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1978年の手塚治虫『ブラック・ジャック』第229話「人生という名のSL」


テレビ時代の日本語の少年向け漫画文化

適度に安全で自由な環境におかれた思春期から老年期にかけての人間は空想的な差別感情、競争欲を発達させやすい。

文芸教養における競争や差別は文芸教養権威を発達させた。

漢字教養が知識層に普及した中華では漢語の論語や仏典などが権威をもった。
20世紀以後の日本国で有力な西方救世主教ではラティン語の訳の福音書などが権威をもった。

文芸教養権威は、権威ある古典の知識を表現することで、その教養の乏しい者を差別する。それは政治権威のひとつの根拠ともなる。

日本の皇族や貴族は、漢語の仏教の高度知識を独占する少数の僧侶とは別に、日本語の万葉集、日本書紀などの教養を受け継いできた。

日本文字の読める少数の知識層は、百人一首などの和歌を受け継いできたが、平和が続き、教育が普及した18世紀には漢字の混じった日本文字の読み書きのできる教養中間層が発達した。

20世紀の日本国では、日本語のみを共通公用語とする民界の大半の人びとが知らない最新の文芸教養と、世界的権威をもつ外国語のイングリッシュ語のラティン字の文芸教養を学ぶ文芸教養競争が激化した。

イングリッシュ語のラティン字が読める少数知識層は、イングリッシュ語の古典とされる1611年刊行の欽定訳聖書(King James Version)やシェイクスピア(William Shakespeare、1564年~1616年)の17世紀初期の公演された戯曲を学び、模倣することで、日本語のみの読み書きしかできない大多数の大衆を差別し、競争することで自尊心を高めた。

性行為や暴力の形を制限する公共習慣など、一定の社会的権威をもつ決められた型の規則を破る自由文芸の熱狂的愛好家は、文芸表現、具体的空想像の自由の実験を好む。
しかし、その実験が公共道徳の規範に照らして公共的に有害とみなされることもある。

よくも悪くも、相対的に多様性の高かった1920年代以後のイングリッシュ語の救世主教を共通権威とするアメリカ連合国の映画劇は世界市場をもった。

20世紀後半の青年人口の急増した日本国では教養中間層での文芸教養競争が激化した。
アメリカ連合国の映画劇の模倣を経た、1970年代以後の日本語の自由文芸の主流商品である物語マンガや通俗小説の表現の自由度は相対的に高まった。

それは、西欧で権威をもつ教養規範に照らして、道徳的自制力の不足、絶対的価値信仰の未熟とみなされ批判されることもあれば、逆に道徳的自由の豊かさの手本として権威化されることもある。

短期間のうちに大量出版される漫画作品の商品形態、流通形態の変化は激しく、それに伴って作品表現そのものが変わることもある。
その変化はあまりに多様で輻輳的な上、その多様さ、輻輳の度合いが爆発的に増す傾向にあるので、熱狂的愛好者や専門研究者でさえ、その変化の全体に目を配るのは不可能だ。

個人の自由度の高い政府救世主教の文化圏では、少数の特定の文芸権威の統合綠が弱まり、仲でも最も文芸権威が弱く、個人の自由が強いアメリカ連合国では聖書の支持者と科学教養支持者の分断が強まった。

21世紀には、日本国では世界市場競争の拡大に伴い、即効的な利益効率の乏しい民界文芸教養権威の統合力は弱まり、日本語を共通公用語とする日本人民界全体の共通文芸教養が衰弱した。
また少子高齢化が始まったが、人間固有の差別感情と競争欲により、各世代や性別、学歴、政治的党派、趣味的党派その他の属性ごとの党派的な文芸教養競争は続いている。

文化庁の委託業務として森ビル株式会社が実施した平成25年度「メディア芸術情報拠点・コンソーシアム構築事業」の2014年(平成26年)9月8日に公開された『海外における日本マンガ出版状況調査実施報告書』、第3章、52歳の幸森軍也(こうもり・いくや、1961年12月21日~)「海外展開するマンガ単行本(手塚治虫編)」より引用する。

 日本のマンガ作品は世界的に見てかなり特殊な創作物である。
 それは手塚治虫によって開発されたストーリーマンガという表現形式がきわめて優れており、かつ手塚が構築した物語が従来の漫画の枠を越えて多種多様だったからである。日本のマンガの多様性は直接的には手塚のストーリーマンガによるものといってまちがいない。少年マンガ、少女マンガ、青年向け、成年向け、成人向け、レディースコミック、幼年マンガなど性別、年代別に分けられる。ジャンルを見るとSF、ホラー、ファンタジー、歴史、スポーツ、ゲーム、医療、四コマ、食、職、ギャグ、学園ドラマ、ロボットなどあげはじめれば際限がない。2010年代にはマンガ雑誌の銘柄数は年間約300種、約5億部。マンガ単行本は年間13000作品、約4億部。全出版物の中でマンガは25パーセント程度を占め、4800億円を稼ぎだしている。膨大な生産量といえよう。これほどまでに生活にマンガが溶けこんでいる国は世界に類がない。
 この豊穣なる作品数の背景があってこそ、世界のどの地域のどの年代に対しても日本のマンガが受けいれられる可能性を秘めているのである。
 当の手塚治虫の作品が海外に進出していった経緯は、御多分に漏れず海賊版である。しかし、1981年以降は中国をはじめフランス、インドネシア、イタリアへと正式許諾して発売されている。
 今回は2013年末時点で流通されている作品を株式会社手塚プロダクションの協力と許諾を得て調査した。このリスト(以下「本リスト」という)以外に絶版(過去に発売されて現在は流通していない単行本)は数千冊ある。

 世界9ケ国で発行されている「ブラック・ジャック」は日本でも人気作品であり、また連作短編で読みやすく、売りやすいのだろう。手塚プロダクションの契約書でも全巻一括契約ばかりではなく巻ごとに数巻分の契約が散見できる。「ブラック・ジャック」は『週刊少年チャンピオン』に連載された〝少年マンガ〟ではあるものの、手塚中期の作品で絵柄的にマンガと劇画の中間的なタッチで、子供にも大人にも馴染みやすいのかもしれない。
「ブラック・ジャック」が最も早く出版されたのは東南アジアで中国語版、1981年である。本リスト上ではフランスで1996年。次いでイタリアも1996年、シンガポールが1997年。北米、スペインとなる。フランス、アメリカ、台湾では2社から発売中である。生と死、命の値段というテーマは世界的にい普遍性があるのだろう。アニメとのメディアミックスがなくとも世界を舞台にして普遍的な物語を扱っていれば、他国に受けいれられる証拠である。


1967年(昭和42年)3月14日発売の青年男性向け週刊誌『WEEKLY平凡パンチ』(平凡出版)3月27日号(80円)~臨時増刊10月23日号(60円)に、34歳の五木寛之(いつき・ひろゆき、1932年9月30日~)の小説『青年は荒野をめざす』全8回が連載された。

1967年(昭和42年)12月15日、五木寛之著『青年は荒野をめざす』(文藝春秋、290円)が刊行された。
装幀は柳生弦一郎(やぎゅう・げんいちろう、1943年~)だ。

