4年ぶりに退院したという、お民の知人で俊子も知っている、南町の店をなくした小間物屋の和服の行商の若い女性、「はっちゃん」こと「はつえ」(城久美子)が留守番をしていた。はつえは、母は足が立たなくなり、部屋の掃除もままならないと圭子と俊子にこぼす。

ある日、バケツと雑巾をもった圭子と箒をもった俊子が、はつえのボロ屋を訪ね、掃除をしようとする。はつえの母「しげ」(北林谷栄、1911年5月21日~2010年4月27日)は蒲団の中に臥せったきりだ。はつえの目の不自由な和服の父・徳次(加藤嘉、1913年1月12日~1988年3月1日)がしげを起こす。圭子と俊子は「トロイカ」を歌いながら掃除をする。

そこに、和服のはつえが帰ってくる。俊子と圭子はこれからもときどき掃除に来るつもりだったが、はつえは、両親と自分は結核性の病気なので、うつるといけないから、もう来ないでほしいと頼む。

はっちゃん

ある日、鳥打帽にコートの石田銀三郎(多々良純、1917年8月4日~2006年9月30日)が石田家に帰ってくる。

ある夜、圭子と俊子が映画を観ての帰り道、和服の銀三郎が松本城の外堀に浮かぶカキ専門店「かき船」から和服の芸者衆に囲まれて出てくるのを見る。「かき船」は現存する。

春の雪の夜、俊子と圭子が寝ようとすると、別の部屋で伝統的な相互扶助の習慣の無尽むじん(数人がお金を出し合って、一人の受取人を決め、全額を受け取る。受取人は次回はお金を出すためだけに参加する、本来は全員が受取人になった時点で終了する)の受取人を花札で決めていた(ここでの場合、受取人は持ち回りでなく、毎回花札、つまり賭博で決められる)男達のところに警察が踏み込む。銀三郎も現行犯逮捕される。

銀三郎の逮捕を知ったりえは、娘たちを寄宿舎に入れる相談をしに、石田家を訪ねるが、お民に同情する俊子と圭子はおばさんと一緒に暮らすことを選ぶ。

銀三郎が市内の警察から解放された日、コートにマフラーの圭子と俊子は銀三郎を迎えに行く。

数日後、背広の銀三郎は自宅で圭子に高価な振袖を卒業祝いに贈る。そこに俊子も帰宅する。

高校の卒業式の日、皆が帰った校庭で振袖に卒業証書の筒をもった圭子はずっと校舎を見ている。中学の卒業証書の筒をもった制服の俊子もいる。

その後、二人ははつえの家にお別れの挨拶に行く。はつえは市内の路上で小物を売っている。

圭子と俊子が見せてもらう、はつえの写真付きの新聞記事の見出しに「知事に表彰される納豆うりのはっちゃん」「めくらの父を助けて家の柱となつた少女」「当市の名誉」とある。金持ちをうらやましがるしげを慰めようと俊子は金持ちの酒屋の落合家の娘が不幸だと話す。
「お金持ちなのにとっても不幸な人がいるの」
しげ「そうですかねえ」
「落合さんて酒屋知ってる?」
「ええ、あのおっきな屋敷の」
「あそこの娘、あたしと同級なの。でも、かわいそうよ。姉さんは足が悪いし、弟は体が変だし、それにうちの中がなんだかとっても冷たいの。みんなが言ってるわよ。あんなにかたわばっかり…」
盲人の徳次がいることに気を遣った圭子はあわてて俊子に自制を促すが、俊子は気づかない。
「かたわばっかり揃っているのは、きっと何か悪い事して…」
圭子が俊子のお尻をつねる。
「痛いねえ。…何か悪い事しておカネを儲けて…。(またつねられ)痛いねえ、姉ちゃん」
徳次「お姉さん、俊子さんのお尻をつねってはいけませんよ。俊子さんは純真なんですよ。心に汚れがないんですよ」
しげ「うち来てかたわの話してくれたの、俊子さん初めてですよ」

雨の日、実家の近くをコートに傘の圭子と俊子が歩いていると、山奥から和傘にもんぺの娘を連れて出てきた雨合羽に和服の女性(田所千鶴子)に呼び止められ、家まで案内する。

女性は、健作とりえに、食べていけないので北海道のニシン場に働きに行くことにしたと言い、「そんで、お宅でこの娘買ってくれないかね」と頼む。「えっ、娘さんを」「はい、幾らでもいいよ」。娘を売らないと北海道までの汽車賃もないという。娘「奥さん、あたしを買ってくだせえ」

健作は隣の部屋の俊子を呼び出し、女性におカネをあげたいので、買ってあげる約束をした靴をあきらめてほしいと相談する。その後、雨は止んでいる。おカネを貰った母娘は近藤一家に見送られて去る。

ある日の正午前、圭子と俊子が発電所の岡にお弁当をもってくる。昼休み、岡たち職員に圭子と俊子も加わり、屋上で合唱する。

仲間がこんなに集まった
いつでも明るい笑い声を

そこに田村さんが水槽に落ちたという知らせが届く。田村さんの奥さんと子供たちが駆けつける。夜、事務所に遺体が担ぎ込まれる。圭子と俊子も見守る。

その夜、りえは田村さんのお通夜に出かけ、圭子と俊子は留守を頼まれる。俊子「姉ちゃん、神様は心正しき者を助けてくれるっていうけど、現実は違うわね」
「そんなことないわ」
「じゃあ、なぜ田村さんが水槽で死んだり、はっちゃんのうちが不幸だったり、娘が身売りしたりするの? うちの父さんだって、馘になるかもしれないわ」
「父さんは人格者よ。神様が守ってくださってるわ」
「ほかの人たちだって、みんないい人たちばかりよ」
「神様は人間に試練をお与えになるの、私たちはそれに耐えなくちゃいけないのよ」
「試練…」
俊子は風呂の薪をくべに行く。「試練。あたしにはわかんないわ」

