日本のゲーム会社の始まり


開発用コンピューターYHP( 横河ヒューレットパッカード)の
業務用コンピューター。16進法
ドット絵はマス目の入った紙に絵を書いて
打ち込むのときなにもないところはゼロ
色が入るところは1~Fを書き込んでいった。
ガラーンとした開発室の片隅で、ゲームを作るのが初めてのメンバーばかり
もちろん経験者なんているはずもない時代
音楽は16進法で表現。
3ポートの音がなるPSG1個
初めて聞く言葉ばかりだ
いま思うとよくゲーム作れたな・・と

曲はおもちゃのようなポータブルキーボードで作ってから
譜面にし、音階とボリュームの値と音を鳴らす時間を打ち込んでいく。
基本プログラム的考え。
その頃のSNKには作曲用のシステムなどはなかった。
開発室に音担当は私一人。先輩もいなければ後輩もいない。
音のこと知ってる人もいない。
とりあえずPSGの音をハードの基盤から
ONとOFFすることだけは教えてもらった。
マニュアルなんてない
その頃YMOが「ライディーン」の曲で世間を驚かせていた
メンバーの坂本龍一氏がミュージック・マガジンに
音の仕組みとシンセサイザーの音の作り方などを連載していた
そのコラムを切り抜きファイルにしたものと
ナムコのドルアーガの塔の音が教科書だった。
その当時ナムコの音はかなり進んでいてハード面でもソフト面でも
かなりの技術だった。
その音を何度も聞いて分析して実験してをひたすら繰り返す。
それまでコンピューター見たことも触ったこともなかったけど
バンドを組んでたとき、シンセサイザーを使っていたことが役に立った
音を2つ重ねてコーラス効果をつける
音をずらしてリバーブをかけるなど
今では当たり前のことでも、当時、何も知識のなかった私が
そのやり方を発見することは、本当に奇跡に近かった。
もっと専門的知識を持った大学卒の方が音響室に入られている会社もあっただろうけど
概ね日本のゲーム会社のはじまりは
どこの会社もそんな感じだったのかと思う

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