1968年(昭和43年)7月11日、集英社の毎月2回木曜日発行の男子小学生向けの漫画誌『少年ジャンプ』が8月1日号(創刊号)(90円)で創刊された。

すべて読みきり掲載で、戦後生まれの22歳の永井豪(1945年9月6日~)のギャグ漫画「ハレンチ学園」が掲載された。

日本一ハレンチな教師が集まる聖(セント)ハレンチ学園のけんかの強い山岸八十八(やまぎし・やそはち)と長い黒髪の美少女十兵衛柳生みつ子)が登場する。

1968年(昭和43年)12月12日、『少年ジャンプ』12月26日号(11号)(90円)が発売された。
表紙はキックボクシングの25歳の沢村忠(1943年1月5日~2021年3月26日)を描いたイラストだ。

21歳の本宮ひろ志(1947年6月25日~)の漫画『男一匹ガキ大将』の連載が「ガキ大将登場の巻」で、23歳の永井豪ハレンチ学園』の連載が「「ハレンチ一家」の巻」で始まった。

1969年(昭和44年)1月6日、『少年画報』(少年画報社)2月号「新春まんがゴールデン号」(220円)が発売された。
表紙に、日立製作所が日立カラーテレビ「キドカラー」の宣伝に用いて1968年(昭和43年)9月12日の東京上空飛行を皮切りに1969年(昭和44年)4月4日まで、「日立キドカラー号新装置ピタリコン日本一周お知らせの旅」と称して日本各地を飛行した全長49メートル、最大直径13.3メートルの飛行船「日立キドカラー号」の写真が使われた。

キックボクサーの沢村忠をモデルとする32歳の高森朝雄(梶原一騎、1936年9月4日~1987年1月21日)原作、30歳の中城(なかじょう)けんたろう(1938年4月12日~2020年1月19日)まんが『キックの鬼』の連載が始まった。

日本語の少年向け漫画誌『週刊少年チャンピオン』と若い女性の具体的空想像

1969年(昭和44年)7月15日、秋田書店が、毎月2回、第2・第4水曜日発行の男子小学生向けの漫画誌『少年チャンピオン』を8月10日号(創刊号)(90円)で創刊した。
表紙は谷清二撮影の26歳の沢村忠だ。

秋田書店の男子小学生向けの月刊漫画誌『冒険王』(秋田書店)に連載された、32歳の梶原一騎(かじわら・いっき、1936年9月4日~1987年1月21日)原作、28歳の荘司としお(1941年1月25日~)作画のまんがの副次的挿話のまんが『夕やけ番長』、40歳の手塚治虫(てづか・おさむ、1928年11月3日~1989年2月9日)の連作短篇まんが『ザ・クレーター』の連載が始まった。

23歳の永井豪のギャグまんが『あばしり一家』の連載が「あばしり一家は荒野をめざすの巻」で始まった。
悪馬尻(あばしり)」という苗字の犯罪者一家のドタバタ、エロ、暴力を、長女の超人的身体能力をもつ中学生の美少女「菊之助」を中心に描く。
菊之助は殺し屋を要請する「パラダイス中学」に転入学する。

1969年(昭和44年)8月11日、『少年画報』9月号(100円)が発売された。
この号から同誌が毎月2回(第2・第4月曜日)発売となった。

1969年(昭和44年)8月25日、『少年画報』9月8日号(10号)(100円)が発売された。

1969年(昭和44年)10月21日、『少年ジャンプ』が11月3日号(20号)(90円)から毎週火曜日発売の週刊誌『週刊少年ジャンプ』となった。

巻頭カラーで、24歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』「赤い嵐の巻」が掲載された。

1969年(昭和44年)11月30日、「ジャンプ・コミックス」1、永井豪著『ハレンチ学園』1、「山岸君登場の巻」(集英社、240円)が刊行された。
解説は39歳の阿部進(1930年6月11日~2017年8月10日)「まんがが生んだまんがのチャンピオン」だ。

1970年(昭和45年)3月10日、『少年画報』3月24日号(7号)(100円)が発売された。
この号から同誌が毎月2回(第2・第4火曜日)発売となった。

1970年(昭和45年)3月31日、共産主義者同盟赤軍派のよど号グループが羽田空港発、板付空港行きのJA8315号機「よど号」を富士山上空で乗っ取る事件が起きた。

1970年(昭和45年)4月1日、『週刊少年チャンピオン』4月15日号(8号)(90円)が発売された。

41歳の手塚治虫の性教育まんが『やけっぱちのマリア』の連載が「男はつらいよの巻」で始まった。

1970年(昭和45年)5月29日、横浜市金沢区の30歳の主婦・袴田美保子が、生まれつき脳性マヒ(CP)の2歳の女児・秀子をエプロンの紐で絞殺した。
美保子の4歳の男児も小児マヒで、市の「子ども医療センター」に入院を申し込んだが、満員だという理由で断られ、悲観しての犯行だった。

1970年(昭和45年)6月30日、『週刊少年ジャンプ』7月20日号(80円)が発売された。
24歳の永井豪著『ハレンチ学園』第一部が「ああ ハレンチ学園の巻」で終わった。

1970年(昭和45年)7月1日、『週刊少年チャンピオン』7月27日号(第14号)(80円)が発売された。
表紙に描かれた、ジェット飛行機「のっとり号」から撒かれる「号外」のビラに「次号(NO15)から毎週火曜発売 読まねえといつか殺してやる」とある。

この号から同誌が週刊となった。

1970年(昭和45年)7月10日、脳性まひ(CP)者による障害者差別解消を目指した組織である日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会が、脳性マヒ重症児殺害事件の減刑運動に反対する意見書を関係各位に提出した。

1970年(昭和45年)7月14日発売の『週刊少年チャンピオン』8月3日号(第15号)(80円)から、同誌が毎週火曜発売となった。

1970年(昭和45年)7月20日、秋田書店が「少年チャンピオン・コミックス」を、「爆笑コミックス」、永井豪著『あばしり一家』1(250円)で創刊した。
うるわしの要塞編」、「パラダイス中学編」を収めた。

1970年(昭和45年)8月4日、『週刊少年ジャンプ』8月24日号(35号)(90円)が発売された。
24歳の永井豪著『ハレンチ学園』第2部の連載が「山岸復活の巻」で始まった。

1970年(昭和45年)8月11日、『週刊少年チャンピオン』9月7日号(20号)「創刊30号記念特大号」(90円)が発売された。

41歳の手塚治虫著『やけっぱちのマリア』「おとこの花道の巻」が掲載された。

市立第13中学の不良グループ「タテヨコの会」のトップで、実家は富豪のお嬢様、通称「ボス・ナンバーワン」の3年生の雪杉みどりは個室で全裸になり、2回落第し、1年生の主人公の焼野矢八(やけの・やはち)を誘惑する。

1970年(昭和45年)10月2日、TBSの毎週金曜日19時~19時30分の枠で、東映TBS制作、高森朝雄中城けんたろう原作のテレビアニメ『キックの鬼』の放映が38歳の辻真先(つじ・まさき、1932年3月23日~)脚本、黒田昌郎(くろだ よしお、1936年~)演出「無敵の沢村」で始まった。
沢村忠の声を23歳の朝倉宏二(1947年5月19日~)が演じた。