俊子は中央女子学園高等学校への入学を前に一人で高校の寄宿舎に戻る。圭子がバス停まで見送る。岡が俊子の乗るバスから降り、圭子に約束した本を貸すと言い、一人暮らしの自宅に案内する。岡はお茶を淹れながら「トロイカ」を口ずさむ。

雪の白樺並木 夕日が映える
走れトロイカほがらかに 鈴の音高く

俊子は圭子と手紙のやり取りをし、梅雨の季節になる。発電所では3名の従業員がクビになった。

夏休みの初日、寄宿舎の女子高生たちは、1936年(昭和11年)にYMCA野尻湖キャンプ場で作られた山北多喜彦(1908年~1968年)作詩の「静かな湖畔の森の影から」を輪唱する。半袖のワンピースの、寄宿生につけ●●のきく正門前の商店のおばさん(戸田春子、1908年5月28日~?)が借金を取り立てるが、半分未納の俊子は押し入れに隠れている。

俊子は荷物をもって裏口から外に出るが、日傘を差した商店のおばさんが待ち伏せしていた。おばさんは計算書を読み上げる。「アンパン18個、お汁粉15杯、氷水21杯」(原作では「あんぱん二十八個。うどん三十五はい。氷水四十一ぱい」)。俊子が両親におこられることを恐れていると知ったおばさんは俊子の親への連絡を二学期まで保留することにする。

夏休み中、俊子は借金返済のため自転車のアイスキャンデー屋のアルバイトをする。

圭子は日傘を差して谷川に行き、1952年(昭和27年)8月発売の大ヒット曲、 60歳の西條八十(1892年1月15日~1970年8月12日)作詞、47歳の古賀政男(1904年11月18日~1978年7月25日)作曲、21歳の神楽坂はん子(1931年3月24日~1995年6月10日)唄の「芸者ワルツ」を歌いながら洗濯する三造の妻と会う。

あなたのリードで 島田もゆれる
チークダンスの なやましさ

二学期の秋、俊子の手紙が、働き過ぎで、はつえが死んだことを報告する。「私は政治の貧困だと思います。私だっていつ死ぬかわかりません。だからその日まで私は立派に生きるつもりです」

学校で俊子を中心とする秋冬の制服の女子高生たちが、東京への修学旅行の話をしている。

近藤家にも学校から1学年の生徒全員参加の修学旅行の案内が届くが、健作は俊子の修学旅行を禁じる。
りえ「あなた、行かしてやったらどうなんです。うちじゃあ何もそこまで困ってるわけじゃないでしょ」
圭子「あたし、着物を売ってでも行かしてやりたいわ」
健作「今年この山から3人も馘切りを出してるんだ。子供を旅行にやれないどころか、学校を辞めさしたうちもある。よそはよそと言ってしまえば、それまでだが、気持ちの問題なんだ。父さんはそういう性分の人間なんだ」

11月頃、修学旅行の女生徒たちを乗せたD51 708蒸機(松本区)牽引の列車が「おざわ」駅に停車し、俊子だけが降りる。走り出す機関車は、D51 91蒸機(上諏訪区)だ。
その晩、俊子は実家で風呂を焚いている。
健作「俊子、今度の事で父さんを恨んでるかい? お前ならきっとわかってくれると信じてるんだよ」
「父さん、馘切りなんて不合理だね。みんなでもっと闘争すべきだったのよ。どこまでも…」
「俊子。お前、どこでそんな事を覚えてきた? 聞きかじりを言うんじゃない」
「だって、あんないい人たちが追い出されるなんて。ひどいわ」
「みんな一緒に苦労したんだ。犠牲者を一人も出すまいと思って。しかし、世の中はそのとおり行かんのだ」
「どうして?」
俊子は立ち上がる。
「どうして正しいことがその通り行かないの?」
「誰でも俊子みないにまっすぐな人間ばかりだったらな。父さんなんかもう古いのかもしれん」

その夜、俊子は初めて実家の家計簿を見せてもらい、圭子が所長の世話で銀行員の青年とお見合いをしたことを知る。
俊子は圭子が好きな善良な岡さんと結婚するのが理想だと思っているが、圭子は経済的なことを考え、銀行員を選んだ。

俊子は和服の岡の家にいる。
岡「おれはねえ、もしかすると一生この山で終わる男だよ。こういう生活、圭子さんには無理なんだよ」
「うちの父さんだって一生山よ」
「しかし、おれ、お袋や妹たちに仕送りしてるし、正直なところ、嫁さん貰うなんて当面考えられないんだよ」
「じゃ、岡さん、姉ちゃんあきらめるって言うの?」
「いや、そうじゃないんだ。圭子さんはあれでいいんだ。あの方がいいんだよ。おれみたいな男には、頑丈な百姓娘が似合うんだよ」
俊子は涙を流し、「ズルい、みんなズルい。大人なんて大っ嫌い」と言う。
岡「元気出せよ。いやあ、フラれたおれが慰めるなんて変だな」
「嫌い。大人なんて大っ嫌い」

圭子の嫁入りの日、揃って和服の石田夫妻が近藤家にやって来る。仲人の洋服の所長と眼鏡に和服の夫人(山岸美代子)も来る。日本髪に和服の花嫁衣裳の圭子は洋服の健作、和服のりえに挨拶をする。

圭子と家族一同がバスに乗る頃、岡は発電所で働いている。制服の俊子と3人の弟はバスを見送る。

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