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サウンドクリエイターがなぜ泣くほど嬉しかったのか
東京2020オリンピックの入場式の行進で
ゲーム音楽のオーケストラが流れた
「これドラクエの曲や!」テレビを見ていて思わず叫んだ
すごい時代になったな~
いつかゲーム音楽が認められる日が来ますように
そう思ってひたすら曲を作り続けていた頃を考えると
それはもう想像を遥かに超えてた
もちろん私の曲などは使われていないけど
ほとんどのゲームサウンドクリエイターのみなさんや
すでに引退はされているけど貢
なぜCAPCOMは女性作曲家が多かったのか
1983年~1990年
他のゲーム会社のサウンドは男性が多かった
各社ゲーム音楽のバンドを作った時期があったが
S.S.T.BANDさんやコナミ矩形波倶楽部さん
ZUNTATAさんなど
殆どが男性中心だったと思う
その中で
なぜかCAPCOMだけは女性中心だった
CAPCOMの開発室が出来たとき
サウンドが必要ということで社長は求人を出した
どこに出したか?
「大阪音楽大学」と「大阪芸術大学」
38年の時を経て戻ってきた曲
今日2021年6月5日
私が38年前に作ったゲーム音楽研究用のデモ曲が
みつかった
元SNKのYoshino Yoshiakiさんが保管してくれていて
押入れの中を探して見つけてくれたのだ
当時のカセットテープの音を
データーにして送ってくれました
このnoteにも書いていた
「サウンドクリエイターへの道」
「無謀な挑戦」の
なかに出てくるオリジナルデモテープ
震える手で任天堂に送ったあの曲たち
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/53942039/square_large_d67bcb12a3b69a6c7a83ac199f706a85.jpg)
1983年にデモ用として作ったPSG音源
業務用コンピューターYHPで16進法で
サウンドドライバなしで直接
数値とコンピューター用語を打ち込んで
作っていた頃
加工一切なし、PSG音源のデーター処理だけで
構成されています
18歳の私との共同作業
なににつけ、”本気でに手に入れたい”と思うのが大事だと
今更ながら思う
19歳のときシンガーソングライターのオーディションを受けたときも
なんとなく応募したらなんとなく受かって
そして最終落ちた
それでも本気で手に入れたいとその時思っていたら
次の年もまた次の年も挑戦したに違いない
「所詮音楽で食っていくなんて無理だな・・・」
たった1回の挑戦で破れて、そう結論を出した若干19歳
それでも音楽は
時代背景とゲーム会社
1983年頃の時代背景
思い出す限り書いてみるその頃のSNKのプログラマーは
背広にネクタイ姿だった
女子社員は開発の人もみんな
事務服が義務付けられていた
ゲームの開発室で紺色の事務服・・・・
似合わなすぎ
どこでいつどう変化したのか
CAPCOMの頃はみんな
ジャージのにゾウリを履いてたなー
しかし、たしか1989年頃
開発室に社長がお客様を連れてきたとき
みんなジャージにゾウリで
恥をかいた
サウンドクリエイターへの道
SNKに入社したとき
「Joyful Road」というゲームがほぼ完成していた
サウンドはまったく音楽のことがわからない
プログラマーの方が必死で楽譜を見て
打ち込んだと聞いた
私が入社してから、そのJoyful Roadの音に
手を加えた記憶もあるが
定かではない
今の時代の若い人たちには想像もつかないだろうか
ネットもメールもない時代
コンピューターと言われる画面は緑の文字一色
数字と英語の
日本のゲーム会社の始まり
開発用コンピューターYHP( 横河ヒューレットパッカード)の
業務用コンピューター。16進法
ドット絵はマス目の入った紙に絵を書いて
打ち込むのときなにもないところはゼロ
色が入るところは1~Fを書き込んでいった。
ガラーンとした開発室の片隅で、ゲームを作るのが初めてのメンバーばかり
もちろん経験者なんているはずもない時代
音楽は16進法で表現。
3ポートの音がなるPSG1個
初めて聞く言葉
ゲーム業界の始まりにいた
1983年、ゲーム会社の歴史の始まりにゲーム会社に就職し
サウンドデザイナーとしてゲームの曲を作ってた。
今また、レトロゲームブームがやってきて
海外から昔のゲームのこと取材受けたりする
そうか・・・・その時代そこに存在し
リアルにその時代を語れるって
もうそんな人、数少なくなってきてるんだ
ゲームサウンドの歴史の生き字引・・・か
なのでここに、ゲーム会社の始まりからサウンドの始まり
どんなふうに