1970年(昭和45年)10月8日、横浜地裁で、脳性マヒ重症児殺害事件の袴田美保子の公判がおこなわれ、懲役2年、執行猶予3年の判決が下された。

1970年(昭和45年)10月27日、『週刊少年チャンピオン』11月16日号(30号)(80円)が発売された。
41歳の手塚治虫著『やけっぱちのマリア』の連載が第12章「バイ・バイ・マリア」で22話で完結した。

1970年(昭和45年)11月3日、『週刊少年ジャンプ』11月23日号(48号)(80円)が発売された。

25歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』「われ、はやまったりの巻」が掲載された。

1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室で、45歳の三島由紀夫(1925年1月14日~1970年11月25日)が終戦直前の生まれの25歳の森田必勝(もりた・まさかつ、1945年7月25日~1970年11月25日)ら楯の会会員4名と共に57歳の益田兼利(ました・かねとし、1913年9月17日~1973年7月24日)総監を人質にして籠城すると、バルコニーから自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。

1971年(昭和46年)1月10日、「少年チャンピオン・コミックス」、「熱血コミックス」、手塚治虫著『やけっぱちのマリア』1(秋田書店、250円)が刊行された。

1971年(昭和46年)1月19日、『週刊少年ジャンプ』2月8日号(7号)(80円)が発売された。
25歳の永井豪著『ハレンチ学園』第2部の連載が「永遠なるハレンチ魂の巻」で完結した。

1971年(昭和46年)3月1日、浦和市立木崎中学校3年生の血友病者の15歳の大西赤人(おおにし・あかひと、1955年7月6日~)が埼玉県立浦和高等学校を受験した。

1971年(昭和46年)3月2日、『埼玉新聞』に浦和高校入試問題の模範解答が掲載された。

1971年(昭和46年)3月7日、浦和高校の校門に入試合格者名簿が貼りだされたが、大西赤人の受験番号が記載されていなかった。

1971年(昭和46年)3月9日、浦和高校教頭と教務主任が、赤人の父である54歳の大西巨人(1916年8月20日~2014年3月12日)宅を訪問し、赤人の学力検査成績は200点満点中170点台で優に合格圏内だったが、血友病のため体育の授業に出席できなかったので実技科目の評点が低かった内申書を理由に不合格としたと説明した。
これに対し、大西赤人と大西巨人は不合格の撤回を求めた。

1971年(昭和46年)3月30日、『朝日新聞』に、大西巨人が「身障児にも学ぶ権利がある」を発表し、浦和高校の教育差別の実態を訴えた。

1971年(昭和46年)3月26日、テレビアニメ『キックの鬼』、38歳の辻真先脚本、白根徳重(しらね・とくしげ)演出の26話(最終話)「キックよ永遠に」が放映された。

1971年(昭和46年)4月10日、「少年チャンピオン・コミックス」、「SFコミックス」、手塚治虫著『やけっぱちのマリア』2(秋田書店、250円)が刊行された。
ザ・クレーター』の一篇「オクチンの大いなる怪盗」も収めた。

1971年(昭和46年)4月13日、『少年画報』4月27日号(8号)「スポーツ特集号」(150円)が発売された。
34歳の高森朝雄原作、32歳の中城けんたろうまんが『キックの鬼』が完結した。

1971年(昭和46年)5月25日、『少年画報』が6月8日号(11号)「さようなら号」(150円)で休刊した。

1971年(昭和46年)7月28日、「大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会」準備事務局が発足した。

1971年(昭和46年)10月16日、「大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会」が結成された。

1971年(昭和46年)11月2日、講談社が未就学児童向けのテレビ雑誌『テレビマガジン』を12月号(180円)で創刊した。

1971年(昭和46年)11月30日、16歳の大西赤人著『善人は若死にをする』(光文社、570円)が刊行された。
1969年(昭和44年)7月下旬から1971年(昭和46年)9月10日までに書いたショート・ショート38篇とエッセイ「三島由紀夫の死」(1970年11月26日)を収めた。
挟み込みの「『善人は若死にする』しおり」に、45歳の井上光晴(1926年5月15日 ~1992年5月30日)「戦慄そのものの響き」が掲載された。
装幀は39歳の真鍋博(1932年7月3日~2000年10月31日)だ。
本文カットは53歳の堀文子(ほり・ふみこ、1918年7月2日~2019年2月5日)だ。

裏表紙帯の63歳の田中澄江(1908年4月11日~2000年3月1日)の評を引用する。

これが、まだ十代の少年によって書かれた作品かとまず一驚した。鋭い、ぎすまされた刃のような鋭さで、対象をじつに巧みに切りとっている。……読み進めていくうちに、疲れた頭が生き生きと弾んできた。若い人たちだけでなく、あらゆる年齢の。あらゆる階層の人が読んでたのしめる物語集である。

1971年(昭和46年)12月14日、『週刊少年ジャンプ』1972年(昭和47年)1月1日新春特大号(1号)(90円)が発売された。
26歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』第3部の連載が表紙&カラーの「山岸登場の巻」で始まった。

1972年(昭和47年)2月、1971年(昭和46年)6月から撮影が始まった、「青い芝」神奈川県連合会の38歳の横田弘(1933年5月15日~ 2013年6月3日)、副会長の36歳の横塚晃一(1935年12月7日~1978年7月20日)についての、26歳の原一男(1945年6月8日~)監督の16ミリ・フィルムの記録映画『さようならCP』(82分)が完成し、原一男と25歳の小林佐智子(1946年6月30日~)が「疾走プロダクション」を設立した。

1972年(昭和47年)3月28日、『週刊少年ジャンプ』4月17日号(17号)(100円)が発売された。

26歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』第3部が「十兵衛危機一髪の巻」でいったん完結した。

1972年(昭和47年)4月4日、『週刊少年ジャンプ』4月24日号(18号)(90円)が発売された。
26歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』第4部「ヒゲゴジラ伝」が「誕生の巻」で始まった。

1972年(昭和47年)4月4日、『週刊少年チャンピオン』4月24日号(18号)(90円)が発売された。

巻頭カラーで、32歳の水島新司(1939年4月10日~2022年1月10日)の野球漫画『ドカベン』の連載が始まった。

1972年(昭和47年)4月8日、川崎の「青い芝の会」神奈川県連合会十周年大会で記録映画『さようならCP』が初上映され、以後、大学・施設での上映運動が展開された。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄県(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ連合国から日本国に返還された。

1972年(昭和47年)6月6日、『週刊少年ジャンプ』6月26日号(27号)(100円)が発売された。
26歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』第4部「ヒゲゴジラ伝」が「宿命のライバルの巻」で完結した。

1972年(昭和47年)6月13日、『週刊少年ジャンプ』7月3日号(28号)(90円)が発売された。
26歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』第3部の続き「スイートホームの巻」が掲載された。

1972年(昭和47年)6月24日、東京・関東の一部で、他の地域で土曜日に27日(火)発売の『週刊少年チャンピオン』7月10日号(29号)(90円)が発売された。
この号から表紙の「毎週火曜日発売」の表記がなくなった。

1972年(昭和47年)9月5日、『週刊少年ジャンプ』9月25日号(41号)(90円)が発売された。
26歳の永井豪とダイナミックプロ著『ハレンチ学園』の連載が最終話「美蔵狂乱 全裸の舞の巻」で完結した。

1972年(昭和47年)9月12日、『週刊少年ジャンプ』10月2日号(42号)(90円)が発売された。

巻頭カラーで、27歳の永井豪とダイナミックプロのSFロボット漫画『マジンガーZ(ゼット)』の連載が「マジンガーZ出現の巻」で始まった。

1972年(昭和47年)12月3日、フジテレビの毎週日曜日19時~19時30分の枠で、東映動画制作、永井豪とダイナミックプロ原作のテレビアニメ『マジンガーZ』の放映が第1話「驚異のロボット誕生」で始まった。

1972年(昭和47年)12月15日、17歳の大西赤人著『人にわが与うる哀歌』(光文社、570円)が刊行された。
カバー&本文イラストは40歳の真鍋博だ。
『善人は若死にをする』(大西赤人第一創作集)に寄せられた声」が挟み込まれた。

カバー袖の46歳の井上光晴文学の鷹」を引用する。

稜線りょうせんをかすめる強靭きょうじんな翼と決して獲物をのがさぬ鋭いつめ大西おおにし赤人あかひとの耳奥には、曠野こうやに立つ人間の叫び声を聞きわける響きが、着実にたくわえられている。
『善人は若死にをする』より一歩の前進がどれほど困難なことか。少年はみずからに課した作家としての責任を、かくもみごとに果したのだ。光と影にみちた『人にわが与うる哀歌』の全編が鮮やかにそれを証明しよう。

1973年(昭和48年)1月27日、ヴィエトゥ・ナム民主共和国(北ベトナム)、ヴィエトゥ・ナム共和国(南ベトナム)、南ヴィエトゥ・ナム共和国臨時革命政府アメリカ連合国の間で和平協定が調印された。

1973年(昭和48年)2月14日、為替相場(Exchange Rate)が変動相場制(floating exchange rate system)に移行した。

1973年(昭和48年)3月10日、『週刊少年チャンピオン』4月9日号(16号)(100円)が発売された。
27歳の永井豪著『あばしり一家』が完結した。

1973年(昭和48年)3月29日、アメリカ連合国ヴィエトゥ・ナム戦争の終結を宣言した。

1973年(昭和48年)7月20日、大西赤人大西巨人著『大西赤人作品集 大西巨人批評集時と無限』(創樹社、680円)が刊行された。
装幀は47歳の勝呂忠(すぐろ・ただし、1926年5月10日~2010年3月15日)だ。
二「短編小説集」に赤人の『人にわが与うる哀歌』以後の創作9篇を収めた。

1973年(昭和48年)7月24日、『週刊少年ジャンプ』8月13日号(35号)(100円)が発売された。
27歳の永井豪とダイナミックプロ著『マジンガーZ』が「ドクター地獄出陣の巻」でいったん完結した。

手塚治虫『ブラック・ジャック』

1973年(昭和48年)10月20日、『週刊少年チャンピオン』11月19日号(48号)(100円)が発売された。

44歳の手塚治虫の漫画家生活30周年記念新連載の恐怖まんが『ブラック・ジャック』第1話「医者はどこだ!」が掲載された。

1973年(昭和48年)11月25日、「ノン・ブック」、43歳の五島勉(ごとう・べん、1929年11月17日~ 2020年6月16日)著『ノストラダムスの大予言迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日』(祥伝社、430円)が刊行された。

1973年(昭和48年)12月25日、「少年チャンピオン・コミックス」、「爆笑コミックス」、永井豪著『あばしり一家』15(秋田書店、270円)が刊行された。
モチハダ菊之助の巻」(1973年1月8日号「モチ膚菊の助の巻」)、「かきぞめの巻」(1月15日号)、「警察忍者隊ゴッチャマンの巻」(2月26日号)、「あばしり世界戦争の巻」(3月19日号「あばしり世界戦争」)、「ほういん大子(だいこ)の巻」(3月26日号「法印大子の巻」)」、読み切り「白雪姫」(6月4日号)を収めた。

1974年(昭和49年)2月25日、「角川文庫」、大西赤人著『新編 善人は若死にをする』(角川書店、300円)が刊行された。
エッセイ「三島由紀夫の死」は未収録だ。
四「人にわが与うる哀歌」に、「悲しみの遺族」、「空地にて」、「どうして?」、「すべて世は事もなし」、「蝶の季節」、「」、「雨の日曜日」、「無垢の笑い」、「死者生者」、「薄荷ガムをどうぞ」、「蛍魂」、「ペーヴメント・ブルース」、「人にわが与うる哀歌」を収めた。
五「「若者」について」に、「僕の「闘病記」」、「大津と浦和とに架ける橋」、「「青春」について」、「「若者」について」を収めた。
解説は60歳の杉浦明平(すぎうら・みんぺい、1913年6月9日~2001年3月14日)だ。

1974年(昭和49年)3月26日、角川書店が、毎月24日発売のエンターテインメントとドキュメントの月刊総合文芸誌『野性時代』を5月号(500円)で創刊した。
表紙画はチャールズ・ホワイト(Charlie E. White III、1940年~2022年3月)だ。

1974年(昭和49年)4月13日、『週刊少年チャンピオン』5月13日号(21号)(130円)が発売された。

45歳の手塚治虫著『ブラック・ジャック』、血友病を題材とする第22話「血がとまらない」が掲載された。

1974年(昭和49年)5月20日、「少年チャンピオン・コミックス」、「恐怖コミックス」、手塚治虫マンガ家30周年記念作品、手塚治虫著『ブラック・ジャック』1(秋田書店、320円)が刊行された。
医者はどこだ!」、「海のストレンジャー」(1973年11月26日号)、「ミユキとベン」(12月3日号)、「アナフィラキシー」(12月10日号)、「人間鳥」(1973年12月17日号)、「海賊の腕」(1974年1月1日号)、「ふたりの修二」(1974年1月14日号、1月21日号)、「鬼子母神の息子」(1974年1月28日・2月4日合併号)を収めた。

1974年(昭和49年)9月1日、テレビアニメ『マジンガーZ』の放映が第92話「デスマッチ!! 甦れ我等のマジンガーZ!! !」で終った。

1974年(昭和49年)11月30日、「少年チャンピオン・コミックス」、「恐怖コミックス」、手塚治虫マンガ家生活30周年記念作品、手塚治虫著『ブラック・ジャック』3(秋田書店、320円)が刊行された。
木の芽」(1974年4月15日号)、「発作」(4月22日号)、「血がとまらない」、「誘拐」(5月20日号)、「万引き犬」(5月27日号)、「パク船長」(6月10日号)、「白葉(しらは)さま」(6月17日号)、「ときには真珠のように」(7月1日号)、「獅子面病」(7月29日号)、「閉ざされた三人」(7月22日号)を収めた。

1974年(昭和49年)12月31日、「ジャンプ・コミックス」、永井豪著『ハレンチ学園』13「ハレンチ大乱闘の巻」(集英社、320円)が刊行された。

1975年(昭和50年)4月30日、ヴィエトゥ・ナム民主共和国ヴィエトゥ・ナム共和国を併合し、ヴィエトゥ・ナム戦争が終わった。

1975年(昭和50年)8月2日、『週刊少年チャンピオン』9月1日号(36号)(130円)が発売された。
46歳の手塚治虫著『ブラック・ジャック』第88話「報復」が掲載された。

ピノコがつくった言葉「アッチョンブリケ」が出て来る。

1975年(昭和50年)11月1日、用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会編『ゆたかな日本語をめざして‥‥差別用語』(汐文社、980円)が刊行された。
装幀は水谷武司だ。

1976年(昭和51年)2月、『少年チャンピオン』3月10日増刊号、手塚治虫ブラックジャック』特集号(220円)が発売された。

47歳の手塚治虫著『ブラック・ジャック』「U-18は知っていた」、「ふたりの黒い医者」(1975年1月6日号)、「からだが石に……」(1975年4月28日号、1974年9月23日号「植物人間」)、「けいれん」(1975年5月5日号)、「宝島」(1975年7月14日号)、「弁があった!」(1975年6月30日号)、「かりそめの愛を」(1975年8月11日号)、「絵が死んでいる!」(1975年8月18日号)、「幸運な男」(1975年11月10日号)を収めた。

1976年(昭和51年)6月30日、「少年チャンピオン・コミックス」、手塚治虫マンガ家生活30周年記念作品、「恐怖コミックス」、手塚治虫著『ブラック・ジャック』8(秋田書店、320円)が刊行された。
ストラディバリウス」(1975年1月1日号)、「灰とダイヤモンド」(1974年6月3日号)、「魔王大尉」(1975年10月27日号「悪魔」)、「ネコと庄造と」(1975年2月24日号)、「友よいずこ」(1975年11月24日号)、「サギ師志願」(1975年10月20日号)、「報復」、「かりそめの愛を」、「古和医院」(1975年12月1日号)、「道すがら」(1975年11月3日号)を収めた。

1976年(昭和51年)8月29日、『週刊プレイボーイ』(集英社)9月7日号(26号)(160円)が発売された。

宮下晃一撮影の17歳の片平なぎさ(1959年7月12日 ~)の水着のカラー写真が掲載された。

1976年(昭和51年)9月5日、「少年チャンピオン・コミックス」、「ヒューマンコミックス」、手塚治虫著『ブラック・ジャック』9(秋田書店、320円)が刊行された。
表紙カバーの「手塚治虫マンガ家生活30周年記念作品」の表記がなくなり、「恐怖コミックス」の表記が「ヒューマンコミックス」に代わった。

1976年(昭和51年)9月24日ごろ、『野性時代』11月特大号が発売された。
40歳の小林久三(こばやし・きゅうぞう、1935年11月15日~2006年9月1日)著、大西重成(1946年~)イラストレーションの小説『錆びた炎』(500枚)が一挙掲載された。

1976年(昭和51年)11月27日、『週刊少年チャンピオン』1977年(昭和52年)1月1日号(1号)(150円)が発売された。

48歳の手塚治虫著『ブラックジャック』第153話「ある監督の記録」が掲載された。

1977年(昭和52年)1月10日、小林久三著『錆びた炎』(角川書店、980円)が刊行された。
装画は38歳の辰巳四郎(たつみ・しろう、1938年3月24日~2003年11月5日)だ。

1977年(昭和52年)1月17日、『朝日新聞』夕刊に「手塚マンガにクレーム障害者団体など」「「ロボトミーを美化」作者・出版元、非を認める」の記事が掲載された。

記事によると、1976年(昭和51年)末、脳性マヒの障害者らの団体「全国青い芝の会」、「ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会」などが手塚治虫著『ブラックジャック』第153話「ある監督の記録」がロボトミーを美化しているとして、秋田書店に抗議書を送り、手塚治虫の代理人と『週刊少年チャンピオン』の42歳の編集長・壁村耐三(かべむら ・たいぞう、1934年2月21日~1998年12月8日)が抗議者側との話し合いをもった。

1977年(昭和52年)1月23日、午後1時から、東京・蒲田の日港福会館で、「全国青い芝の会」「ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会 」 の二団体と「東京大学精神科医師連合」 の代表が参加して、秋田書店手塚治虫の代理人との話し合いがもたれた。

1977年(昭和52年)1月24日、『朝日新聞』夕刊に、57歳の加藤周一(1919年9月19日~2008年12月5日)「文芸時評(上)」「文学の「密室化」を憂う」が掲載された。

戦後のサルトルやカミュやベケット(は主として芝居を書いたのだが)にくらべても、今日の小説は小ぶりになってきた。そういう小説にも面白味がないのではない。しかし現代の社会の状況とそのなかでの人間の切実な問題を理解するために、小説を主とする文学作品のもつ意味は小さくなろうとしている。現に今日の知的「エリート」の関心の領域の中心は、文学的創作ではないだろう。
 他方文学の研究は、いよいよ実証的・技術的になり、いよいよ瑣末(さまつ)的な部分に詳しい。その意味での「アカデミズム」は、欧・米・日本のどこの大学も栄えていて、同時代の創作家とさえほとんど全く関係のない政界を作っている。いわんやそれが一般の知的公衆の関心をひくことは稀である。創作と研究にあきらかなこのような傾向は、その二つを一括して、文学の「密室化現象」(compartmentalization)とよぶことができるかもしれない。それが一般に文学の株が下がってきたということの内容である。

1977年(昭和52年)2月7日、『朝日新聞』の書評欄に文芸部記者・安間隆次(あんま・りゅうじ)の書評「清張と正史の間:最近の推理小説をめぐって」が掲載された。

 たとえば小林久三著『錆びた炎』(角川書店)などは、最近の目立った例のひとつと いえよう。
 子どもの誘かいを扱ったこの小説は、雑誌発表直後にこれをまねたとも思えるような事件が実際におきて話題を呼び、映画化も進んでいる。だが、作中に 織りこまれた血友病の描写は、現代医学では考えられない内容で、作者の意図するしないは別にして、結果的にはこの病気に対する偏見を助長しかねない恐れ さえあるものだ。
 <入院中の血友病の子どもが誘かいされ犯人は病院長に身代金を要求する。子どもは七十二時間以内に救出して輸血しないと危険>という設定が作品の 冒頭にはめ込まれているが、すでに血友病が命にかかわる病気でなくなっていることは、たとえば東京医科大で扱った三百例のうち死亡者は皆無に近い 事実などでも証明されており、「七十二時間」といった設定など医学的には考えられない、と同医大の専門医も指摘しているほどだ。進んだ治療法や新薬の 開発など無視して<八歳までにその六〇%が出血死>などと無神経な表現を使ったり、“注射禁止の薬の注射”を有効な治療法のように書いたり――それも これも、たとえフィクションの世界であろうと、人間を道具として扱ってもいっこうに恥じない、最近の一部の風潮から生まれた一例にすぎないのかもしれない のだが……。

1977年(昭和52年)2月10日、有力紙五紙に掲載された、秋田書店手塚プロ手塚治虫連名の謝罪訂正文「おわび」を引用する。

 秋田書店発行の週刊少年チャンピオン(一月一日号)に掲載された、手塚治虫作「ブラック・ジャック」第一五三話「ある監督の記録」で描かれたロボトミー手術は、人格を破壊する危険な手術であり、日本精神神経学会で禁止された手術です。このような脳性マヒ者、精神障害者に有害、かつ無益な同手術を肯定したこと。いわば人体実験として行われてきたロボトミー手術を美化し、脳性マヒ者等障害者(精神障害者、身体障害者)を健全者に同化すべきものとして描き、障害者差別を助長したこと。ひいては保安処分を導入する刑法改正を肯定したこと。
 右内容により、脳性マヒ者を含む障害者の方々、及び、ご抗議を受けた「青い芝の会」等関係団体各位に、ご迷惑をおかけしたことを深く反省し、おわび申しあげます。尚今後、障害者差別をなくしていく立場で行動していく所存でございます。

1977年(昭和52年)2月26日、41歳の小林久三原作・脚本、45歳の貞永方久(さだなが・ まさひさ、1931年9月22日~2011年7月14日)監督、43歳の平幹二朗(ひら・みきじろう、1933年11月21日~2016年10月22日)、18歳の原田美枝子(1958年12月26日~)、29歳の梶芽衣子(かじ・めいこ、1947年3月24日~)、54歳の丹波哲郎(たんば・てつろう、1922年7月17日~2006年9月24日)主演の映画劇『錆びた炎』(91分)が公開された。

同時上映は、55歳の橋本忍(はしもと・しのぶ、1918年4月18日~2018年7月19日)脚本、37歳のテレンス・ドノヴァン(Terence Donovan、1936年9月14日~1996年11月22日)監督、38歳の田宮二郎(1935年8月25日~1978年12月28日)主演のイングリッシュ語の映画劇『イエロー・ドッグ』Yellow Dog(101分。初公開:1973年11月8日)のアラン・ターニー(Alan Turney、1938年 - 2006年12月19日)訳の日本語字幕スーパー版だった。

1977年(昭和52年)3月11日、『週刊少年チャンピオン』4月11日号(16号)(150円)が発売された。
48歳の手塚治虫著『ブラック・ジャック』第167話「春一番」が掲載された。

1977年(昭和52年)3月13日、『毎日新聞』日曜版に「「血友病」織り込んだ推理小説 医学界に波紋」「「ひどい誤り」患者抗議 “根拠”の辞典 あわてて書換え」の記事が掲載された。

 江戸川乱歩賞の小林久三氏が書いた推理小説「錆びた炎」(角川書店)のなかで「血友[病]患者の60%は8歳以前に出血死する」などとある記述が「誤りである」と 患者団体の問題になっている。この小説は原作者がプロデューサーとなって映画化、現在松竹系で封切中。著者は本の記述を一部手直しし、松竹側も患者団体が書いた 「御観覧の皆様へ」と題するパンフレットを封切館に置いて客に配ることで、いったん話合いがついたが、若い患者たちの一部が「全く問題が解決されていない」と 抗議を続行。著者の「医学辞典に基づいて書いた」との説明から出版元があわてて辞典の書きかえを始めるなど、波紋は医学界にも及んだ。戦前の常識が存続し、誤解の まま社会的にも通用していた事実が浮彫りにされたことに患者たちは根の深さを感じている。

1977年(昭和52年)3月20日、医学的な誤りの訂正がなされた、小林久三著『錆びた炎』(角川書店、980円)第4版が刊行された。

1977年(昭和52年)3月27日、日本武道館で、18歳の森昌子(1958年10月13日~)、18歳の桜田淳子(1958年4月14日~)、18歳の山口百恵(やまぐち・ももえ、1959年1月17日~)の「花の高三トリオ」の解散コンサート「昌子・淳子・百恵 涙の卒業式〜出発(たびだち)〜」の公演がおこなわれた。

1977年(昭和52年)7月、『週刊少年チャンピオン』8月25日増刊、『ブラック・ジャック総集編(230円)が発売された。
三者三様」(1977年4月18日号)、「ハリケーン」(1976年4月19日号)、「デカの心臓」(1976年2月16日号)、「震動」(1976年9月6日号)、「春一番」(1977年4月11日号)、「最後に残る者」(1976年6月21日号)、「あるスターの死」(1976年8月16日号)、「モルモット」(1977年4月25日号)、「勘当息子」(1977年3月21日号)を収めた。

1977年(昭和52年)11月26日、「ホリ企画」制作、手塚治虫ブラック・ジャック』「春一番」原作、42歳のジェームス三木(1935年6月10日~)脚本、39歳の大林宣彦(おおばやし・のぶひこ、1938年1月9日~2020年4月10日)監督、18歳の片平なぎさ、43歳の宍戸錠(ししど・じょう、1933年12月6日~2020年1月18日)主演の映画劇『瞳の中の訪問者』(100分)が公開された。

併映は、1977年(昭和52年)3月27日に日本武道館での卒業コンサートの根本順善(なもと・まさよし、1935年~)監督の記録映画『昌子・淳子・百恵 涙の卒業式:出発(たびだち)』(51分)だった。

1978年(昭和53年)1月30日、「同時代叢書」、用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会編著『続・「差別用語」』(汐文社、1,300円)が刊行された。
装幀は西口英介だ。
手塚治虫『ブラックジャック』事件」などが取り上げられた。

1978年(昭和53年)8月18日、『週刊少年チャンピオン』9月18日号(39号)(170円)が発売された。

49歳の手塚治虫著『ブラック・ジャック』第229話「人生という名のSL(エスエル)」が掲載された。
これをもって『ブラック・ジャック』第1部が完結した。

1978年(昭和53年)10月、『週刊少年チャンピオン』11月25日増刊号、手塚治虫ブラック・ジャック』特集号(250円)が発売された。
ピノコ・ミステリー」(1978年7月17日号)、「もらい水」(1978年7月24日号)、「やり残しの家」(1976年11月29日号)、「おとうと」(1977年8月15日号)、「殺しがやってくる」(1976年6月28日号)、「ご意見無用」(1977年8月8日号)、「黒潮号メモ」(1978年7月10日号)、「助け合い」(1978年2月6日号)、「命を生ける」(1977年11月28日号)を収めた。

1979年(昭和54年)11月30日、「少年チャンピオン・コミックス」、「ヒューマンコミックス」、手塚治虫著『ブラック・ジャック』20(秋田書店、320円)が刊行された。
虚像」(1979年4月30日号)、「刻印」(1978年8月28日号)、「やり残しの家」、「きたるべきチャンス」(1976年9月13日号)、「夜明けのできごと」(1976年8月23日号)、「殺しがやってくる」、「裏目」(1978年6月5日号)、「ポケットモンキー」(1978年8月21日号)、「台風一過」(1978年9月11日号)、「人生という名のSL」を収めた。

1981年(昭和56年)1月8日、テレビ朝日の毎週木曜日22時~22時54分の枠で、松竹、テレビ朝日加山プロモーション制作、手塚治虫原作、45歳のジェームス三木脚本、43歳の加山雄三(1937年4月11日~)主演の連続テレビ劇『加山雄三のブラック・ジャック』全13話の放映が、58歳の番匠義彰(ばんしょう・よしあき、1922年5月13日~1992年4月12日)監督の第1話「かりそめの愛を」で始まった。

画廊の社長・坂東次郎(ブラック・ジャック)を加山雄三、秘書ケイコを26歳の秋吉久美子(1954年7月29日~)、倉持警部を50歳の藤岡琢也(ふじおか・たくや、1930年9月4日~2006年10月20日)、人造人間のピノコ今井里恵が演じた。

1981年(昭和56年)3月5日、連続テレビ劇『加山雄三のブラック・ジャック』、44歳の山根成之(やまね・しげゆき、1936年6月14日~ 1991年12月27日)監督の血友病を扱った第8話「血がとまらない」が放映された。

1981年(昭和56年)3月18日、大阪・京都・兵庫の3つの血友病患者団体が『加山雄三のブラック・ジャック』第8話「血がとまらない」に対し「血友病の表現などに事実と反する部分があり、一般の人に偏見を抱かせ、患者が進学・就職において無用な差別を受ける恐れがある」と抗議し、この挿話は欠番となった。

1981年(昭和56年)4月9日、連続テレビ劇『加山雄三のブラック・ジャック』、番匠義彰監督の第13話「終電車」が放映された。

1982年(昭和57年)4月3日、『冒険王』5月号(390円)が発売された。
この号から、表紙の誌名の上に「映画とテレビのチャンピオン」の表記が加えられた。

1983年(昭和58年)3月3日、『冒険王』4月特大号(390円)が発売された。
この号をもって『冒険王』の誌名は使われなくなった。

1983年(昭和58年)4月2日、『冒険王』を改題した『TV(テレビ)アニメマガジン』が5月号(創刊号)(390円)で創刊された。
判型はB5からABに変更された。

ビデオ時代の『ブラック・ジャック』

1989年(平成元年)2月9日、午前10時50分、半蔵門病院で、60歳の手塚治虫が亡くなった。

1993年(平成5年)12月21日、日本コロムビアが、手塚プロダクションBJ製作実行委員会制作、手塚治虫ブラック・ジャック』「ハリケーン」原作、49歳の出﨑統(でざき・おさむ、1943年11月18日~2011年4月17日)監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第1話「流氷、キマイラの男」(49分)のVHS(FMVY-3039、税込み5,800円)、『ブラック・ジャック』第2話「葬列遊戯」(50分)のVHS(FMVY-3040、税込み5,800円)、『ブラック・ジャック』第3話「マリア達の勲章」(49分)のVHS(FMVY-3041、税込み5,800円)を発売した。

ブラック・ジャックの声を33歳の大塚明夫(1959年11月24日~)、ピノコの声を28歳の水谷優子(1964年11月4日~2016年5月17日)が演じた。

1995年(平成7年)3月31日、日本コロムビアが、51歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第4話「拒食、ふたりの黒い医者」(51分)のVHS(FMVY-3076、税込み4,800円)を発売した。

1995年(平成7年)5月20日、日本コロムビアが、51歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第5話「サンメリータの鴞(ふくろう)」(51分)のVHS(FMVY-3077、税込み4,800円)を発売した。

1996年(平成8年)3月12日、『野性時代』4月号が発売された。同誌はこの号をもって休刊した。

1996年(平成8年)4月25日、バンダイビジュアルが、手塚治虫原作、41歳の橋本以蔵(1954年2月21日~)脚本、33歳の小中和哉(1963年2月8日~)監督、39歳の隆大介(りゅう・だいすけ、1957年2月14日~2021年4月11日)、30歳の香川照之(1965年12月7日~)主演のビデオ映画劇『ブラック・ジャック』(93分)のVHS(BES-1329、本体16,000円)を発売した。

1996年(平成8年)5月21日、日本コロムビアが、手塚治虫原作、52歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第6話「雪の夜ばなし、恋姫」(52分)のVHS(COVC-4721、税込み4,800円)を発売した。

1996年(平成8年)5月25日、バンダイビジュアルが、手塚治虫原作、42歳の橋本以蔵脚本、33歳の小中和哉監督、39歳の隆大介、7歳の田島穂奈美(1988年11月8日~)主演のビデオ映画劇『ブラック・ジャック2ピノコ愛してる』(80分)のVHS(BES-1380、本体16,000円)を発売した。
ピノコ田島穂奈美が演じた。

1996年(平成8年)6月25日、バンダイビジュアルが、手塚治虫原作、42歳の橋本以蔵脚本、33歳の小中和哉監督、39歳の隆大介、43歳の草刈正雄(くさかり・まさお、1952年9月5日~)主演のビデオ映画劇『ブラック・ジャック3:ふたりの黒い医者』(90分)のVHS(BES-1381、本体16,000円)を発売した。
ドクター・キリコ草刈正雄が演じた。

1996年(平成8年)11月30日、手塚治虫原作、52歳の出﨑統脚本・監督のアニメーション映画劇『ブラック・ジャック』(93分)が公開された。

1998年(平成10年)8月21日、日本コロムビアが、手塚治虫原作、54歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第7話「白い正義」(48分)のVHS(COVC-6174、税込み10,290円)を発売した。

1999年(平成11年)10月25日、バンダイビジュアルが、手塚治虫原作、55歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第8話「緑の想い」(49分)のVHS(BER-214、本体9,800円)を発売した。

2000年(平成12年)2月25日、バンダイビジュアルが、手塚治虫原作、56歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第9話「人面瘡(じんめんそう)」(52分)のVHS(BER-215、本体9,800円)を発売した。

2000年(平成12年)3月31日、TBSの21時~22時54分の枠で、TBS制作、手塚治虫原作、42歳の清水東(しみず・ひがし、1958年1月5日~)脚本、44歳の堤幸彦(つつみ・ゆきひこ、1955年11月3日~)監督、34歳の本木雅弘(もとき ・まさひろ、1965年12月21日~)主演のテレビ劇『ブラック・ジャック』「臓器農場行き幽霊バス」が放映された。
双子のピノコを10歳の中山詩央里(1989年10月16日~)、10歳の中山紗央里(1989年10月16日~)が演じた。
刑事の佐山玲子を29歳の永作博美(ながさく・ひろみ、1970年10月14日~)が演じた。

2000年(平成12年)7月25日、バンダイビジュアルが、手塚治虫原作、56歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第10話「しずむ女」(53分)のVHS(BER-222、本体9.800円)を発売した。

2000年(平成12年)9月29日、TBSの21時~22時54分の枠で、TBS制作、手塚治虫ブラック・ジャック』「タイムアウト」「ブラッククイーン」「BJ入院す」原作、42歳の清水東脚本、44歳の堤幸彦監督、34歳の本木雅弘主演のテレビ劇『ブラック・ジャックⅡ』「天才女医のウェディングドレス」が放映された。
天才女医の高野綾子を27歳の松雪泰子(まつゆき・やすこ、1972年11月28日~ )が演じた。

2001年(平成13年)9月26日、TBSの21時~22時54分の枠で、TBS制作、手塚治虫ブラック・ジャック』「ふたりの黒い医者」「弁があった!」原作、43歳の清水東脚本、45歳の堤幸彦監督、35歳の本木雅弘主演のテレビ劇『ブラック・ジャックⅢ』「悲劇の天才料理人」が放映された。
ドクター・キリコを58歳の森本レオ(1943年2月13日~)が演じた。
政治家の鳩中幸一郎を59歳の大林丈史(おおばやし・たけし、1942年1月24日 ~)が演じた。
級レストラン「マフィーユ」の天才オーナーシェフ赤石誠一郎を56歳の蟹江 敬三(かにえ・けいぞう、1944年10月28日~2014年3月30日)が演じた。

2003年(平成15年)12月22日、讀賣テレビ放送、日本テレビの19時~20時54分の枠で、讀賣テレビ放送手塚プロダクション制作、手塚治虫原作、42歳の手塚眞(てづか・まこと、1961年8月11日~)監督のテレビアニメ『ブラック・ジャック スペシャル命をめぐる4つの奇跡』、吉村元希(よしむら・げんき)脚本「Karte:1」「医者はどこだ!」、31歳の大和屋暁(やまとや・あかつき、1972年7月27日~)脚本「Karte:2」「勘当息子」、吉村元希脚本「Karte:3」「U-18は知っていた」、大和屋暁脚本「Karte:4」「ときには真珠のように」が放映された。

2004年(平成16年)10月11日、よみうりテレビ・日本テレビ系列の毎週月曜日19時~ 19時30分の枠で、よみうりテレビ手塚プロダクション制作、手塚治虫原作、吉村元希シリーズ構成、手塚眞監督のテレビアニメ『ブラック・ジャック』の放映がKarte:00「オペの順番」、Karte:01「消えた針」で始まった。

2005年(平成17年)12月17日、手塚プロダクション制作、手塚治虫原作、千葉克彦脚本、手塚眞監督のアニメーション映画劇『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』(93分)が公開された。
本編の前に、桑原智(くわばら・さとし)演出・監督、竹下景子(1953年9月15日~)ナレーションの短編アニメーション映画劇『Dr.ピノコの森の冒険』(7分)が併映された。

2006年(平成18年)3月6日、テレビアニメ『ブラック・ジャック』「Karte:61」(最終話)「二人のピノコ」が放映された。

2006年(平成18年)4月10日、讀賣テレビ放送・日本テレビ系列の毎週月曜日19時~19時30の枠で、讀賣テレビ放送手塚プロダクション制作、手塚治虫原作、隅沢克之(すみさわ・かつゆき)シリーズ構成、手塚眞監督のテレビアニメ『ブラック・ジャック21』の放映が21-1「医師免許が返る日」で始まった。

2006年(平成18年)7月17日、プロ野球の阪神-巨人戦が雨で中止になり、テレビアニメ『ブラック・ジャック』秘蔵版スペシャルで「ひったくり犬」、「樹海のかまいたち」が放映された。

2006年(平成18年)9月4日、テレビアニメ『ブラック・ジャック21』全17話の放映が21-17「生命(いのち)の尊厳」で終了した。

2009年(平成21年)10月29日、『週刊少年チャンピオン』11月12日号(48号)、手塚治虫生誕80周年、週チャン創刊40周年記念「ブラック・ジャック特集号」(270円)が発売された。
53歳の宮崎克(みやざき・まさる、1956年9月13日~)原作、吉本浩二(1973年~)作画「ブラック・ジャック創作秘話」が掲載された。

2010年(平成22年)7月1日、中央映画貿易が「タキ・コーポレーション」の映像事業を受け継ぐ映画配給・映像ソフト製造販売会社「オデッサ・エンタテインメント」を設立した。

2010年(平成22年)8月20日、「タキ・コーポレーション」が事業を停止した。

2011年(平成23年)4月17日、三鷹市の病院で67歳の出﨑統が亡くなった。

2011年(平成23年)7月8日、20日発行、「少年チャンピオン・コミックス・エクストラ」、宮崎克原作、吉本浩二作画 『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』(秋田書店、本体648円)が発売された。

2011年(平成23年)12月16日、オデッサ・エンタテインメントが、手塚治虫原作、67歳の出﨑統監督のアニメーション・ビデオ劇『ブラック・ジャック』第11話「おとずれた思い出」(50分)、第12話「美しき報復者」(50分)収録の『ブラック・ジャック FINAL【スペシャル・エディション】』の2枚組DVD(THD-20461、税込み6,270円)を発売した。

2013年(平成25年)9月24日、フジテレビの21時~22時48分の枠で、関西テレビ制作、関西テレビ開局55周年記念ドラマ、宮崎克原作、古家和尚(ふるや・かずなお、1977年~)脚本、三宅喜重(みやけ・よししげ、1966年~)演出、草彅剛(くさなぎ・つよし、1974年7月9日~)主演のテレビ劇『神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜』が放映された。

2014年(平成26年)6月12日、『週刊少年チャンピオン』6月26日号(28号)(270円)が発売された。
57歳の宮崎克原作、吉本浩二作画『ブラック・ジャック創作秘話』が完結した。

2014年(平成26年)8月8日、15日発行、「少年チャンピオン・コミックス・エクストラ」、宮崎克原作、吉本浩二作画 『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』5(秋田書店、本体648円)が発売された。

2018年6月28日、『週刊少年チャンピオン』7月12日号(31号)(280 円円)が発売された。
表紙&巻頭カラーで、79歳の水島新司著『ドカベン』の最終章「ドリームトーナメント編」が完結した。

2023年(令和5年)10月6日~11月6日、六本木ヒルズ森タワー52階の東京シティビューで、手塚治虫ブラック・ジャック』50周年を記念して「手塚治虫 ブラック・ジャック展」が開催された。

2023年(令和5年)11月22日、『週刊少年チャンピオン』12月7日号(52号)(340円)が発売された。
表紙・巻頭カラーで、AI×ヒトによる新作読み切り、B・J連載50th 特別企画、手塚治虫原作、TEZUKA2023プロジェクト作「TEZUKA2023ブラック・ジャック 機械の心臓 Heartbeat Mark I」が掲載された。

2024年(令和6年)6月30日、テレビ朝日の21時の枠で、テレビ朝日東映制作、手塚治虫原作、53歳の森下佳子(もりした・よしこ、1971年1月24日~)脚本、48歳の城定秀夫(じょうじょう・ひでお、1975年9月2日~)監督、43歳の高橋一生(たかはし・いっせい、1980年12月9日~)主演のテレビ劇『ブラック・ジャック』が放映される予定だ。
ドクター・キリコを29歳の石橋静河(いしばし・しずか、1994年7月8日~)、獅子面病患者を39歳の松本まりか(1984年9月12日~)が演じる。

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